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86 おまえはもうすぐ死ぬ
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朝方値上がりする場面も見られたが、ユーロが上昇すると売り圧力が強まり、八割の銘柄が値下がりした。
年明けからずっと下げている。
アルジェリアの石油プラント施設で起こったテロを見て、9・11のような大規模テロの前触れかと心配した向きもあったかもしれない。
しかし、審査部のレイチェルによれば、LB証券の見解は、それほど深刻ではなかった。
一部のはぐれグループによる犯行で、もともとフランスの植民地だった土地でもあり、このテロによる英国軍の派兵はないだろう、とのことだった。
日経平均だけが活況を見せている、と朝会のコメントで聞いた。
新興国の通貨と国債相場に懸念材料があると見て、ヨーロッパのマーケット参加者の心理を冷やしている。
殆どの客が空売りしたいと言って来た。
そんな中、ロマネスクは日本株を買っていた。
もう何度目かになる東京の同僚に連絡する。
だいたいこちらの夜十時なら、向こうは席に着いている。
マキ、ことマキコ・イトウという日本人のジュニア・セールスとも、もうおなじみになった。
「マキ、おはよう」
「ハイ、アラン!」
「自動車7203、買いたい。6千」
「オッケー。あとでメール入れます」
「あと銀行8316と証券8604。誰に言えばいい?」
「こちらでオッケーです」
言いながら、これも今朝ジョルジオの客が大量発注した銘柄と同じだと思った。
「マキ、忙しいだろう、こっちからオーダーがたくさん行って」
「すごいです。今週は朝五時から来てるんですけど、夜十時位になんないと帰れなくて」
「それじゃ、殆ど会社に住んでるみたいじゃないか」
「ほんと、社宅いらない」
「増員してもらえよ」
「タックに言って下さい」上司のことだ。
仕事の話が終わったので、チャットを使っておしゃべりした。
「ハルって知ってる?」
「知ってますよ~。こっちにいた時お世話になりました」
「最近、ランチに誘っても振られるんだ」
「えー、アランに誘われて振るの?」
「一緒に行ってもいつも楽しくなさそうで」
「ありえない。私が行きたい」
「マキはいつも電話帳の写真みたいな恰好してるの?」
彼女の社内用社員名簿の写真は、グレーのスーツに白いシャツの、なんとも制服みたいな恰好なのだ。
横分けのストレートの黒髪で、たぶんクリップのようなピンで留めている。
「今はコンタクト入れられないので眼鏡かけてます。アランは電話帳通りですか?」
自分の顔は……。
「その時より痩せてる。やつれている。苦労が多くて」
ハハハ、と彼女は書いた。
「日本に来て下さいよ、お客さん連れて。すごいハンサムだから、みんな実物見たいって」
「その時はマキにアテンド頼むよ。僕は欧州株専門だから」
「ジョルジオさんは来月日本に来ますよ。お客さん連れて」
「客って、誰連れて行くの?」
「『セブンオークス』の人ですよ」
スクリーンの向こう側にジョルジオの姿を探した。後ろ姿が見えた。ヘッドセットを着けて電話中だ。
「日本株ブームだな」
翌日は引け後に一件外交が入っていた。
それが終われば客先から直接帰る予定だった。
書類を持って出る準備をしていると、一般の方の電話が鳴った。外線だ。
「LB証券です」
「……アラン・キャンベル?」ボイス・チェンジャーを使っているような変な声だった。
「はい、そうですが」
「おまえはもうすぐ死ぬ」
「は? どなたですか?」電話が切れた。
受話器を置いて、目だけで周囲を見た。
アダムは内線で資金決済課と話している。
イーサンは客とさっきから冗談交じりの賑やかな会話を続けている。
そのほかのみんなも、それぞれに忙しい。
立ち上がってパメラに言った。
「外交行って、直帰する」
「うん。行ってらっしゃい」にこにこした。いつもと変わらない。
彼女はアラン・キャンベルの予定表を見ているから、ホークがどこへ行くか知っている。
駐車場に降りた。
タイヤの空気圧を調べる振りをして、発信器がないかどうか、全周囲を調べた。
更にコンパートメントから懐中電灯を取り出し、上着を脱いでネクタイをシャツの中に入れ、地面に這いつくばって、車体の下を覗いた。
低くてよく見えない。だが、エンジンの周辺に不審なものが付着している影は発見できなかった。
カルロに言って、爆発物・起爆装置センサーを調達した方がいい。
膝の埃を払って運転席に座った。タクシーにした方がいいだろうか。
エンジンのスタートボタンを押すのをためらった。
カルロに電話する。彼は「タクシーにしろ」と言った。
自分がもし爆弾で死んだら、それこそしゃれにならない。母の顔を思い浮かべた。
年明けからずっと下げている。
アルジェリアの石油プラント施設で起こったテロを見て、9・11のような大規模テロの前触れかと心配した向きもあったかもしれない。
しかし、審査部のレイチェルによれば、LB証券の見解は、それほど深刻ではなかった。
一部のはぐれグループによる犯行で、もともとフランスの植民地だった土地でもあり、このテロによる英国軍の派兵はないだろう、とのことだった。
日経平均だけが活況を見せている、と朝会のコメントで聞いた。
新興国の通貨と国債相場に懸念材料があると見て、ヨーロッパのマーケット参加者の心理を冷やしている。
殆どの客が空売りしたいと言って来た。
そんな中、ロマネスクは日本株を買っていた。
もう何度目かになる東京の同僚に連絡する。
だいたいこちらの夜十時なら、向こうは席に着いている。
マキ、ことマキコ・イトウという日本人のジュニア・セールスとも、もうおなじみになった。
「マキ、おはよう」
「ハイ、アラン!」
「自動車7203、買いたい。6千」
「オッケー。あとでメール入れます」
「あと銀行8316と証券8604。誰に言えばいい?」
「こちらでオッケーです」
言いながら、これも今朝ジョルジオの客が大量発注した銘柄と同じだと思った。
「マキ、忙しいだろう、こっちからオーダーがたくさん行って」
「すごいです。今週は朝五時から来てるんですけど、夜十時位になんないと帰れなくて」
「それじゃ、殆ど会社に住んでるみたいじゃないか」
「ほんと、社宅いらない」
「増員してもらえよ」
「タックに言って下さい」上司のことだ。
仕事の話が終わったので、チャットを使っておしゃべりした。
「ハルって知ってる?」
「知ってますよ~。こっちにいた時お世話になりました」
「最近、ランチに誘っても振られるんだ」
「えー、アランに誘われて振るの?」
「一緒に行ってもいつも楽しくなさそうで」
「ありえない。私が行きたい」
「マキはいつも電話帳の写真みたいな恰好してるの?」
彼女の社内用社員名簿の写真は、グレーのスーツに白いシャツの、なんとも制服みたいな恰好なのだ。
横分けのストレートの黒髪で、たぶんクリップのようなピンで留めている。
「今はコンタクト入れられないので眼鏡かけてます。アランは電話帳通りですか?」
自分の顔は……。
「その時より痩せてる。やつれている。苦労が多くて」
ハハハ、と彼女は書いた。
「日本に来て下さいよ、お客さん連れて。すごいハンサムだから、みんな実物見たいって」
「その時はマキにアテンド頼むよ。僕は欧州株専門だから」
「ジョルジオさんは来月日本に来ますよ。お客さん連れて」
「客って、誰連れて行くの?」
「『セブンオークス』の人ですよ」
スクリーンの向こう側にジョルジオの姿を探した。後ろ姿が見えた。ヘッドセットを着けて電話中だ。
「日本株ブームだな」
翌日は引け後に一件外交が入っていた。
それが終われば客先から直接帰る予定だった。
書類を持って出る準備をしていると、一般の方の電話が鳴った。外線だ。
「LB証券です」
「……アラン・キャンベル?」ボイス・チェンジャーを使っているような変な声だった。
「はい、そうですが」
「おまえはもうすぐ死ぬ」
「は? どなたですか?」電話が切れた。
受話器を置いて、目だけで周囲を見た。
アダムは内線で資金決済課と話している。
イーサンは客とさっきから冗談交じりの賑やかな会話を続けている。
そのほかのみんなも、それぞれに忙しい。
立ち上がってパメラに言った。
「外交行って、直帰する」
「うん。行ってらっしゃい」にこにこした。いつもと変わらない。
彼女はアラン・キャンベルの予定表を見ているから、ホークがどこへ行くか知っている。
駐車場に降りた。
タイヤの空気圧を調べる振りをして、発信器がないかどうか、全周囲を調べた。
更にコンパートメントから懐中電灯を取り出し、上着を脱いでネクタイをシャツの中に入れ、地面に這いつくばって、車体の下を覗いた。
低くてよく見えない。だが、エンジンの周辺に不審なものが付着している影は発見できなかった。
カルロに言って、爆発物・起爆装置センサーを調達した方がいい。
膝の埃を払って運転席に座った。タクシーにした方がいいだろうか。
エンジンのスタートボタンを押すのをためらった。
カルロに電話する。彼は「タクシーにしろ」と言った。
自分がもし爆弾で死んだら、それこそしゃれにならない。母の顔を思い浮かべた。
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