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107 鍵持ってないの?

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 中庭に抜ける廊下沿いに、郵便受けが並んでいた。

 三〇三号室がマーガレットの部屋だ。

 ダイヤル式の錠がかかる郵便受けだった。

 隙間からダイレクトメールやら広告やらがはみ出している。

 何日か留守にしているのは明白だった。

 階段で三階まで昇った。

 中庭に面した踊り場の大きな窓が明かり取りだ。

 白っぽく照らされる埃だらけのコンクリートの階段は、滑り止めがすり減っていて、角が丸くなっていた。

「ここも開発予定に入れるべきだな」声が階段ホールに反響した。

 黒い鉄製の手すりだけはやたらに頑丈だった。

「レトロでいいと思いますけど」二人の足音もトントンと反響する。

「それは管理がしっかりされていればだろう」

「管理組合くらいありますよ。私の所だって……」

 こんな無防備な住まいでは、悪意あるものが襲ってきたら何も防御できない。

 廊下のどこかから子どもの泣き声が聞こえてくる。

 バン、とドアが閉まる音がした。

 廊下の反対側を子どもらしい軽い足音が去って行く。

 三〇三号室のドアの前で二人は立ち止まった。

 一瞬目を合わせてからハルが呼び鈴を押した。

 リーンという音が長く鳴っている気配がするが、反応はなし。

 数回押して見るが応答はなかった。

「いないね」

 ハルはドアを見つめたまま考え込んでいる。

 ホークは隣の三〇四号室の呼び鈴を鳴らしてみた。

「はい、どなた?」

 インターホンを通して、割れて聞き取りにくい女性の声がした。

 かなり年配の女性らしい。

「すみません、お隣の三〇三号室を訪ねて来たのですが、お留守のようなんです。

 マーガレット・ブラウンさんがどこにおでかけか、ご存知かと思いまして」

 一語一語、はっきりと、つとめて明るい声で言った。

 インターホンは無言だった。かなり感じよく聞こえるようにしゃべったつもりだが。

「お隣が知ってると思うんですか?」ハルの大きく見開いた目がこっちを見上げている。

 ホークは肩をすくめた。

 プライバシーが確立した自分のフラットではありえないが、ここの佇まいの感じからすると、一昔前のお隣さん的コミュニティーがなきにしもあらずだと思った。

 しばし神妙な顔をしてそのまま待っていると、ガチャガチャと音がして、重そうなドアが少し開いた。

 小柄で痩せたかなり高齢の婦人が、老眼鏡をかけた目で不思議そうに外の二人を見た。

 尖った三角の顎とレンズのせいで目玉が大きく見えるからか、どことなく昆虫を思わせた。

「鍵持ってないの?」

「鍵? 持ってませんよ」

「あなた方、どなた?」

 ホークは最上級に近い、かなり愛想のいい笑顔で言った。

「アラン・キャンベルと言います。こちらはハル・タキガワ」

 ハルが「こんにちは」と言った。老婦人はシボーンと名乗った。

「僕たち、お隣のブラウンさんの会社の同僚です。きょう、お会いすることになっていたんですけど、お留守なんでしょうか?」

 シボーンの小さな目がパチパチと瞬きした。

 筋ばった手には細かい皺が寄り、染みが列になっている。

「つまり……ここの部屋を使うんじゃないのね?」ロンドンの下町訛りだった。

「マーガレットを訪ねていらしたの?」

「……そうですが」ホークの隣でハルも頷く。

「でも、あの人この間引っ越したわよ」

「えっ?」ホークもハルも同じ反応をした。

「いつですか?」

「どちらへ?」

 シボーンは唇を突き出して首を振った。

「知らないわね。挨拶もなかったし。引っ越し屋が来て、荷物を全部持って行ったわよ」

 引越し屋?

「すみません、マーガレットには、お会いになっていないんですか」

 カマキリのような額に皺が寄った。

「会ってないわね」

「引っ越しの時も?」

 ないない、と首を振る。

「引っ越し屋が彼女の荷物を運び出して行ったから、ああ、引っ越したのね、と思ったのよ」シボーンの目に好奇の色がさした。

「なにかあったの、マーガレット?」幾分声が小さくなった。

 ホークは気がかりな表情を装った。

「あの……最近、彼女の様子に変ったところはありませんでしたか?」

 シボーンはレンズの奥の目を瞬いた。

「変ったところと言えば、いつも早起きだったのに、お昼頃やっと起き出していたわね」

「起きるとわかるんですか」

 ええ、と頷く。

「カーテンを開ける音とか、シャワーを使う音とか、壁が薄いんで、聞こえるのよ」

「じゃあ、誰か訪ねてきたりしていませんでしたか」

「そうねえ、引っ越しの前に来ていたわ」

「男ですか女ですか」

「男の人よ」

「マーガレットのボーイフレンド?」

 シボーンの眉が上がって首をすくめた。

「さあ。違うと思うけど」

「顔を見ましたか」見てない、と首を振る。

「年格好とか、わかります?」

「まあ、若い方だわね。あなたくらいかも」ホークの目を見上げた。

「何を話していたか、聞こえました?」

「そんな、はっきり聞こえないわよ。結構長く話していたけど」

「何の話だったんだろう」ホークはハルを見て、またシボーンを見た。

「すみません、お宅のベランダから、お隣が見えますか」

 シボーンの口が鯉のようにぱっくり開いた。

「そりゃ、見ようと思えば……」

「見せてもらっていいですか?」

「見せてって、そりゃ……」

 確かにずうずうしい。ホークは手で紙袋を差し出した。

「ご一緒に、サンドイッチをいかがです? マーガレットに持って来たんですけど、どうやらいないようだし」

「まあ、そう、じゃあまあ、どうぞ……」

 シボーンは、袋とホークを交互に見ながらドアを更に開いた。
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