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78 トレーラーに追突されるのに比べれば可愛いものだ
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メールボーイがいつもと同じように各デスクに封書を持ってきた。
その中に、見なれないB5サイズくらいの白い封筒があった。
アラン・キャンベル宛てに宛先がタイプされている。差出人の名前はない。
LB証券のメール係りは、各階に配布する前に全ての封書や小包をスキャンし、爆発物や危険物のチェックをする。
配られたということは、不審物ではないということだ。
何か固い紙状の物が入っている。カードかもしれない。
ホークはレター・オープナーで封を開けた。
指で引き出したそれは最初模様に見えた。
赤と白――
それが血の赤で、白は人の肌だとわかった時、息が止まった。
写真だった。血塗れの女の裸身。顔の半分はなかった。
残っていた片目と血に塗れたプラチナブロンドで、マリー・ラクロワだとわかった。
こめかみの辺りでサーッと泡立つような音がした。
目の前にピンクと紫色の星がちらついた。
視野が暗くなる……。
まさか――
慌てて封筒を引き出しに突っ込んだ。
まだ完全にブラックアウトしていない視界を頼りに席を立つ。
歩く床が見えない。
目は開いているのに前が見えない。
耳から聞こえる喧騒を頼りに、机や人にぶつからないように……。
フロアのガラスドアを手探りで押し開けた。
廊下の壁を手で伝いながら、なんとかトイレに辿り着いた。
一番近い個室に入ると身体ごとドアを閉めた。
ドアに寄りかかったまま、ずるずると膝が折れていく。
目を開けていられなかった。
息が苦しい。
あのおせっかいなカウンセラーが言っていた通りだ。
本当にフラッシュバックが起こった。
マリーの姿に繋がって、一年近く前に潜入していた時の、残虐な光景が次々に網膜に映し出された。
ネクタイを弛め、シャツの襟を開けた。
息ができない――
この先血の海を見るたびにこうなるのか……。
くそっ、消えろ!
心臓の鼓動がうるさい。
自分が喘ぐのがうるさい。
全力疾走しているみたいだ。
ドアをノックする音がした。
「おい、大丈夫か」
誰だろう。知っている声だ。
「助けを呼ぼうか」
ゆっくりと目を開いてみた。
個室の壁がちゃんとアイボリーの模造大理石に見える。
仕切りとドアは焦げ茶色の木目。
医者や救急車を呼ばれたりしたら困る。
肩で息をしながら仕切りを頼りに立ち上がり、ドアを開けた。
ルパートがいた。
黒い縮れっ毛、赤い縁取りの眼鏡、丸く見開いた小さい水色の目……。
その瞬間、ルパートが、正常な人間社会から遣わされた天使のように見えた。
ホークはルパートの肩に両腕を伸ばし、ぐったりと倒れかかった。
「おおおおい、おまえのことは好きだよ。けど、これはちょっと……」
うろたえたルパートが叫んでいるのも構わず、ホークは抱きついた。
助けてくれ、僕を捕まえていてくれ、この発作に連れて行かせないでくれ――。
ルパートが携帯でパメラを男子トイレに呼んだ。
救急車は免れた。
ルパートの肩を借りて、ホークは三階のファースト・エイド・ルームに連れて行かれた。
ファースト・エイドは男女一緒だ。
仕切りのカーテンを閉められる。
奥のベッドでは搾乳中の女性社員がいるらしかった。
ホークはピンク色のリネンと枕カバーのかかったベッドの一つに寝かされた。
パメラがカーテンを閉め、しゃがんでホークが脱ぎ捨てた靴を揃えている。
「ありがとう」小さな声しか出せなかった。
まだ完全に消えていない。
夥しい血の光景が現れるたびにホークは顔をしかめた。
「どこか痛いの?」
違う、と首を振る。目を覆うように持って行った手をパメラの手が握った。
「すごく冷たい」
パニック症状になると体温が下がるのか。
全身に汗をかいているせいで、額も頬も手も冷たい。
リハビリ中に説明された記憶はあるが、よく覚えていない。
パメラの手が温かい。少し目を開けると、彼女が心配そうに見ていた。
マスカラに縁取られた水色の目だ。
「どこか具合が悪いの?」
「なんでもない」首を振った。
「そんなわけないでしょ。いつも元気なのに」
鼓動がやっと収まってきた。パメラの手が気持ちいい。
離さないでくれ、と手を握り返した。
「健康診断も行ってないでしょ。人事から何度も催促されてるわよ」
いらない、と首を振った。
またパメラが何か言おうとするので、手を更に強く握った。
目を閉じていても、彼女がじっと見ているのがわかる。
パメラは小さなスツールに腰掛けたまま、ずっと手を握っていてくれた。
あの写真を送ったのはロマネスクの連中に決まっている。
小一時間経って落ち着いてきたので、パメラを帰した。
汗を吸ったシャツを着替えてから二十階のフロアに戻った。
「大丈夫か?」皆が一様に心配そうに声を掛けて来た。
「ありがとう」と言いながらホークは席に着いた。
「ほい、電話」アダムが数枚の電話メモを寄こした。
中にロマネスクのアンドレ・ブルラクの名前があった。
「キャンベルはいつ戻るかって訊かれたからさ、ちょっとわからないって言ったんだよ。
そしたら、今すぐつなげってうるさくてさ、しょうがないから急病だって言っておいたぜ」
ありがとう、と言ってホークはアンドレのメモを捨てた。
自分が急病と聞いて、さぞロマネスクの連中はほくそ笑んでいることだろう。
だが、トレーラーに追突されるのに比べれば可愛いものだ。
写真をカルロのチームに調べてもらい、夜その結果が来た。
「かなり合成の部分が多いので、写っている人物の血液かどうか判明しない。
殆どは着色だ。ただ、開いている目の様子が生きている人間の表情と違う。
死亡しているか、または麻薬で意識不明の可能性がある」
もしトマシュがマリーをお払い箱にしたとしても、あっさり殺したら金にならない。
麻薬漬けにして売春組織に売り飛ばすかもしれない――カルロはそう言った。
その中に、見なれないB5サイズくらいの白い封筒があった。
アラン・キャンベル宛てに宛先がタイプされている。差出人の名前はない。
LB証券のメール係りは、各階に配布する前に全ての封書や小包をスキャンし、爆発物や危険物のチェックをする。
配られたということは、不審物ではないということだ。
何か固い紙状の物が入っている。カードかもしれない。
ホークはレター・オープナーで封を開けた。
指で引き出したそれは最初模様に見えた。
赤と白――
それが血の赤で、白は人の肌だとわかった時、息が止まった。
写真だった。血塗れの女の裸身。顔の半分はなかった。
残っていた片目と血に塗れたプラチナブロンドで、マリー・ラクロワだとわかった。
こめかみの辺りでサーッと泡立つような音がした。
目の前にピンクと紫色の星がちらついた。
視野が暗くなる……。
まさか――
慌てて封筒を引き出しに突っ込んだ。
まだ完全にブラックアウトしていない視界を頼りに席を立つ。
歩く床が見えない。
目は開いているのに前が見えない。
耳から聞こえる喧騒を頼りに、机や人にぶつからないように……。
フロアのガラスドアを手探りで押し開けた。
廊下の壁を手で伝いながら、なんとかトイレに辿り着いた。
一番近い個室に入ると身体ごとドアを閉めた。
ドアに寄りかかったまま、ずるずると膝が折れていく。
目を開けていられなかった。
息が苦しい。
あのおせっかいなカウンセラーが言っていた通りだ。
本当にフラッシュバックが起こった。
マリーの姿に繋がって、一年近く前に潜入していた時の、残虐な光景が次々に網膜に映し出された。
ネクタイを弛め、シャツの襟を開けた。
息ができない――
この先血の海を見るたびにこうなるのか……。
くそっ、消えろ!
心臓の鼓動がうるさい。
自分が喘ぐのがうるさい。
全力疾走しているみたいだ。
ドアをノックする音がした。
「おい、大丈夫か」
誰だろう。知っている声だ。
「助けを呼ぼうか」
ゆっくりと目を開いてみた。
個室の壁がちゃんとアイボリーの模造大理石に見える。
仕切りとドアは焦げ茶色の木目。
医者や救急車を呼ばれたりしたら困る。
肩で息をしながら仕切りを頼りに立ち上がり、ドアを開けた。
ルパートがいた。
黒い縮れっ毛、赤い縁取りの眼鏡、丸く見開いた小さい水色の目……。
その瞬間、ルパートが、正常な人間社会から遣わされた天使のように見えた。
ホークはルパートの肩に両腕を伸ばし、ぐったりと倒れかかった。
「おおおおい、おまえのことは好きだよ。けど、これはちょっと……」
うろたえたルパートが叫んでいるのも構わず、ホークは抱きついた。
助けてくれ、僕を捕まえていてくれ、この発作に連れて行かせないでくれ――。
ルパートが携帯でパメラを男子トイレに呼んだ。
救急車は免れた。
ルパートの肩を借りて、ホークは三階のファースト・エイド・ルームに連れて行かれた。
ファースト・エイドは男女一緒だ。
仕切りのカーテンを閉められる。
奥のベッドでは搾乳中の女性社員がいるらしかった。
ホークはピンク色のリネンと枕カバーのかかったベッドの一つに寝かされた。
パメラがカーテンを閉め、しゃがんでホークが脱ぎ捨てた靴を揃えている。
「ありがとう」小さな声しか出せなかった。
まだ完全に消えていない。
夥しい血の光景が現れるたびにホークは顔をしかめた。
「どこか痛いの?」
違う、と首を振る。目を覆うように持って行った手をパメラの手が握った。
「すごく冷たい」
パニック症状になると体温が下がるのか。
全身に汗をかいているせいで、額も頬も手も冷たい。
リハビリ中に説明された記憶はあるが、よく覚えていない。
パメラの手が温かい。少し目を開けると、彼女が心配そうに見ていた。
マスカラに縁取られた水色の目だ。
「どこか具合が悪いの?」
「なんでもない」首を振った。
「そんなわけないでしょ。いつも元気なのに」
鼓動がやっと収まってきた。パメラの手が気持ちいい。
離さないでくれ、と手を握り返した。
「健康診断も行ってないでしょ。人事から何度も催促されてるわよ」
いらない、と首を振った。
またパメラが何か言おうとするので、手を更に強く握った。
目を閉じていても、彼女がじっと見ているのがわかる。
パメラは小さなスツールに腰掛けたまま、ずっと手を握っていてくれた。
あの写真を送ったのはロマネスクの連中に決まっている。
小一時間経って落ち着いてきたので、パメラを帰した。
汗を吸ったシャツを着替えてから二十階のフロアに戻った。
「大丈夫か?」皆が一様に心配そうに声を掛けて来た。
「ありがとう」と言いながらホークは席に着いた。
「ほい、電話」アダムが数枚の電話メモを寄こした。
中にロマネスクのアンドレ・ブルラクの名前があった。
「キャンベルはいつ戻るかって訊かれたからさ、ちょっとわからないって言ったんだよ。
そしたら、今すぐつなげってうるさくてさ、しょうがないから急病だって言っておいたぜ」
ありがとう、と言ってホークはアンドレのメモを捨てた。
自分が急病と聞いて、さぞロマネスクの連中はほくそ笑んでいることだろう。
だが、トレーラーに追突されるのに比べれば可愛いものだ。
写真をカルロのチームに調べてもらい、夜その結果が来た。
「かなり合成の部分が多いので、写っている人物の血液かどうか判明しない。
殆どは着色だ。ただ、開いている目の様子が生きている人間の表情と違う。
死亡しているか、または麻薬で意識不明の可能性がある」
もしトマシュがマリーをお払い箱にしたとしても、あっさり殺したら金にならない。
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