116 / 139
116 キャンベルさんのことが、わからなくなりました。
しおりを挟む
翌朝は、不動産屋に行くことにした。
ハルの母親のフライトは夕方着く。
よく眠れなかったのか、ハルの顔色は白っぽい。
髭を剃っているホークの横で、小さなポーチの中からコンパクトやアイラインを取り出して使っている。
「おはよう」と言っても、なんとなく上の空なのか、ぼーっとしていた。
フラットには何も食べるものがない。近くのカフェに行こう、とホークが言った。
ハルはバタバタとスーツケースの中に荷物を詰め込んで蓋を閉めている。
外に出ると、通りは昨夜の事件の跡かたもなく、穏やかな日曜日の往来を取り戻していた。
張り込みの黒いセダンはもういない。
パブとは逆方向のカフェに向かった。
ハルは、心なしか昨日より距離を空けてついてくる。
突然立ち止まった。
「どうしたの、ハル?」ホークはハルが引きずっているスーツケースを持った。
「キャンベルさんのことが、わからなくなりました」
「そんなの僕だってわからないよ」
「え?」
「自分史上初めてだ。女の子と一晩一緒にいて、何もなかったのは」
「何言ってるんですか」大股で歩くホークにハルは小走りで追いついた。
「婚約者がいるのに」
「それで怒っているのかと思ったよ」
「ありえません!」
ホークは苦笑した。
「……あー、傷ついた」
「もう、私帰ります!」
「どこに?」
「……」
カフェでホークはベーコンや目玉焼き、フライドトマトにビーンズなどをフルオーダーした。
ハルはヨーグルトとバナナ、オレンジジュースとカフェオレを持ってきた。
いつもホークが「光合成してる」と言うやつだ。
「不動産屋でマーガレットがどこに引っ越したのか訊いてみよう」
「はい」
「どの辺りに引っ越そうと思っているの?」
「家賃を払えるところです」
「もっと会社の近くにしたらどう」
「そういうところは高いので」
「じゃあ、せめて僕のところの近くにしたら」
「この辺も高いです」
「探せばきっとあるよ」
ハルはムッと唇を結んだ。
「無理です。私のお給料いくらか知ってるんですか」
「知らないよ。守秘義務とかがあるんだろう」
「キャンベルさんの四分の一くらいです。ボーナス合わせたら十五分の一以下です。だから無理……」
ホークはすっと手を伸ばし、ハルの唇についていたミントの葉を取った。
ハルが目を丸くする。
「僕が提案することは、みんな気に入らないんだな」
「そうじゃなくて……」
「ゆうべ、あまりかまってあげられなかったし」
「だから、そんなこといいんです」
「ああ……止めを刺された」ホークは片手で胸を押さえた。
「知りませんよ、もう」
その不動産屋は、忙しい勤め人のために週末も営業していた。
そのかわり月曜と火曜が定休日とドアに書かれていた。
ハルがLB証券の社員だと言って紹介された担当者に、マーガレットのことを訊いた。
「いいえ、ブラウンさんは、解約をしていませんよ」
エレファント・キャッスルのアパートの借主はまだマーガレットのままで、家賃が半年分振り込まれているとのことだった。
近所の話では、マーガレットは引っ越していて、部屋は別の人達が使っているようだったとホークが言うと、窓口の女性は驚いていた。
「それは、契約違反です」
契約している管理人に様子を見てもらうよう手配する、とその女性は言った。
「この人部屋を探しているんですけど、今日から入れるお勧めの物件、あります?」ホークはハルの肩に手を置いて言った。
「ご予算とエリアはどのあたりですか?」
「治安のいい場所で、セキュリティのいい物件というと?」
担当者が眉間に皺を寄せた。
「ご予算がわかりませんので、その条件だけですと……」
いくつか出された物件の中で、ハルが予算内だと言ったのは、ノッティングヒル界隈の五階建てアパートだった。
ちょっと古いが管理人常駐、最寄り駅はホーランド・パークだ。
管理人と言うのがその建物の持ち主の未亡人で、玄関は共同、貸している部屋は全部で三部屋。
未亡人の家具がそのまま入っているので使えるし、自分の家具を持ってきてもよい。
地下鉄一本で会社のあるバンクの駅にも通えるし、ベイズウォーターの近くでもある。
「それがいい。僕が入りたいくらいだ」ホークが言った。
「高いです」
「いや、これがいい。見に行こう」
「私のアパートですよ」
「わかってるよ」
担当者は、二人のどちらに従うべきか目を左右に動かしていたが、ホークに促されて管理人に連絡を入れた。
「未亡人って、美人かな」
信じられない! ハルがそっぽを向いた。
ハルの母親のフライトは夕方着く。
よく眠れなかったのか、ハルの顔色は白っぽい。
髭を剃っているホークの横で、小さなポーチの中からコンパクトやアイラインを取り出して使っている。
「おはよう」と言っても、なんとなく上の空なのか、ぼーっとしていた。
フラットには何も食べるものがない。近くのカフェに行こう、とホークが言った。
ハルはバタバタとスーツケースの中に荷物を詰め込んで蓋を閉めている。
外に出ると、通りは昨夜の事件の跡かたもなく、穏やかな日曜日の往来を取り戻していた。
張り込みの黒いセダンはもういない。
パブとは逆方向のカフェに向かった。
ハルは、心なしか昨日より距離を空けてついてくる。
突然立ち止まった。
「どうしたの、ハル?」ホークはハルが引きずっているスーツケースを持った。
「キャンベルさんのことが、わからなくなりました」
「そんなの僕だってわからないよ」
「え?」
「自分史上初めてだ。女の子と一晩一緒にいて、何もなかったのは」
「何言ってるんですか」大股で歩くホークにハルは小走りで追いついた。
「婚約者がいるのに」
「それで怒っているのかと思ったよ」
「ありえません!」
ホークは苦笑した。
「……あー、傷ついた」
「もう、私帰ります!」
「どこに?」
「……」
カフェでホークはベーコンや目玉焼き、フライドトマトにビーンズなどをフルオーダーした。
ハルはヨーグルトとバナナ、オレンジジュースとカフェオレを持ってきた。
いつもホークが「光合成してる」と言うやつだ。
「不動産屋でマーガレットがどこに引っ越したのか訊いてみよう」
「はい」
「どの辺りに引っ越そうと思っているの?」
「家賃を払えるところです」
「もっと会社の近くにしたらどう」
「そういうところは高いので」
「じゃあ、せめて僕のところの近くにしたら」
「この辺も高いです」
「探せばきっとあるよ」
ハルはムッと唇を結んだ。
「無理です。私のお給料いくらか知ってるんですか」
「知らないよ。守秘義務とかがあるんだろう」
「キャンベルさんの四分の一くらいです。ボーナス合わせたら十五分の一以下です。だから無理……」
ホークはすっと手を伸ばし、ハルの唇についていたミントの葉を取った。
ハルが目を丸くする。
「僕が提案することは、みんな気に入らないんだな」
「そうじゃなくて……」
「ゆうべ、あまりかまってあげられなかったし」
「だから、そんなこといいんです」
「ああ……止めを刺された」ホークは片手で胸を押さえた。
「知りませんよ、もう」
その不動産屋は、忙しい勤め人のために週末も営業していた。
そのかわり月曜と火曜が定休日とドアに書かれていた。
ハルがLB証券の社員だと言って紹介された担当者に、マーガレットのことを訊いた。
「いいえ、ブラウンさんは、解約をしていませんよ」
エレファント・キャッスルのアパートの借主はまだマーガレットのままで、家賃が半年分振り込まれているとのことだった。
近所の話では、マーガレットは引っ越していて、部屋は別の人達が使っているようだったとホークが言うと、窓口の女性は驚いていた。
「それは、契約違反です」
契約している管理人に様子を見てもらうよう手配する、とその女性は言った。
「この人部屋を探しているんですけど、今日から入れるお勧めの物件、あります?」ホークはハルの肩に手を置いて言った。
「ご予算とエリアはどのあたりですか?」
「治安のいい場所で、セキュリティのいい物件というと?」
担当者が眉間に皺を寄せた。
「ご予算がわかりませんので、その条件だけですと……」
いくつか出された物件の中で、ハルが予算内だと言ったのは、ノッティングヒル界隈の五階建てアパートだった。
ちょっと古いが管理人常駐、最寄り駅はホーランド・パークだ。
管理人と言うのがその建物の持ち主の未亡人で、玄関は共同、貸している部屋は全部で三部屋。
未亡人の家具がそのまま入っているので使えるし、自分の家具を持ってきてもよい。
地下鉄一本で会社のあるバンクの駅にも通えるし、ベイズウォーターの近くでもある。
「それがいい。僕が入りたいくらいだ」ホークが言った。
「高いです」
「いや、これがいい。見に行こう」
「私のアパートですよ」
「わかってるよ」
担当者は、二人のどちらに従うべきか目を左右に動かしていたが、ホークに促されて管理人に連絡を入れた。
「未亡人って、美人かな」
信じられない! ハルがそっぽを向いた。
1
お気に入りに追加
94
あなたにおすすめの小説
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
最近、夫の様子がちょっとおかしい
野地マルテ
ミステリー
シーラは、探偵事務所でパートタイマーとして働くごくごく普通の兼業主婦。一人息子が寄宿学校に入り、時間に余裕ができたシーラは夫と二人きりの生活を楽しもうと考えていたが、最近夫の様子がおかしいのだ。話しかけても上の空。休みの日は「チェスをしに行く」と言い、いそいそと出かけていく。
シーラは夫が浮気をしているのではないかと疑いはじめる。
私が愛しているのは、誰でしょう?
ぬこまる
ミステリー
考古学者の父が決めた婚約者に会うため、離島ハーランドにあるヴガッティ城へと招待された私──マイラは、私立探偵をしているお嬢様。そしてヴガッティ城にたどり着いたら、なんと婚約者が殺されました!
「私は犯人ではありません!」
すぐに否定しますが、問答無用で容疑者にされる私。しかし絶対絶命のピンチを救ってくれたのは、執事のレオでした。
「マイラさんは、俺が守る!」
こうして私は、犯人を探すのですが、不思議なことに次々と連続殺人が起きてしまい、事件はヴガッティ家への“復讐”に発展していくのでした……。この物語は、近代ヨーロッパを舞台にした恋愛ミステリー小説です。よろしかったらご覧くださいませ。
登場人物紹介
マイラ
私立探偵のお嬢様。恋する乙女。
レオ
ヴガッティ家の執事。無自覚なイケメン。
ロベルト
ヴガッティ家の長男。夢は世界征服。
ケビン
ヴガッティ家の次男。女と金が大好き。
レベッカ
総督の妻。美術品の収集家。
ヴガッティ
ハーランド島の総督。冷酷な暴君。
クロエ
メイド長、レオの母。人形のように無表情。
リリー
メイド。明るくて元気。
エヴァ
メイド。コミュ障。
ハリー
近衛兵隊長。まじめでお人好し。
ポール
近衛兵。わりと常識人。
ヴィル
近衛兵。筋肉バカ。
クライフ
王立弁護士。髭と帽子のジェントルマン。
ムバッペ
離島の警察官。童顔で子どもっぽい。
ジョゼ・グラディオラ
考古学者、マイラの父。宝探しのロマンチスト。
マキシマス
有名な建築家。ワイルドで優しい
ハーランド族
離島の先住民。恐ろしい戦闘力がある。
王女の中身は元自衛官だったので、継母に追放されたけど思い通りになりません
きぬがやあきら
恋愛
「妻はお妃様一人とお約束されたそうですが、今でもまだ同じことが言えますか?」
「正直なところ、不安を感じている」
久方ぶりに招かれた故郷、セレンティア城の月光満ちる庭園で、アシュレイは信じ難い光景を目撃するーー
激闘の末、王座に就いたアルダシールと結ばれた、元セレンティア王国の王女アシュレイ。
アラウァリア国では、新政権を勝ち取ったアシュレイを国母と崇めてくれる国民も多い。だが、結婚から2年、未だ後継ぎに恵まれないアルダシールに側室を推す声も上がり始める。そんな頃、弟シュナイゼルから結婚式の招待が舞い込んだ。
第2幕、連載開始しました!
お気に入り登録してくださった皆様、ありがとうございます! 心より御礼申し上げます。
以下、1章のあらすじです。
アシュレイは前世の記憶を持つ、セレンティア王国の皇女だった。後ろ盾もなく、継母である王妃に体よく追い出されてしまう。
表向きは外交の駒として、アラウァリア王国へ嫁ぐ形だが、国王は御年50歳で既に18人もの妃を持っている。
常に不遇の扱いを受けて、我慢の限界だったアシュレイは、大胆な計画を企てた。
それは輿入れの道中を、自ら雇った盗賊に襲撃させるもの。
サバイバルの知識もあるし、宝飾品を処分して生き抜けば、残りの人生を自由に謳歌できると踏んでいた。
しかし、輿入れ当日アシュレイを攫い出したのは、アラウァリアの第一王子・アルダシール。
盗賊団と共謀し、晴れて自由の身を望んでいたのに、アルダシールはアシュレイを手放してはくれず……。
アシュレイは自由と幸福を手に入れられるのか?
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
【完】あの、……どなたでしょうか?
桐生桜月姫
恋愛
「キャサリン・ルーラー
爵位を傘に取る卑しい女め、今この時を以て貴様との婚約を破棄する。」
見た目だけは、麗しの王太子殿下から出た言葉に、婚約破棄を突きつけられた美しい女性は………
「あの、……どなたのことでしょうか?」
まさかの意味不明発言!!
今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!!
結末やいかに!!
*******************
執筆終了済みです。
ボクが追放されたら飢餓に陥るけど良いですか?
音爽(ネソウ)
ファンタジー
美味しい果実より食えない石ころが欲しいなんて、人間て変わってますね。
役に立たないから出ていけ?
わかりました、緑の加護はゴッソリ持っていきます!
さようなら!
5月4日、ファンタジー1位!HOTランキング1位獲得!!ありがとうございました!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる