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74 失恋したみたいな顔しているわよ
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空港のカウンターにエレーヌ・ラモンの名を名乗る女は現れず――
マリー・ラクロワから口座解約の書類が届かないまま、十二月第三週が過ぎて行った。
十二月十四日が決済期日の先物契約は、全てその日のプライスで手じまいになった。
無事でいてくれさえすれば……。
マリーはトマシュたちに問い詰められて、何もかも喋ってしまったかもしれない。
証人保護プログラムを使う場合、そのリスクはいつもある。
だとしても、アラン・キャンベルは言い抜けられる。
チューリッヒへの航空券とスイスの銀行口座は、いずれもマリーが自分で手配したことになっている。
トマシュやアンドレがマリーから聞いて調べたとしても、航空会社と銀行はそう答える。
マリーの新しい身分、エレーヌ・ラモンという人物はもともと実在しない。
マリー本人が時間までに空港のカウンターに現れなければ、全てキャンセルされる。
万が一問い合わせが第三者からあった場合は、マリー・ラクロワの名前に戻される。
捜査局は、証人が裏切った場合の保険もかけてあるのだ。
更にLB証券の口座解約書類は、そもそもマリーが依頼しなければ、アラン・キャンベルから届けられることはない。
マリーが「キャンベルから唆された」と言ったとしても、何のために彼がそんなことをするのだ。
キャンベル自身の営業成績を考えれば、解約など勧めるはずがない。
もし喋り出した場合、マリーは追い詰められる。
プロでないマリーには、細部を取り繕うことはできない。
クリスマス直前の週だ。
ジョルジオ担当の機関投資家は、いまだに日本関連の取引で忙しく、休む気配がなかった。
「セブンオークス」の株買い占めの噂は、いつしか聞かれなくなった。
さすがのトマシュも資金が足りないと見える。
ある程度買い占められた株が、逆に放出されているという噂が聞こえた。
あの叔父が、ロシア人が大株主になることを黙って見ているはずがない。
ジョルジオが言った通り防衛に成功したのだ。
デスクの登録1番、ロマネスクの直通電話が鳴った。
ドキッとした。ほんの半拍遅れで出ると、アンドレだった。
「マリーの所に口座を解約させるための書類があった。どういうつもりだ」
背筋に緊張が走った。
アンドレに知られた。当然トマシュも知っている。見られたのか。それともマリーが見せたのか。
万が一の時に言うと決めていたセリフをしゃべった。
「ラクロワさんからそのように依頼がありましたので、お届けしました」普段と同じ声で言えた。
「マリーは口座を解約などしない」
「御本人から指示が届いておりませんので、解約してはおりません」
「これからもするつもりはない」
「ブルラクさん、御本人から指示されない限り、LB証券では何もいたしません」
アンドレは乱暴に電話を切った。
……もう捜査局がマリーにしてやれることは、何もない。
「キャンベルさん!」と、マリーが自分を呼んだ声が耳の中で蘇った。
赤い唇を丸くして、非難がましく睨まれたこともあった。
「キャンベルさん、助けて」マリーのキス。
「とっても会いたかった」傷ついたマリーの身体。だんだんか細くなっていった声……。
生きていてくれさえすれば――。
仕事に集中できなくなって、席を立った。
三階のカフェテリアに降りてコーヒーを買った。
ポンと背中を叩かれた。レイチェルだった。
「失恋したみたいな顔しているわよ」
ホークは笑った。
レイチェルは、いつものノースリーブの黒のドレスを着ている。
休暇でクルーズに行った後なので肌が小麦色だ。
太い金のネックレスが雀斑の浮いた胸元に下がっている。
「この間のあれ、誰かさんに買わせたの?」
エレベーターの中でレイチェルは、エクストラ・ホットのトールサイズのコーヒーを啜った。口紅がカップの蓋にべったりついた。
「ああ……あの債券? いや、どうかな」
「そう簡単にEUに加盟出来っこないのよ。ロシアが介入して、内戦になるかもしれない」
それがLB証券の見解だ、とレイチェルは言った。
マリー・ラクロワから口座解約の書類が届かないまま、十二月第三週が過ぎて行った。
十二月十四日が決済期日の先物契約は、全てその日のプライスで手じまいになった。
無事でいてくれさえすれば……。
マリーはトマシュたちに問い詰められて、何もかも喋ってしまったかもしれない。
証人保護プログラムを使う場合、そのリスクはいつもある。
だとしても、アラン・キャンベルは言い抜けられる。
チューリッヒへの航空券とスイスの銀行口座は、いずれもマリーが自分で手配したことになっている。
トマシュやアンドレがマリーから聞いて調べたとしても、航空会社と銀行はそう答える。
マリーの新しい身分、エレーヌ・ラモンという人物はもともと実在しない。
マリー本人が時間までに空港のカウンターに現れなければ、全てキャンセルされる。
万が一問い合わせが第三者からあった場合は、マリー・ラクロワの名前に戻される。
捜査局は、証人が裏切った場合の保険もかけてあるのだ。
更にLB証券の口座解約書類は、そもそもマリーが依頼しなければ、アラン・キャンベルから届けられることはない。
マリーが「キャンベルから唆された」と言ったとしても、何のために彼がそんなことをするのだ。
キャンベル自身の営業成績を考えれば、解約など勧めるはずがない。
もし喋り出した場合、マリーは追い詰められる。
プロでないマリーには、細部を取り繕うことはできない。
クリスマス直前の週だ。
ジョルジオ担当の機関投資家は、いまだに日本関連の取引で忙しく、休む気配がなかった。
「セブンオークス」の株買い占めの噂は、いつしか聞かれなくなった。
さすがのトマシュも資金が足りないと見える。
ある程度買い占められた株が、逆に放出されているという噂が聞こえた。
あの叔父が、ロシア人が大株主になることを黙って見ているはずがない。
ジョルジオが言った通り防衛に成功したのだ。
デスクの登録1番、ロマネスクの直通電話が鳴った。
ドキッとした。ほんの半拍遅れで出ると、アンドレだった。
「マリーの所に口座を解約させるための書類があった。どういうつもりだ」
背筋に緊張が走った。
アンドレに知られた。当然トマシュも知っている。見られたのか。それともマリーが見せたのか。
万が一の時に言うと決めていたセリフをしゃべった。
「ラクロワさんからそのように依頼がありましたので、お届けしました」普段と同じ声で言えた。
「マリーは口座を解約などしない」
「御本人から指示が届いておりませんので、解約してはおりません」
「これからもするつもりはない」
「ブルラクさん、御本人から指示されない限り、LB証券では何もいたしません」
アンドレは乱暴に電話を切った。
……もう捜査局がマリーにしてやれることは、何もない。
「キャンベルさん!」と、マリーが自分を呼んだ声が耳の中で蘇った。
赤い唇を丸くして、非難がましく睨まれたこともあった。
「キャンベルさん、助けて」マリーのキス。
「とっても会いたかった」傷ついたマリーの身体。だんだんか細くなっていった声……。
生きていてくれさえすれば――。
仕事に集中できなくなって、席を立った。
三階のカフェテリアに降りてコーヒーを買った。
ポンと背中を叩かれた。レイチェルだった。
「失恋したみたいな顔しているわよ」
ホークは笑った。
レイチェルは、いつものノースリーブの黒のドレスを着ている。
休暇でクルーズに行った後なので肌が小麦色だ。
太い金のネックレスが雀斑の浮いた胸元に下がっている。
「この間のあれ、誰かさんに買わせたの?」
エレベーターの中でレイチェルは、エクストラ・ホットのトールサイズのコーヒーを啜った。口紅がカップの蓋にべったりついた。
「ああ……あの債券? いや、どうかな」
「そう簡単にEUに加盟出来っこないのよ。ロシアが介入して、内戦になるかもしれない」
それがLB証券の見解だ、とレイチェルは言った。
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