上 下
31 / 139

31 僕、男が好きなんですよ

しおりを挟む
 マリー・ラクロワについてロニーが書き遺したことは、

「リトアニアの首都の市場でトマシュ・レコフが見初めて、父親に金を払って愛人にした」ことと、

「母親がフランス人なのでフランス風の名前である」こと、

「父親はビリニュスに健在、マリーからの送金で暮らす」

「マリーは義務教育を修了していない」などだった。

 自分名義の取引のことはおろか、トマシュが何をしているのか全く知らないという。

 自分の車でチェルシーのマリー・ラクロワの家まで行った。

 半地下プラス二階の、白漆喰のテラスハウスが続いている通りだ。

 豪華な家だった。

 少し離れた路上のスペースに車を停め、黒い玄関ドアの呼び鈴を鳴らした。

 家政婦が出てくるだろうと思っていたが、ドアを開けたのは本人だった。

「どうぞ、ハンサムな営業マンさん」にっこりと笑う。

 一人なのか。それはまずい。

 腕時計を見た。四十分以内に戻らないと。さっさと話して帰ろう。

 マリー・ラクロワは、プラチナブロンドの髪をふわりとセットしている。

 丸い頬が白く、厚めの大きな唇から白い歯がこぼれた。

 外出の用意をしているところらしく、光沢のある絹のガウンをはおっていた。

 しかしその襟元を見た時、脚が止まった。

 彼女の首に蛇が巻きついていたのだ。

「あらこの子? おとなしいのよ。とても可愛いの」

 一メートル弱はある、シマ柄の蛇だった。

 蛇と目が合った瞬間、嫌な予感がした。赤い縁取りの目がじっと見ている。

 ロニーは書いていなかったぞ、蛇がいるなんて。

 廊下を歩く間、蛇はマリーの首に巻きついたまま、後ろに頭をもたげてホークを見ていた。

 庭に面した明るい居間に通された。

 ベージュ色の毛足の長いカーペットを踏む。

 勧められて革のソファに座った。

 部屋の中がだいぶ暑かったので、一言断って上着を脱いだ。

「この子のために暖かくしているの」

 マリーは蛇の胴を撫でた。

 壁の暖炉の上に船の写真が置かれている。

 乗っているのはマリー・ラクロワとロマネスクの社長トマシュ・レコフだ。

「クルーザーをお持ちなんですね」

 ホークは愛想笑いを浮かべた。

「これはどちらに行った時の写真ですか?」

「イビサ島よ」マリーはにっこり笑った。

「楽しかったわ。でもあたし、泳げないの。みんなは海で泳いでいたけど」

「みんな?」

「アンドレとか、トマシュの会社の人たち」

「すると会社の船ですか?」写真に顔を近づけてみたが、船の名前は写っていなかった。

「名前はなんですか?」

 マリーは眉を顰めた。

「誰の名前ですって?」

 船を “彼女“ と呼んだので、誤解したらしい。

「船の名前ですよ」

 ああ……と、マリーは半分目蓋を閉じて横目でホークを見た。

「ベアトリーチェ」

 赤いふっくらした唇が、肉惑的に動いてそう答えた。

 ホークはさっとソファに戻った。

 事務的な手つきでA3の紙の束をテーブルの上にドサリと広げる。

 全契約書の取引残高表をプリントアウトしたものだ。

 問題の数字を指さして、説明した。

 不足金額は、十万五千四百二十九ポンド五十二ペンスである。

「あたし、そういった難しいことは何もわからないの」

「……リスクに関することは、最初に御契約をいただいた時に、一度説明させていただいております――僕の、前任者ですが」

「あなたの前任者?」

「ロニー・フィッシャーです」

 ああ……マリーの口が丸く開いた。

「あの、おじさん」

 おじさん? ロニーは三十五歳だったが。

「事故で亡くなったらしくて」

「ええそうよ。そうだったわ……かわいそうに」

 舌をチロチロと出している蛇の頭に目を向け、愛おしそうに撫でる。

「トマシュにとっても気に入られていたのよ、あの人」

「サンクトペテルブルクに、招かれて行ったんですよね」

「ええ。トマシュが招いたの。是非本社を見てほしいって」

 マリーが腕を上げて髪に手をやった。

 ガウンの大きく開いた袖口から胸が片方見えた。

「驚かれたでしょう、事故に遭ったと聞いて」

「あたしはここにいたから、よく知らないけど……」

「ロニーはここへもお邪魔していましたか」

「そうね……何かサインがいる時とか……トマシュがいる時だけよ」

 別にトマシュの留守を狙ったわけじゃない。

「すぐおいとまします。こちらの金額をすぐご送金いただけますか」

 マリーはちらとホークの指さす数字に目をやり、長い睫毛を上げてホークを見た。

「トマシュに話さないといけないわ」

「じゃ、電話していただけますか」

「いいけど、彼今イスタンブールに行ってるから、つかまらないかも」

「なんとかつかまえて下さい。お願いします」

 マリーはソファに横座りし、脚を組んだ。

 ガウンの裾から片方の脚が太腿まで丸見えになった。

 太腿を無視して言った。

「お願いします、電話して下さい」

「ねえ、そんなつまんないことばかり言ってないで、何か楽しいこと話してくれない?」

「そう言われましても、仕事なので」

「お仕事だけなの?」

 無視して目を見続けた。

 マリーの首からそろそろと降りてきた蛇が、太腿を伝ってテーブルの上に跳ね降りた。

 ホークは思わずテーブルの上に乗り出していた姿勢を起こし、背もたれに寄りかかった。

「じゃ、トマシュに電話するから、その間この子見ていて」

 細く小さな舌がちらっと見えた。目の真ん中は青みがかった黒だ。

「……ケージに入れませんか」

「駄目よ。今、外をお散歩する時間なの」

 マリーは立ちあがって隣の部屋に向かう。寝室に携帯が置いてあるのだ。

「大丈夫、その子はお行儀がいいの。驚かさなければ悪いことはしないわ」

 蛇がスルスルとテーブルの上を進んで、頭をもたげホークの顔を見た。

 二股に分かれた赤い舌が、ちょろちょろ伸びたり縮んだりしている。

 来るな――こっちに来るな!

 ソファを立とうかと迷った。

 そのせいで逃げるタイミングを逸してしまった。

 蛇がテーブルからホークの膝に飛びつき、腿から腕に乗った。

「な……」

 蛇が腕に巻き付いた。

 肩口まで頭が登ってきた。

 あっという間に顔の高さまで登って、首に頭をぶつけてきた。

 どうしろって言うんだ? 

 首の後ろに胴が当たっている。

 首に縄を掛けられたみたいだ。

「ねえ、そういえば口座番号がわからないわ」マリーが隣の部屋から携帯を持ったまま戻ってきた。

「あら、あなたのこと気に入ったみたいね」

 ホークは、取引明細書に手を伸ばした。

「口座番号はここにあります」

 伸ばした腕を戻した時、脇の下に蛇の頭を挟んでしまった。

 次の瞬間、右腕に痛みが走った――細かいピンをたくさん刺されたような……

 ハッと息を呑んで腕を見ると、脇の下近くを、蛇が顎を九十度に開けて噛みついていた。

 上下の顎を前後にずらす。

 そのたびに歯がくいこんでいく。

「あら、大変!」マリーが駆け寄ってきた。

 彼女は蛇をあやしながら、ホークの腕からはぎとった。

 皮膚が一緒に剥がれたかと思った。

 こらえきれずに顔をしかめた。

「ごめんなさい。あなたが動いたからびっくりしたのよ。でも毒はないから」

 毒? シャツの袖に、血が点々と列になって滲んでいる。

「お腹がすいているんだわ、きっと」

 なんだって……?

「まあ、こんなに血が……」

 銃があったら蛇の頭を撃っていたかもしれない。

「先に送金して下さい」

「手当しないと」

「大丈夫です。救急箱ありますか?」

「どこかにあると思うけど……」

「なければ生理用ナプキンでも」

 マリーが目を大きく見張った。

「なんですって?」

「止血するためです。ありませんか?」

 マリーがバスルームからナプキンを持ってきた。

 不審者を見るような目つきだ。

「これです、ありがとうございます」

 シャツをはだけて片袖を脱いだ。

 マリーがじっと見ていた。

 嬉しそうに人の裸を見ているのが癪に障る。

 しかたない、これも十万ポンドの追加証拠金のためだ。

 ナプキンで押さえた上からハンカチできつく縛った。

「本当にごめんなさいね」
 
「大丈夫です。送金できました?」

「したわよ」

 シャツのボタンをとめ、ネクタイを締め直した。

 袖についた血が気になるので上着を着た。

「お詫びにディナーに御招待するわ」

「いえ、それは……」

 マリーが玄関に向かう廊下で行く手を遮るように立っている。

「今夜は空いてる?」

「すみません、もう行かないと」

「だめよ。帰らないで」

 あくまでも通さない気だ。

「僕、男が好きなんですよ」

 やっと通してもらえた。


 車に乗ってから、ブラックベリーですぐ資金決済担当者にメールを送った――送金は明日付で到着する。

 マリー・ラクロワのことを「皇帝のヘビ女」と書いた。

 それから――本来こっちが本業のはずだ――カルロにもメールで、ロマネスクから送金があることを伝えた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

生きている壺

川喜多アンヌ
ホラー
買い取り専門店に勤める大輔に、ある老婦人が壺を置いて行った。どう見てもただの壺。誰も欲しがらない。どうせ売れないからと倉庫に追いやられていたその壺。台風の日、その倉庫で店長が死んだ……。倉庫で大輔が見たものは。

極上の一夜で懐妊したらエリートパイロットの溺愛新婚生活がはじまりました

白妙スイ@書籍&電子書籍発刊!
恋愛
早瀬 果歩はごく普通のOL。 あるとき、元カレに酷く振られて、1人でハワイへ傷心旅行をすることに。 そこで逢見 翔というパイロットと知り合った。 翔は果歩に素敵な時間をくれて、やがて2人は一夜を過ごす。 しかし翌朝、翔は果歩の前から消えてしまって……。 ********** ●早瀬 果歩(はやせ かほ) 25歳、OL 元カレに酷く振られた傷心旅行先のハワイで、翔と運命的に出会う。 ●逢見 翔(おうみ しょう) 28歳、パイロット 世界を飛び回るエリートパイロット。 ハワイへのフライト後、果歩と出会い、一夜を過ごすがその後、消えてしまう。 翌朝いなくなってしまったことには、なにか理由があるようで……? ●航(わたる) 1歳半 果歩と翔の息子。飛行機が好き。 ※表記年齢は初登場です ********** webコンテンツ大賞【恋愛小説大賞】にエントリー中です! 完結しました!

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

【完結】家族にサヨナラ。皆様ゴキゲンヨウ。

くま
恋愛
「すまない、アデライトを愛してしまった」 「ソフィア、私の事許してくれるわよね?」 いきなり婚約破棄をする婚約者と、それが当たり前だと言い張る姉。そしてその事を家族は姉達を責めない。 「病弱なアデライトに譲ってあげなさい」と…… 私は昔から家族からは二番目扱いをされていた。いや、二番目どころでもなかった。私だって、兄や姉、妹達のように愛されたかった……だけど、いつも優先されるのは他のキョウダイばかり……我慢ばかりの毎日。 「マカロン家の長男であり次期当主のジェイコブをきちんと、敬い立てなさい」 「はい、お父様、お母様」 「長女のアデライトは体が弱いのですよ。ソフィア、貴女がきちんと長女の代わりに動くのですよ」 「……はい」 「妹のアメリーはまだ幼い。お前は我慢しなさい。下の子を面倒見るのは当然なのだから」 「はい、わかりました」 パーティー、私の誕生日、どれも私だけのなんてなかった。親はいつも私以外のキョウダイばかり、 兄も姉や妹ばかり構ってばかり。姉は病弱だからと言い私に八つ当たりするばかり。妹は我儘放題。 誰も私の言葉を聞いてくれない。 誰も私を見てくれない。 そして婚約者だったオスカー様もその一人だ。病弱な姉を守ってあげたいと婚約破棄してすぐに姉と婚約をした。家族は姉を祝福していた。私に一言も…慰めもせず。 ある日、熱にうなされ誰もお見舞いにきてくれなかった時、前世を思い出す。前世の私は家族と仲良くもしており、色々と明るい性格の持ち主さん。 「……なんか、馬鹿みたいだわ!」 もう、我慢もやめよう!家族の前で良い子になるのはもうやめる! ふるゆわ設定です。 ※家族という呪縛から解き放たれ自分自身を見つめ、好きな事を見つけだすソフィアを応援して下さい! ※ざまあ話とか読むのは好きだけど書くとなると難しいので…読者様が望むような結末に納得いかないかもしれません。🙇‍♀️でも頑張るます。それでもよければ、どうぞ! 追加文 番外編も現在進行中です。こちらはまた別な主人公です。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

処理中です...