89 / 139
89 マーガレット、辞めちゃったんです。
しおりを挟む
あの脅しがあってから、Z4に何かが接触して携帯が警告で振動することが度々あった。
大抵は、駐車場でたまたま隣に車を停めた誰かが、自分の車に乗ろうとして接触する。
あれ以来路上に駐車したことはないので、そのうち警告音にも慣れてしまい、まったく警告の意味を成さなくなりそうだった。
自宅へ侵入を試みた形跡もない。
エレベーターも、その階の住人しか降りられないシステムだから、そう簡単に住居のあるフロアにまでは侵入できないはずだ。
以前駐車場で待ち伏せされたのは、誰かの車が帰ってきて、シャッターが上がった瞬間に車の後ろから走りこんだのに違いない。
しかし駐車場から先へは、誰かを脅してカードキーを取り上げない限り、住居に続くエレベーターで上階へ行くことはできない。
だが相手が誰であるにせよ、忘れるはずはない。
一度「殺そう」と思ったからには、必ず襲ってくる。
素手で応戦しきれないかもしれないので、拳銃を手元に置くことにした。
車に乗るときは鍵のかかるコンパートメントに入れた。
翌日は、東ヨーロッパの小国の情勢緊迫化に伴って、スイスフランが急騰していた。
ユーロは下がり、欧州株は下がった。円は上がり、日本株は下がった。
先物に大きな売りが出たせいだった。
ジョルジオの仕掛けた売りも一役買っているらしかった。
中には『セブンオークス』の取引もあるはずだ。
とかく気の短いロマネスクのアンドレ・ブルラクは、大量に保有する日本株が下がるのを見ると、我慢が出来ない。
その日は銀行株を手じまいたくなったらしく、朝方すぐに「売る」と言って来た。
そのオーダーを受けるついでに、DAXの先物を買わないかと訊いてみた。
アンドレは「おもしろいな」と言って、かなりまとまった枚数の買いを決めた。
このところ疎遠だったことを考えると、すんなり受けられたのが不思議なくらいだった。
日本株の取引は、手数料を東京の担当者と分けなければならない。
もう何度もやっているが、タック・ヤマグチとマキ・イトウだ。
彼らにメールを書いて、夜マキに電話することを忘れないよう、アウトルック・カレンダーに予定を入れておいた。
現物株は値下がりしていたが、DAXの先物は順調に買われていた。
ライアンが言った通りだ。
市場のメカニズムは自分にはわからないし、予測もできない。
エディのオフィスは朝からずっとドアが閉まったままで、中でエディがパソコンの画面を見ながら誰かに電話していた。
イーサンによると、ボーナスの数字が固まるのは発表の前日くらいらしい。
それまでは上がったり下がったりする。
足りないと言っては、誰かを減らして誰かに付けかえる。
ひどい時は全員一律何割か減らして、全体を調整したりするという。
皆の予想では、去年よりはましだと思っているがさほどいいわけじゃない。
せいぜい五パーセントアップくらいだ。
しかしそれも業績評価で付けられた五段階のレーティングに連動して、パーセンテージが決められる。
5が最高だとして4、3、それ以下の二つの点が付いた奴はゼロボーナス、更にひどいと一番下はクビになる。
ホークはジェイミー・トールマンとの業績評価ミーティングの時に言われたレーティングを思い出した。
確か、上から二番目だった。
「一番上が付く奴はいるのか?」イーサンに訊いた。
イーサンは、ぐいっと身を乗り出してホークの耳に囁いた。
「ジョルジオくらいだ」
ふとフロアの隅を歩いてくる人影に気づいた。
黒いスーツを着たやせっぽちの女――ハルだった。
なんだかよれよれと、アイロンの効いていないスーツのせいなのか、ふらついた足取りに見える。
ハルは折りたたんだ大きな紙を片手に持ち、もう一方の手に計算機とマーカーペンの束を持っていた。
よろよろとエディのオフィスのドアにたどり着くと、ノックして中に入った。
「いつもの太った姉ちゃんじゃないな」イーサンが言った。
ホークが客との電話を一本かけている間も、ずっとエディのドアは開かなかった。
三十分ほど経ったころようやくドアが開き、来たときと同じようにハルはよろよろと出てきた。
ちょうど電話の切れ目だったので、トイレに行く振りをして席を立った。
パメラが顔を上げた――が、言うべきことが何も思い浮かばず、無言で通り過ぎた。
ハルは廊下にいた。大きな紙をたたみ直していたが、計算機を床に落とした。
「大丈夫?」ホークはさっと計算機を拾って差し出した。
「キャンベルさん……」いつもの半分以下のか細い声だった。
目の下に隈のようなものができている。
「今日はどうしたんだ、なんでマーガレットじゃなくて、君が来たんだ?」
「だって……マーガレット、辞めちゃったんです」
大抵は、駐車場でたまたま隣に車を停めた誰かが、自分の車に乗ろうとして接触する。
あれ以来路上に駐車したことはないので、そのうち警告音にも慣れてしまい、まったく警告の意味を成さなくなりそうだった。
自宅へ侵入を試みた形跡もない。
エレベーターも、その階の住人しか降りられないシステムだから、そう簡単に住居のあるフロアにまでは侵入できないはずだ。
以前駐車場で待ち伏せされたのは、誰かの車が帰ってきて、シャッターが上がった瞬間に車の後ろから走りこんだのに違いない。
しかし駐車場から先へは、誰かを脅してカードキーを取り上げない限り、住居に続くエレベーターで上階へ行くことはできない。
だが相手が誰であるにせよ、忘れるはずはない。
一度「殺そう」と思ったからには、必ず襲ってくる。
素手で応戦しきれないかもしれないので、拳銃を手元に置くことにした。
車に乗るときは鍵のかかるコンパートメントに入れた。
翌日は、東ヨーロッパの小国の情勢緊迫化に伴って、スイスフランが急騰していた。
ユーロは下がり、欧州株は下がった。円は上がり、日本株は下がった。
先物に大きな売りが出たせいだった。
ジョルジオの仕掛けた売りも一役買っているらしかった。
中には『セブンオークス』の取引もあるはずだ。
とかく気の短いロマネスクのアンドレ・ブルラクは、大量に保有する日本株が下がるのを見ると、我慢が出来ない。
その日は銀行株を手じまいたくなったらしく、朝方すぐに「売る」と言って来た。
そのオーダーを受けるついでに、DAXの先物を買わないかと訊いてみた。
アンドレは「おもしろいな」と言って、かなりまとまった枚数の買いを決めた。
このところ疎遠だったことを考えると、すんなり受けられたのが不思議なくらいだった。
日本株の取引は、手数料を東京の担当者と分けなければならない。
もう何度もやっているが、タック・ヤマグチとマキ・イトウだ。
彼らにメールを書いて、夜マキに電話することを忘れないよう、アウトルック・カレンダーに予定を入れておいた。
現物株は値下がりしていたが、DAXの先物は順調に買われていた。
ライアンが言った通りだ。
市場のメカニズムは自分にはわからないし、予測もできない。
エディのオフィスは朝からずっとドアが閉まったままで、中でエディがパソコンの画面を見ながら誰かに電話していた。
イーサンによると、ボーナスの数字が固まるのは発表の前日くらいらしい。
それまでは上がったり下がったりする。
足りないと言っては、誰かを減らして誰かに付けかえる。
ひどい時は全員一律何割か減らして、全体を調整したりするという。
皆の予想では、去年よりはましだと思っているがさほどいいわけじゃない。
せいぜい五パーセントアップくらいだ。
しかしそれも業績評価で付けられた五段階のレーティングに連動して、パーセンテージが決められる。
5が最高だとして4、3、それ以下の二つの点が付いた奴はゼロボーナス、更にひどいと一番下はクビになる。
ホークはジェイミー・トールマンとの業績評価ミーティングの時に言われたレーティングを思い出した。
確か、上から二番目だった。
「一番上が付く奴はいるのか?」イーサンに訊いた。
イーサンは、ぐいっと身を乗り出してホークの耳に囁いた。
「ジョルジオくらいだ」
ふとフロアの隅を歩いてくる人影に気づいた。
黒いスーツを着たやせっぽちの女――ハルだった。
なんだかよれよれと、アイロンの効いていないスーツのせいなのか、ふらついた足取りに見える。
ハルは折りたたんだ大きな紙を片手に持ち、もう一方の手に計算機とマーカーペンの束を持っていた。
よろよろとエディのオフィスのドアにたどり着くと、ノックして中に入った。
「いつもの太った姉ちゃんじゃないな」イーサンが言った。
ホークが客との電話を一本かけている間も、ずっとエディのドアは開かなかった。
三十分ほど経ったころようやくドアが開き、来たときと同じようにハルはよろよろと出てきた。
ちょうど電話の切れ目だったので、トイレに行く振りをして席を立った。
パメラが顔を上げた――が、言うべきことが何も思い浮かばず、無言で通り過ぎた。
ハルは廊下にいた。大きな紙をたたみ直していたが、計算機を床に落とした。
「大丈夫?」ホークはさっと計算機を拾って差し出した。
「キャンベルさん……」いつもの半分以下のか細い声だった。
目の下に隈のようなものができている。
「今日はどうしたんだ、なんでマーガレットじゃなくて、君が来たんだ?」
「だって……マーガレット、辞めちゃったんです」
2
お気に入りに追加
97
あなたにおすすめの小説

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
『 ゆりかご 』 ◉諸事情で2/20頃非公開予定ですが読んでくださる方が増えましたので先延ばしになるかもしれませんが宜しくお願い致します。
設樂理沙
ライト文芸
皆さま、ご訪問いただきありがとうございます。
最初2/10に非公開の予告文を書いていたのですが読んで
くださる方が増えましたので2/20頃に変更しました。
古い作品ですが、有難いことです。😇
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
" 揺り篭 " 不倫の後で 2016.02.26 連載開始
の加筆修正有版になります。
2022.7.30 再掲載
・・・・・・・・・・・
夫の不倫で、信頼もプライドも根こそぎ奪われてしまった・・
その後で私に残されたものは・・。
・・・・・・・・・・
💛イラストはAI生成画像自作
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
生きている壺
川喜多アンヌ
ホラー
買い取り専門店に勤める大輔に、ある老婦人が壺を置いて行った。どう見てもただの壺。誰も欲しがらない。どうせ売れないからと倉庫に追いやられていたその壺。台風の日、その倉庫で店長が死んだ……。倉庫で大輔が見たものは。
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる