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73 会いに来てくれるのよね、キャンベルさん?

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 マリーから電話がないまま金曜になった。

 引け後に確定した先物契約の金額を入れた解約書類を用意して、ホークは会議室からマリーに電話した。

「はい、ラクロワでございます」この間の家政婦らしき女だった。

「ラクロワさんをお願いします」今日は取引のことで用があるので、正当な理由で電話している。

 しばらくしてマリーが電話口に出た。

「こんにちは、ラクロワさん」

「……はい」元気のない声だった。

「あれから何かあったんですか?」

「……ご用件は、何かしら」

 おそらく家政婦が聞き耳を立てているのだろう。

「先日ご依頼のあった先物契約の書類をお届けに上がりたいのですが、何時頃がご都合よろしいでしょうか?」

 数秒間、マリーが息をする音だけが聞こえた。

「マリー?」

「お待ちになって」ガタン、と受話器が置かれた。

 そのまま三十秒ほど待っていた。

 やはりマリーは監視されている。

 自由に電話もかけられない。まして外出など――。

「お待たせしました。では、そちらにお伺いしますわ。五時半頃でよろしいかしら?」

「五時半に、どこにいらっしゃるんです?」

「お薦めの商品を、そちらで決めて下さる?」

「……では、セント・ルークス教会の駐車場で」そこはマリーの家から歩ける距離だ。

「いいわ。ではのちほど」

 四時半過ぎには出ようと思っていた。

 マリーより早く着いていなければならない。

 早退してそのまま帰らないつもりだった。

「具合が悪い」ホークはデスクの上に突然うずくまった。

「寒気がする」寒そうに両腕をつかんで肩をすぼめた。

「え?」イーサンがこっちを向いた。

「熱あんじゃねえか?」と言って、心もち椅子を離す。

「インフルエンザかもしれないぞ。うつすなよ、うち、ちっちゃい子供がいるんだ」 

「医者に行く」ホークは上着を着て、席を立った。

「今日はそのまま直帰する」

 教会の駐車場に五時過ぎに着いた。

 金曜のその時間、教会ではチャペル・コンサートが開かれていた。

 ドアが開く度に中からコーラスの声が聞こえて来た。

 ライトアップされた教会の脇の歩道を、マリーがいつものリンクスキャットの毛皮を着てやってくるのが見えた。

 この暗さの中、サングラスを掛け、帽子をかぶっている。縁の広い帽子だった。

 ライトで合図して助手席のドアを開けた。

「あれから連絡がなかったので、心配しましたよ」

 マリーが何も言わないので、フェルト帽の縁の下の顔を覗きこんだ。

 それでも何も言わない。

 帽子を取り、サングラスをはずさせた。車内灯に照らされて、片目の横と頬が痣になっているのがわかった。

「ひどい……」ホークはそっとマリーを抱き寄せる。

「なんて奴なんだ。かわいそうに……」

「家政婦が買い物に出掛けた隙に、出て来たの」抑揚のない声でマリーが言った。

「会いたかったわ……」

 思わずホークが抱きしめると、マリーの顔が歪んだ。

 身体を離し、毛皮の前を開けて見た。

 中はいつもと違う露出度の低い絹のブラウスとスカートだった。

 ブラウスの襟を一番上までぴっちり留めているのがきつそうだ。

 そっと手をやり、ブラウスのボタンを上からはずしていった。

 白い首の付け根に痣がある。首を絞められたような痕だ。

 胸にも痣があった。赤黒い痣がレースの下着から透けて見えた。

 これでは抱きしめることもできない。

「ひどすぎる」ホークは元通りボタンを締め直した。

「外出できなかったの」しゃべると顔の痣に響くようだった。

「トマシュが家政婦に言ったの。あたしが昼間、一人でどこに行くのか、全部チェックしろって」ホークは頷いた。

「とっても会いたかったのに……だけど、すぐ戻らなきゃいけないわ」

 ホークは持ってきた書類を出して見せた。かなりの枚数がある。

 本当は全部目の前でサインしてもらい、持って帰るつもりだった。

 しかし、マリーはどうしてもすぐ戻ると言った。

「これは先物契約の確定した金額を、あなたの銀行口座に送金する指示書です。

 あなたのサインが必要なところに、全て付箋を貼ってあります。

 それと、こちらはLB証券にあるあなたの口座を解約する書類です。

 全ての取引を確定させて、現時点の評価額で同じ銀行口座に送金する指示が選ばれています。

 こちらもあなたのサインが必要なところに、全て付箋が貼ってあります」

 マリーの視線に力はなく、ひどくぼんやりしていた。

「返信用の封筒がありますから、サインをしたら全ての書類を僕宛てに投函して下さい」

 ホークはマリーの視線を捉えようとしたが、目が合わない。

「マリー、それから明日のことです」

 明日、マリーはトマシュの元を脱出し、別人になるのだ。

「どんな理由でもいいから、近所まで出かける振りをして、空港へ行って下さい」

 マリーはじっと黙っている。

「荷物は何も要りません。

 航空会社のカウンターに、あなたの新しい名前のパスポートとフライト・チケットが預けてあります。

 エレーヌ・ラモンという名前を言うだけで、わかります。

 十一時までに、必ずカウンターに行って下さい」

 わかっただろうか。

「マリー、大丈夫ですか」

「……大丈夫よ」か細い声だった。

 身体の見えないところにもっと傷があるに違いなかった。

 もう限界だ。いや、とっくに限界に来ていたのだ。

「今夜もトマシュはいるんですか」こくん、と頷く。

 フライトを今夜にすれば、いや、もっと早くできればよかったのに。

「チューリッヒに着いたら、向こうに連絡員が待っています。エレーヌ・ラモンのプラカードを持っている人がそれです」

「キャンベルさん、あたし……」

 腫れた頬が痛々しい。ホークは唇の傷のない方の端にキスをした。

「あなたが落ち着いた頃、会いに行きますよ」初めてマリーが笑った。

 ぎこちない笑顔だった。

 車を降りて、家に向かうマリーの後ろ姿を見送った。

 あまりにも頼りなく、孤独な後ろ姿だった。

 心のどこかで警鐘が鳴り始めた。

 このまま一人で行かせていいのか。できることなら――。

 言いようのない不安が兆して来た。

「マリー!」

 ホークはマリーに駆け寄った。帽子をかぶった頭が振り向いた。

 痛がるといけないと思い、どこにも手を触れることができない。

「マリー、明日、空港まで行ってくれますね?」

 辺りが暗い上にサングラスを掛けているので、目はよく見えなかったが、マリーが自分を見上げているのはわかった。

 コーラスの声の盛り上がりが、微かな抑揚になって聞こえてくる。

 教会の壁に反射したライトがマリーの頬を照らしている。唇が動いた。

「会いに来てくれるのよね、キャンベルさん?」

「行きますよ、必ず」マリーの手袋をした両手を自分の手で包んだ。

 冷たい手袋の表面が温まる前に、マリーの手はすり抜けて行った。



 


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