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90 弱い奴など必要ない
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「え?」ハルの顔は血の気がなく、いつもの頬の赤みもつやも半減している。
「どうして」
ハルは俯いて何かつぶやいた。
「なんだい?」耳を近づけると、ようやく聞き取れた。
「人事部長に呼ばれて、辞めるしかないって言われたそうです」
「何で人事部長はそんなことを言ったんだ」
「なんか、ミスばかりするので、営業部の信頼を失ったからって」
エディの部屋から出てきたマーガレットの姿が目に浮かんだ。
「何のミスだって言うんだ」
「……細かいことです。辞めた人と入った人の、ヘッドカウントの入り繰りが合わないとか。それがコストの動きをきちんと反映していないとか。誰が誰の替わりで入ったのか、とか」
「例えばおれがロニーの後釜で入ったから、人件費がどう動いたのかとか?」
「はい。半年間空いていましたので、その分浮いていたはずですが、そこがきちんとなっていなかったのかもしれません。キャンベルさんは、前の会社の株の買い取りがありましたけど、ロニーさんにはなかったし」
ハルは畳まれた大きな紙を開いて中を見た。
細かい罫に小さな字で数字がびっしり並んでいる。
「私、マーガレットの業務を引き継いだんです。ミスしたら、マーガレットみたいにクビになるんです」
ホークの手が伸びてハルの肘をつかんだ。
ハルはきょとんとした目を向けた。
「マーガレットに訊きたいことがあったんだ」
「何をですか?」
「連絡先を教えてくれないか」
「個人情報ですから……」ホークは肘を掴んだまま放さない。
「あの、こういう時は、キャンベルさんから質問があることを、私がマーガレットに伝えて、個人情報を教えてもいいと言われたら、教えるんですけど」
トレーダーが一人、廊下を猛然と走って来た。トイレに向かっている。
ハルを促して壁際に寄った。
「ハル、彼女の電話番号を教えてくれ」
「あの、私からマーガレットに言って、向こうからキャンベルさんに電話してもらい……」ホークの目を見てハルは口を噤んだ。
ホークは肘を掴む手に力を入れた。
「彼女はロニーの生命保険の行き先を知っているんだ」
ハルの口が半開きになった。
「キャンベルさん、まだ生命保険のことを……」
「まだ?」先ほどのトレーダーがトイレから出て走って来た。
ホークはハルを壁に押し付けた。片手で投げられそうなくらい軽い身体だ。
「横領の事実を知っていて黙っていたら、同罪になるんだぞ」
ハルの顔が恐怖に歪んだ。
「マーガレットを……訴えるんですか?」
「違うよ」ここが会社の廊下でなければ、頬に触れて安心させてやるのだが。
「手遅れになる前に救済するんだ」
ハルは口を半開きにしたまま固まっていた。
ホークはにっこり笑って肩を軽く叩いた。
「席に戻ったら、住所と電話番号を教えてくれ。メールでもいい」
さあ、戻った方がいいぞ。背中を押してやると、ハルはようやく我に返ったようだった。
昼になり、フロアにいるスタッフがまばらになった。
ホークはエディのオフィスに歩いて行った。
「ちょっといいか」
エディは大きなファイルを手にしてちょうど部屋を出る準備をしていた。
「あと一分でミーティングだ」
「一分あれば十分」ホークはずかずかとエディのオフィスに入って、ドアをバタン! と乱暴に閉めた。
衝撃でガラスの壁が揺れた。
「なんだ?」
「何をしたんだ?」ドアを背にして立ち、エディに訊いた。
エディは怪訝な顔をした。
「何の事だ?」
「人事部のスタッフをクビにしたんだろう」
エディはひたとホークの目を見返した。
「そんなことしていない」
「じゃあ、マーガレットはなんで辞めたんだ」
「自分で辞めたんだろう。本人に訊けばいいじゃないか」
エディはファイルを持ってホークが立つドアから出ようとした。
「どいてくれ」
ホークはエディの腕を掴んだ。
「あんたは人事部長に何を言ったんだ」
エディの目がホークを見下ろした。
「ヘッドカウントのアップデートができていなかった。
誰が辞めて誰がそのあと入ったのか、
どのヘッドカウントが埋まっていて、どれが空いているのか、
去年から引き継いで翌年に予算を持ち越せるのか、
それとも特別に投資すべき部門に回すべきか。
やりくりしている時に、くだらない間違いをされると頭に来る。
人数を合わせるくらい、なんで出来ないんだ。無能にも程がある」
「直せばいいだけのことだろう」
「甘いな、おまえは」
「別に損失を出したわけでもないじゃないか。人が死ぬわけでもあるまいし」
「おまえの言っていることは、規律を甘くするだけで、ためにならない」
「あんたは、弱い者いじめしているようにしか見えないぜ」
エディは、聞くだけで耳が汚れるとでも言いたそうに、蔑みのこもった目つきになった。
「当然だろ。弱い奴など必要ない」
どけよ、と肩を押されたので、ホークは身体を退けた。
「どうして」
ハルは俯いて何かつぶやいた。
「なんだい?」耳を近づけると、ようやく聞き取れた。
「人事部長に呼ばれて、辞めるしかないって言われたそうです」
「何で人事部長はそんなことを言ったんだ」
「なんか、ミスばかりするので、営業部の信頼を失ったからって」
エディの部屋から出てきたマーガレットの姿が目に浮かんだ。
「何のミスだって言うんだ」
「……細かいことです。辞めた人と入った人の、ヘッドカウントの入り繰りが合わないとか。それがコストの動きをきちんと反映していないとか。誰が誰の替わりで入ったのか、とか」
「例えばおれがロニーの後釜で入ったから、人件費がどう動いたのかとか?」
「はい。半年間空いていましたので、その分浮いていたはずですが、そこがきちんとなっていなかったのかもしれません。キャンベルさんは、前の会社の株の買い取りがありましたけど、ロニーさんにはなかったし」
ハルは畳まれた大きな紙を開いて中を見た。
細かい罫に小さな字で数字がびっしり並んでいる。
「私、マーガレットの業務を引き継いだんです。ミスしたら、マーガレットみたいにクビになるんです」
ホークの手が伸びてハルの肘をつかんだ。
ハルはきょとんとした目を向けた。
「マーガレットに訊きたいことがあったんだ」
「何をですか?」
「連絡先を教えてくれないか」
「個人情報ですから……」ホークは肘を掴んだまま放さない。
「あの、こういう時は、キャンベルさんから質問があることを、私がマーガレットに伝えて、個人情報を教えてもいいと言われたら、教えるんですけど」
トレーダーが一人、廊下を猛然と走って来た。トイレに向かっている。
ハルを促して壁際に寄った。
「ハル、彼女の電話番号を教えてくれ」
「あの、私からマーガレットに言って、向こうからキャンベルさんに電話してもらい……」ホークの目を見てハルは口を噤んだ。
ホークは肘を掴む手に力を入れた。
「彼女はロニーの生命保険の行き先を知っているんだ」
ハルの口が半開きになった。
「キャンベルさん、まだ生命保険のことを……」
「まだ?」先ほどのトレーダーがトイレから出て走って来た。
ホークはハルを壁に押し付けた。片手で投げられそうなくらい軽い身体だ。
「横領の事実を知っていて黙っていたら、同罪になるんだぞ」
ハルの顔が恐怖に歪んだ。
「マーガレットを……訴えるんですか?」
「違うよ」ここが会社の廊下でなければ、頬に触れて安心させてやるのだが。
「手遅れになる前に救済するんだ」
ハルは口を半開きにしたまま固まっていた。
ホークはにっこり笑って肩を軽く叩いた。
「席に戻ったら、住所と電話番号を教えてくれ。メールでもいい」
さあ、戻った方がいいぞ。背中を押してやると、ハルはようやく我に返ったようだった。
昼になり、フロアにいるスタッフがまばらになった。
ホークはエディのオフィスに歩いて行った。
「ちょっといいか」
エディは大きなファイルを手にしてちょうど部屋を出る準備をしていた。
「あと一分でミーティングだ」
「一分あれば十分」ホークはずかずかとエディのオフィスに入って、ドアをバタン! と乱暴に閉めた。
衝撃でガラスの壁が揺れた。
「なんだ?」
「何をしたんだ?」ドアを背にして立ち、エディに訊いた。
エディは怪訝な顔をした。
「何の事だ?」
「人事部のスタッフをクビにしたんだろう」
エディはひたとホークの目を見返した。
「そんなことしていない」
「じゃあ、マーガレットはなんで辞めたんだ」
「自分で辞めたんだろう。本人に訊けばいいじゃないか」
エディはファイルを持ってホークが立つドアから出ようとした。
「どいてくれ」
ホークはエディの腕を掴んだ。
「あんたは人事部長に何を言ったんだ」
エディの目がホークを見下ろした。
「ヘッドカウントのアップデートができていなかった。
誰が辞めて誰がそのあと入ったのか、
どのヘッドカウントが埋まっていて、どれが空いているのか、
去年から引き継いで翌年に予算を持ち越せるのか、
それとも特別に投資すべき部門に回すべきか。
やりくりしている時に、くだらない間違いをされると頭に来る。
人数を合わせるくらい、なんで出来ないんだ。無能にも程がある」
「直せばいいだけのことだろう」
「甘いな、おまえは」
「別に損失を出したわけでもないじゃないか。人が死ぬわけでもあるまいし」
「おまえの言っていることは、規律を甘くするだけで、ためにならない」
「あんたは、弱い者いじめしているようにしか見えないぜ」
エディは、聞くだけで耳が汚れるとでも言いたそうに、蔑みのこもった目つきになった。
「当然だろ。弱い奴など必要ない」
どけよ、と肩を押されたので、ホークは身体を退けた。
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