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34 ロニーが使っていたパスワードを知っていますか

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 ジェニファーが重そうな口をようやく開いた。

「……もうすぐ何かが終わるから、それが終わったら結婚しようって、言われていたの。それを婚約と呼べるのなら……」

 ホークは微笑んだ。

「指輪を贈りながらそう言ったのなら、プロポーズですよね」

 ハルが、うんうんと頷いている。

「でも、いつその何かが終わるのか、わからなくて」

「何かって、何ですか」

「何か、プロジェクトみたいだったわ」

「会社のですか」

「そうだと思うわ」

「当時営業で、彼が何かプロジェクトを担当していましたか」

「さあ、私はそこまでは……」

「株式部で起こっていることを、あなたが知らないはずないでしょう」

 ジェニファーが押し黙った。ハルが心配そうな目で見ていた。

 ホークは声のトーンを落とし、意識して穏やかな声音で言った。

「もしかすると、プロジェクトではなくて、ミッションと言ったのではありませんか」

「さあ……そうだったかしら。でも、どうして?」

 危険を承知でサンクトペテルブルクまで赴いたのは、捜査を早く終わらせたかったからだ。

 彼は結婚したかったんだ。家族がほしかったのかもしれない。そして、罠に落ちた。

「二人が婚約するほどの仲だと、二十階のみんなは知っていましたよね」

 ジェニファーはゆっくり頷いた。

「とても隠しておけないわ、あそこでは。シャロンには、結婚退職するの? なんて訊かれていたし」

 シャロン?

「ミケルソンさんの秘書です」と、ハルが耳打ちした。

「その割に、お辞めになる時は、お別れ会もなかったそうですね」

 ジェニファーの視線がさまよった。

「……急だったので」

「具合が悪かったんですか」

「……ええ」

「誰かに会社を辞めろと言われたんですか」

 ゆっくりとジェニファーの視線が戻った。

「いいえ」不思議そうに言った。

「どうしてそんなことを?」

「誰かに後をつけられたり、留守中に誰かが家の中に入ったりしたんでしょう?」

 ジェニファーは困惑したようにハルを見た。

 ハルは更に困ったような顔をしている。

「あれは……私の思い違い、気のせいだったんだと思います」

「どうして?」

「だって別に……何も盗られたわけでもないし、何もなかったし……」

 会社を辞めてロンドンを引き払ったじゃないか、そのせいで。

「どうして警察に相談しなかったんです」

「だってそんな……何も被害がないのに……」

「話し方次第ですよ。婚約者が謎の事故死をしたあと、あなたの周囲に監視者が現れた、とか言えば、きっと警察も動いたはずだ」

 二人がまじまじとホークを見ていた。

「いや、僕ならそういう言い方をするかな、と思って」猫を抱き上げ背中を撫でた。

「ていうか、人をその気にさせるの得意なんで」猫がぴったりホークの胸に張り付き、首筋を舐めた。よけると今度は肩の上に乗ってきた。

「猫、好きなんですね」ジェニファーが言った。

「ええまあ、殆どの動物に好かれるみたいで……」猫の尻尾を顔の前から追いやった。

「ロニーが使っていたパスワードを知っていますか」

 途端にジェニファーの顔が強張こわばった。

「な、なぜ……」

 ホークはにっこり笑った。

「彼から引き継いだファイルがいくつかあって、パスワードがかかっているから開けられないんです」

 ジェニファーの視線は定まらない。

「知らないわ」

「そうですか」ホークはまだ笑顔を続けている。

「僕は色々な事をパメラに頼むので、面倒だから彼女にパスワードも教えていますけど」

 ハルがこっちを向いた。

「駄目です、パスワードの規則違反ですよ! 情報リスク管理部が知ったら大変です」

 ホークは唇の前で指を立て、ハルにウィンクした。

「あなたなら知っているかと思ったんですけど」

 ジェニファーは下を向いている。

「休暇の申請とか、そう、人事部に何か変更届を出す時とか、そういう営業以外の事務的なことを頼むためにね」

 本当にパメラさんに言っちゃったんですか? ハルがまた言った。

 いいから君は気にしないで。Eメールも見れちゃうんですか? そんなことないから……。

「彼のお母さんの名前でした」小さな声でジェニファーが言った。

「お母さん? ロニーにお母さんがいたんですか」

「いいえ。施設のお母さん代わりだった人です。でも、もう亡くなっていて。その人の名前と亡くなった年齢です」

「何て言うんですか」

「エレノア82」

「八十二歳か。大事に思っていたんだな、その人を」

 ジェニファーが顔を上げた。

「でも、どうしてあなたは、そんなことまで知りたいんですか?」

「ファイルが開かないからですよ」

「そんなのITに言えば、やってくれるはずだわ」

「ITに相談したら、全てを知られてしまう。知られたくないことまで」

 ジェニファーの全身が強張った。

「つまり、彼らはファイルの中身を見ることが出来てしまうからね」

 ホークは立ってジェニファーの隣に座った。

 猫は肩に乗ったままだ。

 彼女の背中にそっと手を当てた。

「僕はただ後任として、前任者が何をしたせいであんな死に方をしたのか、知りたいだけなんです」

 ジェニファーの視線がまた定まらなくなった。

「知らない……私は何も知らないわ」

「これ以上何も訊きませんよ。パスワードを教えてくれただけで十分です」

 ハルが心配そうに見ている。

 猫がホークの肩から降りてジェニファーの膝で丸くなった。

「……婚姻登録だけでもしておけばよかった。そうすれば、ロニーのお葬式を私の方でやってあげられたのに。お墓だって、うちの……」

 ジェニファーはティッシュを取って鼻をかんだ。

「ごめんなさい」

 そうしておいてくれさえすれば、生命保険金はどこへも行かず、ジェニファーの口座に支払われただろう。

「そう言えば、エディは二人のことを知らなかったみたいだな」

「あの会社では、一週間も経てば前にいた人のことなんか忘れてしまうわ。私もそうだった」ジェニファーは寂しそうに笑った。

「だから私も忘れないと」

 また泣き始めたジェニファーにハルがティッシュを差し出した。

「この指輪も売ろうと思ったの。でも、出来なくて……」

「売らないでください」ホークが言った。

「誰もロニーを忘れていませんよ。あなたのことも」

「あたしもお兄さんの言う通りだと思うね」

 ドアが開いて、おばあさんがワゴンでお茶のセットを持ってきた。

 ホークは立ってティーカップをテーブルに並べるのを手伝った。

「あたしも婚約者を戦争で亡くしているからね。

 言ったろう、別の人と結婚したけど、もとの婚約者を忘れたことないって。

 今じゃ二人とも亡くなってるから、仲良く写真を並べているよ」

 ホークはおばあさんと目を合わせて、にっこり笑った。

 この家に来たら、ロニーはきっと思っただろう――いいなあ、こういう家族って。

 おばあさんがいて、猫がいて、手入れの必要な庭があって、いつも誰かが誰かの心配をしていて……。

 ロニーがもっとも憧れている家族だ。
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