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68 野生の白鳥が、人間の男に慣れてくるような感じだった

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 そのコテージは、大きなマナハウスが所有する離れの建物で、南イングランドの観光地のはずれにあった。

 死んだ兄と一緒に寄宿舎生活をしていた学校の近くだった。

 かつてクラブ活動の練習で学校の外の長閑のどかな農道を走っていた時、そのコテージをいつも目にしていた。

 二十年近く前の記憶だったが、当時と変わらぬ姿だ。

 冬のオフ・シーズンだったので、コテージは空いていた。

 ちょうどランチタイムだったので、母屋のマナハウスのレストランで食事することにした。

 数組の客がいた。

 冬でも庭の芝生は青々としている。

 木々はとうに葉が落ちて、枝ばかりだ。

 ちょうど薄日が差してきて芝生の上を明るく照らし出した。

 とても静かで、あらゆる危険から隔絶されたハザード・ランドにいるような気がした。

「こんな所に来るの初めて」マリーは嬉しそうだった。

 今日は五コースでも何でも好きなだけゆっくりメニューを選べる。

「今度こそ、あたしに奢らせてちょうだい」

「駄目です」ホークは言った。

「あなたはここには来ていないんですよ。クレジットカードを絶対使わないでください」

 そうなの? マリーはしおらしくメニューに目を落とした。

 すぐ側のテーブルの老夫婦が、さっきからホークとマリーを眺めていた。

 目が合ったので、ホークは敬意を表して感じよく挨拶した。

「あたしたち、恋人同士に見えるわよね」

「ええ、たぶん」

 ウェイターがゆっくりとした口調でメニューの説明をした。

 シャンパンを勧められ、マリーがこちらを見るので注文した。

 シャンパンのグラスを口につけると、マリーは饒舌になった。

「キャンベルさん、恋人いるの?」

 ホークは一杯の半分ほど飲んだ後はペリエを飲んでいる。

「婚約者がいます」

 マリーは訝しげに眉をひそめた。

「婚約しているの?」

「なのに、なぜキスしたかですか?」マリーが尋ねるように首をかしげた。

「ラクロワさんは、別格だからです」

 マリーが横を向いてクスクス笑った。

「そんなこと言って、いつも浮気しているのね」

「まさか」マリーのグラスにシャンパンを注ぎ足した。

「ラクロワさんだけですよ」

 ウフフ……

 マリーの澄んだ笑い声がダイニング・ホールの天井に響いた。

 ニットのドレスはいかにも薄く、胸元が深いV字に開いている。

 そろそろ食事が終わりに近づいた頃、先ほどの老夫婦がゆっくり立ち上がった。

 それぞれ上着を着たり、マフラーを首にかけたりしている。

 背中の丸い白髪の老人が、テーブルに立てかけていた杖を取ろうとして倒してしまった。

 老人が身を屈めるより早く、ホークはさっと席を立ち、杖を拾って渡した。

「やあ、ありがとう」にこやかに笑みを浮かべている。

 深い皺と老人斑が笑みに合わせて動いた。

「失礼。君は、もしかして、ピーター・スチュアートの息子さんでは?」

「えっ?」

 ピーター・スチュアートは死んだ父親の名前だ。

 ホークは白髪の老人の、薄い水色の目をまじまじと見た。

 知っている人だろうか? ……思い出せない。

「やっぱりそうだね。ほら、あそこの学校に、代々寄宿していただろう? お父さんもお爺さんも……。

 君はあれ以来転校してしまったけど、やっぱり血は争えないねえ。お父さんに似て来たよ」

 お母さんによろしく、と老人は言い、にこやかな微笑を残して行った。

 不意打ちをされた気分だった。超ヤバいかもしれない。きっとあの学校の先生だ。

 先祖代々同じ学校に行っているから覚えられている。なぜ即座に否定しなかったんだ。

「キャンベルさん?」マリーが覗きこんでいる。

「お知り合いだったの?」

「……らしいんだけど、思い出せない」今は、この件が及ぼすトラブルについて考える暇はない。

 食事の後、コテージに向かって歩いていると雨が降って来た。

 ポツポツと頭に当たっていたのが、あっという間にザーッという土砂降りになった。

 キャア! と叫ぶマリーを庇うようにして走り、コテージのファサードに辿りついた。

 マリーのプラチナブロンドの髪はびしょ濡れで、カールが取れてしまっている。

 毛皮には水滴が光っている。

 コテージのバスルームに入り、濡れたブーツを脱ぐのを手伝い、タオルでマリーの髪を拭いてやった。

 ホークの髪からも水滴が滴っている。

 毛皮とダウンジャケットをハンガーに掛け、ヒーターの側に吊るした。

 マリーが手を伸ばし、タオルでホークの頭を拭こうとした。

 背伸びするマリーの胸がホークの胸に重なった。

 腕をマリーの背中に廻してぎゅっと抱きしめた。

 見上げるマリーが何か言う前に、赤い、ふっくらした唇を自分の唇で覆った。

 そうしながら、ゆっくりとドレスを脱がせた。

 手入れの行き届いた全身の、どこにも傷や痣はない。

 ほっそりした胴や脚に比べて、少し不釣り合いなほど大きな胸。

 触れるとあらがうような素振そぶりを見せた。

 意外な事に、今まであれほどあからさまに自分を誘って来たのとは違う。

 なんだか怖がって逃げようとするかのようだ。

 ふと、いつかトマシュが言っていたことを思い出した。

 森の湖で見つけた白鳥――捕まえて、意のままにしたくなる。

 彼女は人間に慣れていない白鳥だ。

 もしかすると、トマシュ以外の男を知らないのかもしれない。

 考えなければならないことがたくさんあるというのに――

 今は考えられない。

 マリーは次第に逃げようとしなくなった。

 逆に身を預けてきた。

 野生の白鳥が、人間の男に慣れてくるような感じだった。



 いつの間にかコテージの中は夕闇に包まれていた。

 マリーから身体を離し、傍らにうつ伏せた。

 脈がおさまるにつれ、身体が冷えてくる。

 マリーの手が肩に触れた。右の肩にある古い銃創を、華奢な指が撫でる。

 水色の目に問われるように見つめられた。

 何も答えず彼女の指をそっと噛む。

 残念だが、そろそろロンドンに戻る時間だった。ホークは身体を起こした。

「キャンベルさん、あたし、これからどうするの?」マリーの手を引っ張って起こす。

「シャワーを浴びよう」

「そうじゃなくて……」シャワーの中でマリーは続けた。

「あたし、これからどうするの?」

 湯気の中で髪を濡らさないように、マリーの身体に手を這わせて洗った。

 シャワーから出ると、まずマリーを大きなバスタオルで覆った。

 鏡を見て自分の濡れた髪を拭き、手ぐしで手早く整える。

 頬の痣はまだ当分消えそうにない。

「名前を変えて、安全な場所に逃げるんです」

「どこ?」

「たぶん、スイスのどこかです」

「あたし、そんな所、行ったことないわ」

「あなたは別人になるんだ。だから知らない街がいい」

「いつ? すぐ?」

「すぐですよ。あなたには、まとまった金が必要だ。

 だから今の口座を解約する準備をします。

 十二月十四日に期日が来る先物契約があるから、その時に揃えて解約するのがいいでしょう」

 ホークはマリーの方を振り向いた。

「来週の金曜です。あと数日の我慢だ。できますね?」

 マリーは不安そうな顔になった。

「金曜日まで、どうしたらいいの……?」

「いつも通り、普通にしていて下さい」

「あたし、トマシュが怖いのよ。二人きりになりたくないの」

 バスタオルの上からマリーの肩を掴んだ。

「しっかりしてください。もし危険な目に遭いそうになったら、警察を呼ぶんですよ」

「……警察? キャンベルさんじゃないの?」

「僕を呼んだら、変でしょう」ホークはマリーをせかして下着をつけさせた。

「でもあたし、キャンベルさんと一緒にいたいの」

 ホークは微笑した。

「それができないことは、わかりますよね?」

 マリーに肩につかまるように言って、片足ずつブーツをはかせた。

 床の上に落ちていたドレスを着せて、後ろを閉めた。

 マリーは不安そうに俯いている。

「書類を用意して、金曜日にお持ちします。あなたのサインが必要なので」

「そんなに先なの?」マリーはますます不安そうな顔になった。

「十四日に金額が確定するんです。それを待って解約するんですよ」

「そんなの嫌。明日にして」

 明日は日曜日だ。

「マリー」

 初めてファーストネームで呼んだ。両肩に乗せた手に力をこめる。

「途中で解約したら、おかしいと思われますよ。アンドレにすぐわかってしまう。僕の言う通りにして下さい」

「金曜日まで、一人でなんて、あたし、堪えられない……」

 マリーがホークの胸にすがりついた。

 華奢な肩が少女のように頼りなく思えた。

 目の前で、可愛がっていた蛇を踏み殺されたのだ。

 その男に自分も踏みつぶされるかもしれないと、怖がっているのだ。

「僕にまた会いたいですか?」

 マリーの水色の目が切なく歪んだ。

「会いたいに、決まってるわ」

 ホークはマリーを抱きしめた――妹を抱きしめるように。

「わかりました。一人で外出できる時があったら、連絡して下さい」

 マリーが両腕で、ホークにしがみついた。

「トマシュに絶対、気づかれないようにするんですよ」

「……わかったわ」

 ロンドンに戻り、ヴィクトリアからタクシーで帰るよう、マリーを降ろした。

 彼女がタクシーに乗り込み、走り出すまで見送っていた。
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