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88 先物の買いを、できるだけ入れるんだ

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 値嵩ねがさ株(株価が高い銘柄)が急騰していた。

 ホークは客からの指示で、先物の売りのタイミングを計っていた。

 引け間際にヘッジファンドが、利益確定狙いで大量に売るだろうと噂があった。

 客は一番高い値で売りたい。ヘッジファンドが売る前に。

 ホークはじりじり上がる相場の動きを注視していた。

 そんな時、1番の回線が点滅した。ロマネスクだ。

 考えるより早く受話器を取った。

「LB証券、アラン・キャンベルです」

「アロー、キャンベルさん」フランス語風にHを読まない女の声だった。

「こんにちは、レベッカさん」

「ご機嫌いかが?」のんびりした挨拶に一瞬、絶句する。

「いいですよ。レベッカさんは?」

「なんとかやってるわ。早く仕事を覚えないと」

 目の前でスクリーンが値が動いていることを示していた。

 あと五分で場が引ける。

「ご用件は?」

「あのね、売ってほしい株があるの」

「銘柄はなんです?」

「日本株よ。えーと、名前は……」

 イライラしてきた。今、欧州のマーケットの引け際だ。

 日本株の発注は夜で十分間に合う。

「銘柄を決めてメールしていただけますか」

「メール? キャンベルさんのメールアドレスは?」

 そんなのアンドレに訊けばいいだろう。

 しかしホークは一語ずつスペルアウトした。

「銘柄と株数をお願いします」言いながらスクリーンの一つに、日経225と日本株の画面を出した。

「レベッカさん、一旦、電話を切りますよ」

「待って!」

「すみません、ちょっと他の電話をかけさせて下さい」

 1番を保留にして2番のクライアントにかけ、ある銘柄の現在の値と、売る気があるかを訊いた。

 あると確認が取れたので、トレーダーに一言叫び、売った。

 そのあとすぐ大量の売りが出て、一気に値下がりした。

 ほっと一息ついて再び1番に切り替えた。

「すみません、レベッカさん、銘柄と株数は決まりましたか」電話は切れていた。

 くそ。かけ直そうかと考えていると、メールが入った。

 ロマネスクのアドレスからだった。

 そこに書いてある銘柄の値をすぐ調べた。 

 レベッカのメールは指値さしね注文だった。

 自動車部品を扱う大手自動車会社の下請け企業。値上がり中の輸出関連株だった。

 売ってほしいとあったが、昨日の終値から考えて、とてもそこまで上がるとは思えない指値だった。

 ホークはメールを返した。

「そんな値では売れません」すぐに返事が来た。

「前は受けてくれたと聞いてるわ」

「当社ではお受けできません」

 すると1番の電話が鳴った。

「LB証券、アラン・キャンベルです」

「何よ、その態度! 前は受けてくれたって聞いたわ」

「受けられる条件ならお受けします。今回はお受けできません」

 ガチャン、と電話を切られた。



 日本株は好調だった。

 ヨーロッパ市場は荒れていた。

 何に連動してどこへ向かおうとしているのか、予測がつかない。

 ホークは客に何を勧めていいかわからず、混乱したまま電話を切った。

 結局その客の考えで、FTSE100の先物を買った。

 もうロニーがここにいた頃の低迷した市場ではなかった。

 この相場で、ロニーの手口のコピーだけで、プロを相手に戦うのは無理だった。
 


 ガラスのドアが開いて誰かが入って来たのが視界に入った。

 マーガレットだった。

 俯き加減にフロアの端を足早に歩いて行く。

 彼女はエディのオフィスに入り、ドアがバタンと閉まった。

 ボーナスの数字か。

 ホークはぶらぶらと、ジョルジオの席まで歩いて行った。

 そこからエディの部屋がよく見える。

 ガラスの壁の向こうで、マーガレットがエディと一緒にPCのスクリーンを見ている。

 ヘッドセットで電話しているジョルジオの会話が聞こえた。

 何の用だ? と、不思議そうにジョルジオがホークを見上げる。

 何でもない、と手を振って、ホークは離れて行った。

 一つ向こうのトレーダーの列では、ライアンが立ったまま受話器を持って叫んでいた。

 席に戻り、2番の客に電話し、いくつかの銘柄を勧めていると、シリアの沖合でロシアの輸送船とイスラエルの国境警備艇が睨みあっている、というニュースが流れた。

 東ヨーロッパの小国で発行された社債の格付けが、突如ダブルCに格下げされた。

 さっきまで上がっていた銘柄が売られ始め、慌てて客に「止めましょう」と言って電話を切った。

 ヘッドセットをはずしてため息をつく。

 目の端に後ろを通る人影が見えた。

 エディの部屋から出たマーガレットだ。来た時よりも一段と元気なく俯いている。

 太り気味の幅の広い背中がガラスのドアからフロアを出て行く。

 廊下のマーガレットを追いかけようかと思ったが、クライアント・ラインが鳴りだしたので、席を立つことができなかった。

 その日も大して数字を上げられなかった。

 ロマネスクはあれ以来、アラン・キャンベルに愛想を尽かして別のブローカーに発注しているらしい。

 まずい。



 駐車場に向かうエレベーターでライアンと一緒になった。

「どうした、浮かない顔して」ライアンがホークの顔を覗きこんだ。

「いや……調子悪くてさ」

「なに、体調?」

「商売だよ」

 ああ……。ライアンは携帯のメールから目を上げた。

「苦手な相場なのか」

 苦手も何も……。

「ジョルジオは調子よさそうだな」

「相変わらず向かう所敵なし。夜は日本株やってる」

「さすがだ」

 エレベーターが一階に着いた。降りる直前、ライアンはホークの耳に囁いた。

「明日は、DAXの先物を買えよ」え? とライアンを見ると、振り向きざまに言った。

「先物の買いを、できるだけ入れるんだ」

 素早くエレベーターを降りたライアンの後ろで扉が閉まり、スッと空気が密閉された。

 ライアンはベテランのトレーダーだ。

 直接マーケットから仕入れる情報は、かなり信憑性が高い。

 どこかの大口の投資家が、明日何かを仕掛けるつもりなのかもしれない。
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