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67 今日のキャンベルさん、違う人みたいだわ

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 マリー・ラクロワを逃亡させる。

 そのアイデアをカルロに話し、準備を始めた。

 マリーは重要な証人だった。

 本人は気づいていないが、犯罪組織の資金洗浄トリックの証人なのだ。

 所謂証人保護プログラムを使うことになるので、一度決めたら後戻りはできない。

 明日マリーに会うのは、彼女の意志を確かめる必要があるからだ。

 気が変わらないように誘導する目的もあった――捜査局の利益のために。



 その夜、眠りに就いてしばらくたった頃、枕元で携帯が振動した。

 目を開けるより先に手が行き、ツー・コール目に携帯を取った。

「ハロー?」声が擦れた。

「アラン・キャンベル?」聞きなれないアクセントだ。

 身体を起こし、目を開けた。

 午前三時になるところだった。

「……そうですが」

「タック・ヤマグチだ」目が、大きく開いた。

「ああ……例の買い手、わかったのか?」東京は土曜の午後だ。

 確かに何時でもいいから電話をくれと頼んでおいた。

「苦労したんだぜ。知り合いの知り合いを頼んで、その知り合いが、また知り合いに訊いて……」

 うん、うん、と相槌を打った。

「ありがとう。で、名前は?」

「ロー……」彼が名前を読んだが、よく聞き取れない。

「ちょっと待ってくれ、最初はRかLか?」そう言って、ナイト・テーブルに手を伸ばした。

 メモとペンを取ろうとしたが届かず、自分がベッドから転げ落ちた。

「イテエ……」

「なに?」

「……なんでもない。名前をスペルアウトしてくれないか」

 タックはロンドンL,大阪Oなどと並べていった。一文字一文字書き取った。

「ローガン・ファレル」

「そうだ」タックが言った。

「ありがとう。とても助かる」

「なんで、こんなこと知りたいんだ?」

「……今度話すよ」電話を切った。



 土曜日の待ち合わせ場所は、マリーが行くピムリコのエステティックサロンにほど近い、テート・ギャラリーのカフェにした。

 マリーはいつもタクシーを呼んで出かけるので、行き先が予定通りでないと、どこで誰からトマシュに伝わるかわからない。

 ホークはコーヒーのカップを前にしてマリーを待っていた。

 ダウンジャケットの下にTシャツとジーンズというカジュアルな格好だった。

 やがて現れたマリーは、いつも通りリンクスキャットの毛皮にブーツだった。

 ホークを見つけて小走りに駆け寄ってくる。

 なんだか嬉しそうだ。事態の深刻さを忘れたわけじゃあるまい。

「キャンベルさん、その顔……」ホークの頬の痣は前日より濃くなっていた。

「酔っぱらった同僚を担いで歩いて転んだんです」と微笑んだ。

 まあ……とマリーの掌が頬の痣にそっと触れた。

 カウンターに行ってマリーにカフェオレを買ってきた。

「トマシュには気づかれていませんか?」

「大丈夫よ。彼、ゆうべ帰って来なかったの」

「どこに行ったんです?」知らないわ、とマリーが首を振る。

「ロンドンにいるとき、トマシュはラクロワさんの家以外に、どこに寝泊まりするんですか?」

「そんなこと、あたしに言わないわよ」

 マリーが両手でカップを持ってカフェオレを啜った。

 周囲のテーブルにいる客たちの視線が自分たちに向けられるのを感じる。

 女性達は、さっきまではホークをちらちらと見ていた。

 今はマリーの毛皮に目をやり、マリーの美貌を見て、諦めか嫉妬か称賛のどれかを視線にこめている。

 男は尚更マリーを凝視する。欲望のこもった視線。

 ホークが睨みつけていることに気づくまで、やめない。

 ここでは目立ちすぎる。

 ホークは立ち上がった。

「行きましょう」マリーはホークを見上げ、飲みかけのカップをソーサーに置いた。

「どこに?」

 マリーが立つのを待って手を取った。

「静かに話が出来る所に、です」

 テート・ギャラリーの裏に路上駐車しておいたZ4にマリーを乗せた。

「どこに行くの?」

「時間はどのくらいありますか? それによって行く先を決めます」

「時間って?」

「いつもエステティックに行くと、何時頃戻るんですか?」

「決まっていないわ。ディナーがあれば、それに間に合うように帰るけど、今日は何もないの」

「でも帰りが遅くなったら、トマシュに怪しまれるでしょう?」

「さあ……でも、彼だっていないじゃない」

 ホークはステアリングから手を放し、マリーの方に身体を向けた。

「ラクロワさん、大事な事なんですよ。トマシュにも家政婦にも、あなたが普通通りに行動しているように見えないと、この先の計画がうまくいかなくなる」

 マリーは水色の目を大きく開いてホークを見つめた。

「どんな計画なの?」

 ホークは数秒間その目をじっと見ていた。普通なら気まずいと思うほど、真剣に見た。

 マリーの目に戸惑いが現れた。

「ラクロワさん、念のためにお訊きしますが、今日トマシュに頼まれて、ここに来たんじゃないですね?」

 マリーが不思議そうに首をかしげた。

「トマシュに頼まれて? どうしてそんなことがあるの?」

「一昨日の午後、僕に電話して来たのは――あの、獣医の名前とクリニックの場所を訊いてきた電話です――あれは、トマシュに訊けと言われたからでしょう?」

 マリーが眉をひそめた。

「……だって、トマシュに訊かれて、あたしうっかりして、キャンベルさんに訊いてなかったこと思い出して……」

 マリーは獣医が殺されたニュースを見ていないらしい。

 ホークは尚もじっと見つめた。

 本来なら盗聴マイクを持っていないかどうか、身体検査してから話を始める。

 マリーの腰の横に下がっている小さなポシェットに手を伸ばした。

「中を見させて下さい」

 マリーが驚くのも構わずホークはポシェットの蓋を開けた。

 携帯、家の鍵、口紅、コンパクト、香水のミニボトル、内ポケットに小銭と小額紙幣、蓋の裏の隠しポケットにクレジットカード。

 銀色のビーズの表面を手で撫でたが、異物が仕掛けられている手触りは感じなかった。

「OKです」蓋を閉めて元の位置に戻した。

 マリーが戸惑いと恐れの混じった目でホークを見ていた。

「すみません、びっくりしましたよね」ホークは穏やかに微笑んだ。

「今日のキャンベルさん、違う人みたいだわ」

 あの時、獣医の名前を教えなくても、トマシュ達はどうにかして調べ上げただろう。

 むしろアダムが襲われずに済んだことが幸運だったのだ。

「そんなことありませんよ」ホークは最上級の笑顔を向けた。

「キスしていいですか?」

 え? とマリーの目が大きくなった。

 ホークは助手席の背もたれに手を掛け、マリーの毛皮の内側に手を入れて抱きよせ、赤い唇にキスをした。

 マリーの脇の下に置いた手は、薄いニットドレスの生地を通してたっぷりした柔らかみを感じていた。

 やがて唇を離し、マリーの口紅がすっかりとれているのを見て、自分の唇を手の甲で拭った。

「行きましょう」車を発進させた。

「どこへ?」

 遅くなっても構わないならプランBだ。
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