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69 彼女がいなくなったら、真っ先に疑われるのはおまえなんだぞ

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 日本株を高値で売ってロマネスクが差額を儲けた金額は、一億五千万円ほどだった。

 あのキャッシュカードで失った二千万ドルには及ばない。

 ローガン・ファレルというアイリッシュ・マフィアは、『セブンオークス』を買収しようとするロマネスクの資金源だ。

 アンドレは次の手口を考えているはずだった。

 こちらから彼らをひっかけてやる案件はないだろうか。

 ふと思いついて、審査部のレイチェル・ハリーにメールを出した。

「今現在、『もっともハイリスク・ハイリターンな商品は?』と訊かれたら、どれを薦めたらいい?」

「誰がそんなこと訊いてるの?」

「ロマネスク」

「ふーん。あるけど、うちでは扱ってないわ」

「おしえてくれ」

 レイチェルは、あとでその商品の販売元のリンクを送る、と言った。



 BBCが獣医殺人事件についての続報を流していた。

 獣医が何かトラブルに巻き込まれていなかったか、

 特にペットの診療上のトラブルで客ともめていることはなかったか、など、

 警察は周囲への聞き込みをしているとのことだった。

 単独の強盗殺人として捜査されている限り、警察はあの四人の蒸発との関連性に辿りつかない。

 ニュース映像がクリニックの玄関前を映した。

 花とお悔やみのカードが多数手向けられている。

 冷酷な現実だが、捜査局では捜査活動上のやむを得ない損失として捉えている。

 自分が蛇を連れて行きさえしなければ――

 彼は今でも元気で動物の診療をしていたはずだ。

 本来は何の関係もない獣医を巻きこんだ。

 彼を取り返しのつかない残酷な死に至らしめた責任の一端は、自分にある。

 彼は、なぜ自分があんな惨い殺され方をしなければならないのか、わからずに死んでいったはずだ。

 デスクのクライアント・ラインが鳴ったが、一瞬取るのが遅れた。

 パメラが取って転送して来た。

「皇帝の蛇女さんから」

 明るい声で言われた途端、ズキンと胸に響いた――蛇はもういない。

「ラクロワさん、おはようございます」

「……キャンベルさん、お願い……」

「かけ直します」電話を切って席を立った。

 会議室に入って携帯でかけ直し、昼にマリーと落ち合うことにした。

 月曜はメイフェアのホテルのジムに行く日だと言うので、ホテルの近くに車を停めてマリーを待った。

 いつかトマシュに呼び出されてシャンパン・バーまで来た、あのホテルだ。

 マリーもトマシュもよく顔を見られているだろうから、中で会うのはまずかった。

 ホテルのエントランスからマリーが出てくるのが見えた。

 ドアマンが恭しくドアを押さえている。

 マリーはいつもの毛皮ではなく、豹柄の中綿入りロングコートを着ている。

 前をきっちり留めてウエストに太いベルトを締めているので、中に何を着ているのかわからない。

 素足にスニーカーを履き、肩に大きなスポーツバッグをかけている。

 ジムに行く定番の格好なのだろう。

 ホークは車を降りて助手席に回り、ドアを開けた。

 マリーが駆け寄って来た。

「マリー、誰にも知り合いに会いませんでしたか……」

 言い終わらないうちに、マリーが身を投げるように抱きついてきた。

「会いたかった……」

 歩道を通り過ぎたビジネスマン風の二人連れが振り返った。

 いかにも有閑マダムと愛人の密会のように見えたことだろう。

「マリー、車に乗って下さい」

 助手席に座ると彼女のコートの前が開き、ショーツをはいているのが見えた。

「トマシュに気づかれていませんね?」

 ううん、と首を振る。

「何かあったんですか?」ホークは車を出した。

 マリーは答えない。

 ランカスター・ゲート近くのウィークリー・アパートを前払いで予約しておいた。

 駐車場も部屋も予約の時に決めた暗証番号で入ることができる。

 人目を気にしないで済む格好の部屋だ。

 車を降りるや否や、マリーは腕に縋りついてきた。

 エレベーターの中では抱きついてきた。

 部屋は最上階のペントハウスだ。

 窓が大きく清潔で、豪華なワンルームだった。

 値段が高いから空いていたのだろう。

 広い部屋の真ん中に大きなベッドがある。

 マリーはコートをソファに脱ぎ捨てた。

 ライト・グレーのショーツと同色のTシャツを着ているだけだ。

 彼女の場合、肩幅のサイズで選ぶ服は全て胸周りが小さすぎるようだ。
 
 このシンプルなTシャツも胸の膨らみに押し上げられ、はちきれそうだ。

 こんな恰好でランニングやマシン・トレーニングをやられたら、目のやり場が……

「どうしてそんなにおとなしいんです?」

 マリーはホークの上着に手をかけ、脱がそうとした。

 ポケットに携帯やブラック・ベリー、札入れなどが入っているから重い。

 しゃべる気になるまでつきあってやろう。

 マリーに手を貸し、ジャケットを脱ぎネクタイをはずした。

 カフリンクス、腕時計、と順にはずしていると、マリーがベルトをはずした。

「マリー、ちょっと待って」

 やんわりと彼女の手をどかし、抱き上げてベッドに運んだ。

 何も言わずに見上げている。

 Tシャツをひっぱって頭から脱がした。

 今日はスポーツ用らしいシンプルな下着だ。

 裸になったマリーを見て、はっとした。

 彼女の下腹部に赤く殴られたような痣があったのだ。

「トマシュですか」目を上げるとマリーが頷く。

「可哀そうに……」手でそっと撫で、痣に唇で触れた。

 そのまま今日初めてのキスをした。

 身体に触れていると、ほんの僅かにマリーが顔をしかめた。

 自分の指は荒れていない。

 マリーの脚の間……

 そこに傷があった。まるでレイプされたような痕だった。

「……どうして先に言わないんですか」

「いいの」

「よくない。病院へ行きましょう」

 嫌よ、とマリーは首を振った。

「でも、手当てしないと」自分のフラットに行けば、救急キットがあるのだが。

「もう血は止まったわ」

 とても触れることができない。

「キャンベルさん……あたし、金曜日まで生きていられるかしら」

 マリーの頭と頬をそっと撫でた。

 内心では、弱い相手に暴力を振るったりレイプしたりする人間を憎悪した。

 口座の解約自体はいつでもできる。

 しかしマリーを受け入れる先のスイス側で、連絡員との準備が万端整うまでには、ある程度日数が必要だった。

 新しい身元を全て作り、銀行口座やパスポート、社会保障関連も整える。

 しかしこうなったら、ロンドンでとりあえずマリーを保護した方がいい。

「あたしのお父さん、サーカスの動物の飼育係だったって言ったでしょ?」

「ええ」

「でも、あたしがいなくなってからは、お酒飲んでばかりで全然働かなくなったの」

「お母さんは?」

「死んじゃったの。もう随分前に。お母さんはバレエ教室の先生だったの。あたしはバレエ・ダンサーになりたいと思ってた」

 ホークはマリーの頬にかかっていた一房の髪を指でのけた。

「キャンベルさんは?」

「僕は孤児ですから、両親のことは知りません」

「そうなの?」マリーがくるりと目を向けた。

「でもこの間、お知り合いの方が、お母さんのお話をしていなかった?」

 なんてことだ。マリーに覚えられている。

「ああ、養父母がいるんです。エクセターに」

「それ、どこ?」

「南イングランドです」

 そうなの。

「キャンベルさんは、婚約者もいて、養父母もいて、帰るところがあっていいわ」

「お父さんに会いたいですか?」

 一度スイスに行けば、父親に会いに行くのは非常に難しい。

 そのおぜん立てをするのは一苦労だ。

「ううん。今更会っても、お金をせびられるだけだもの」

 マリーが父親に送金している、とトマシュが言っていた。

「キャンベルさん。あたし、トマシュに見つかったら、逃げたと知られたら、きっと殺される」

「見つかるようなへまはしません」

「本当? どうして、そんなことができるの?」

 ホークは微笑し、マリーの頬を指で撫でた。

 マリーがギュッと抱きついてきた。

「絶対、あたしのこと見捨てないで」



 トレーディング・フロアの自分の席に戻った頃は、もうマーケットが閉まる時間だった。

「随分長い外出だな」イーサンに言われた。

 離席中に取ってもらった電話のメモが十数枚デスクの上に散乱している。

「ごめん」

 怒りまくっている顧客達に電話して怒鳴られた。平謝りに謝った。



 マリーがトマシュに暴行されている。

 レイプされたような傷がある。

 脱出するまで保護する方法はあるか? 

 ホークはカルロに電話した。

 カルロは、なぜおまえがマリーの身体の傷を知っているのか、とは訊かなかった。

「無理だ。今だって異例な急ぎ方で用意していると先方から言われている。

 それに、どういう理由で彼女をトマシュから引き離すんだ?」

「病気で入院させるのはどうかな」

「その病院からどうやってトマシュを閉め出すんだ。

 怪我をさせられたら、警察か救急車を呼ぶしかない」

 そんな自由があるだろうか。

「……金曜には間に合うんだよな、絶対に?」

「スイス側から言われた日だからな」

「じゃあ、せめて国外に出せないか? フランスなら……」

「誰のパスポートで出るんだ」

 ……だめだ、すぐ足がつく。それに、トマシュならマリーのパスポートを取り上げているだろう。

 マリーは拷問されてもキャッシュカードの件を知らないのだから、答えられない。

 彼女を痛めつけて楽しんでいるのか。

「やっぱりどこかに匿った方がいい」

「冷静になれ。捜索願いを出されて誘拐犯にされるぞ」

「殺されたらどうするんだ」

「証人を失うだけだ」カルロは言った。

「自分の心配をしろ、ホーク。彼女がいなくなったら、真っ先に疑われるのはおまえなんだぞ」
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