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85 誰かの生命保険料を間違って払ったりしたら、気づくだろうな

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 しかしハルはランチに誘っても「出られません!」と言い続けた。

 とにかく忙しくて席をはずせないと言う。

 電話にもメールにも返事が来ない。

 ランチタイムに八階の人事部まで降りて行った。

 すると、人事部のドアには『立ち入り禁止』と赤い字の張り紙がしてあった。

 そうでなくても部外者のアクセス・カードでは人事部には入れない。

 どうやら今の時期は、ちょっとした相談事で人事部を訪れることもできないようだ。

 諦めて三階のカフェテリアにコーヒーを買いに行こうとした。

 数歩歩くうちに、後ろでドアが開く音がしたので振り返った。

 人事部のドアから出て来たのはエディだった。手にファイルを抱えている。

 エディはホークにすぐ気付いた。

「何しているんだ、こんなところで?」

「別に。立ち入り禁止って書いてあるから、入れないのかと思ったよ」

「入れないさ、今は」

「あんたは何してたんだ」

「おまえたちのボーナスを決めていたんだ」

「ああ……。おれの分、よろしく」

 エディは鼻でふっと笑った。

「ロマネスクとは、うまくいってるのか」

「なんで?」

「最近あまり数字が上がっていないぞ」

「相場のせいだろ。ボーナスは、年末までの数字で決めるんじゃなかったのか」

「そうだが、今現在の印象も大事だ。将来性という意味で」

「気に入らなきゃ担当替えてくれてかまわないよ」

「本当にそうならないようにしろ。しゃれにならないぞ」

 足を止め、エディの方を向いた。

「営業方針に口出すなよ」

 エディは瞬きもせずにホークを見下ろしている。

「忠告してやっただけだ。担当替えなどする前に、おまえはクビになる」

 何か言い返そうとした時、後ろの方でドアが開き、バタバタと足音がした。

 赤い縁の眼鏡をかけて黒いカーディガンを着た、太り気味の女性スタッフだった。

 福利厚生担当のマーガレットだ。

「ミケルソンさん!」

 無言で振り向くエディに、彼女は持っていたA3の大きな紙を広げて見せた。

「さっきの間違い、これです」

 エディは冷ややかな目つきで紙を見下ろし、彼女の説明を聞いた。

 セールス・クレジットから経費を差し引く際の、式が間違っていたらしい。

「単純なミスだな」エディが言った。

「すみません、すぐ直して送り直します……」

「担当のくせに、この数字を見てすぐ変だと思わないのが問題だ」

「すみません……」

「欧州株がどのくらいの数字を上げているかくらい、頭に入っていないのか」

「でも、あたしたちは人件費しか普段見ていなくて……」

「ここの社員なら、自分たちの給料を稼いでいる部署の数字くらい知っておけよ」

「すぐ送り直します……」

 エディがエレベーターホールに見えなくなるまでマーガレットはうつむいていた。

「あいつ、いつもああなのか」

 黒いひっ詰め髪の頭が上を向いた。

「え?」眼鏡の奥の目が小さい。

「エディって、いつもああなんだろ」

「キャンベルさん……」そこにいたのがホークだと、やっと気づいたようだった。

 ホークは笑顔で言った。

「コーヒー飲まないか?」

「あたし、これをすぐミケルソンさんに送らないと」

「大丈夫だよ、コーヒー飲む間くらい。あいつはこれからランチに行くんだ」

 戸惑っているマーガレットの背を押してカフェテリアに行った。
 
 ホークは自分のブラック・コーヒーと、マーガレットのキャラメル・ラテを買ってテーブルに戻った。

 言われた通りトッピングにチョコレートのフレークをかけてきた。

「よくこんな甘いもの飲めるな」

 マーガレットは小さな声で礼を言って、ラテを飲んだ。

 鼻の頭にミルクの泡がついた。

 今日のマーガレットは、いつだったかの高圧的な態度と違っていた。

 エディに怒られてしゅんとしているのだ。全くあいつも容赦ない奴だ。

 さっきのA3の紙は、内側に二つにたたまれていた。

「なんで福利厚生担当なのに、そんなことやってるんだい」

「ミケルソンさんに分析を頼まれたので」

「担当じゃないって言えばいいじゃないか」

「ミケルソンさんに頼まれたら、断れません」

「セールス・クレジットは経理が出してくるんだろう」マーガレットは頷く。

「一人一人の実績はそうですけど、ボーナスをどう割り振るかは、人事部とミケルソンさんたちCOOシーオーオー(内部管理統括責任者)のチームでやるんです」

「へえ。じゃあ、実績通りに払うんじゃないのか」

「だって、全員が営業やってるわけじゃないですから。なんらかの貢献をしているサポートの人達とか、マネジメントの人達とか、いますから」

「それとCOOだろ」

「……そうですね」

「あいつ、自分じゃ一ペンスも稼がない癖に、うるさいよな」

 マーガレットは、じっとラテのカップを見つめている。

 よほどエディに言われたことがこたえているらしい。

「あんなに高圧的だと、給料間違って払ったりしたら大変だな」

 マーガレットはラテを咽に引っかけて、ゲホゲホと咳をした。

「大丈夫?」ホークはさっと立って紙ナプキンを持ってきた。

「間違って多く払ってくれても、おれは黙っているけどね」

「そんなことしても、ミケルソンさんがすぐ気づきます」

「そうなの?」

「毎月の人件費も、全てリコンサイル照合していますから」

「はあー。じゃ、誰が辞めて誰が入ったとか、全部経費の変動をチェックしているんだ」

 マーガレットは頷いた。

「じゃあ、間違いがあったら、すぐ気づくわけだ。あいつって細かそうだもんな」

「はい」

「例えばどんなことに気づくんだ?」

「例えば……間違いじゃなくても、入社の時に会社が負担すると決めた費用とかの清算をすると、その時だけ金額が増えますけど、そうすると、誰の何の分かって訊いてきます」

「はーん。じゃあ、おれが入った時、引っ越し代を清算したのとか、訊かれたわけ?」

「はい。キャンベルさんの契約書まで持ってこいと言って、突き合せていました」

 ひえー細かい奴! ホークは大げさに天を仰いだ。

「じゃあさ、誰かの生命保険料を間違って払ったりしたら、気づくだろうな」

 マーガレットの小さな目が、精いっぱい開いてホークを見た。

「いや、例えばの話だよ」ホークは微笑んだ。

「あたし、もう、行かないと」

 飲みかけのラテのカップを置いたまま、マーガレットはA3の紙を鷲掴みにした。

 紙が当たってカップが倒れ、残りのコーヒーがテーブルの上に広がった。

 マーガレットが立った勢いで、椅子が倒れてガタンと大きな音がした。

「慌てるなって」

 ホークは紙ナプキンでコーヒーを吸い取り、椅子を起こそうとしているマーガレットに手を貸した。

「別におれは、誰が何を間違えたかなんて興味ない」

 俯いたマーガレットが横目でホークを見た。

「ただ、いつもエディに監視されているような気がして癪に障るんで、あいつのやっていることを知りたくなったんだ」

「すごく頭のよい人ですから」

 マーガレットは「ごちそうさま」と囁いて、そそくさとカフェテリアを出て行った。
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