上 下
56 / 139

56 百パーセントLB証券の社員

しおりを挟む
 あれから何度もロマネスクが『セブンオークス』の株を買い増している。

 わかっていても何も手出しできない。

 一方で、偽装の身分にどっぷり浸かった自分は、今や演技を通り越して百パーセントLB証券の社員だ。

 成績はともあれ、百パーセントの時間を使っている。

 その意味するところは即ち――

 自分は初めて任務に失敗するかもしれない。何の成果もなく。

 既にトニーに報告が行って――まあ、彼は気にしないが――交代要員が選考されているかもしれない。

 だが、落ち込んでいる暇もない。


 十二月二十一日金曜日から、長いクリスマス休暇を予定している社員が多く、ジェイミーもその一人だった。

 従って、何が何でもそれまでに、例の『業績評価』を、全過程終わらせる必要があった。

 人事部が決めた、全社的な期限は一月十日だったが、株式営業本部長、ジェイミー・トールマンの部下百人は、十二月二十一日が期限だった。

 既に、『360度評価』の期限は過ぎていた。

 必死で夜も昼もやったのに、何人かは間に合わず、「消極的拒否」をしたことになってしまった。

 そろそろ五人の部下の、個別面談と評価もやらなければならない。

 いつもなら感謝祭を過ぎたころから、マーケットは徐々に静かになってくると聞いていた。

 今年に限ってギリシャの問題や、シリア・エジプト・イスラエル・パレスチナ・イランなどのニュースが目白押しだ。

 十二月になっても利益確定売りや裁定買い(先物が高いので先物を売り、割安な現物を買う)が続き、全く空く時間がなかった。

 おまけに近々行われる日本の総選挙で、ほぼ政権交代が予測されると言われていた。

 朝会のコメントで、これから更に円安が進み、日本株全般が動くという話が出た。

 日本株は担当ではないので話半分に聞いていたのだが――

 アンドレから、突然手持ちの日本株を売りたいと電話がかかってきた。

 東証の一部上場輸出関連銘柄だという。

 東京も大阪も指標を見たことがなかったので、見当がつかなかった。

 前任のロニーも、日本株の売買記録を残していない。

 全くわからないまま、まとまった指値注文を受けて電話を切り、イーサンに手順を訊く始末だった。

 東京支店の担当者にメールで注文を出し、夜電話で話すことにした。

 そうこうしているうちに、部下五人分の評価面談が予定表に入れられた。

 皆の休みの予定を把握しているパメラが、部下たちの催促にたまりかねて決めたらしい。

 ふと見ると、昼休みに自分とジェイミーの面談が入っていた。

 気づいたのが遅く、三分ほど遅れて彼のオフィスに走っていった。

 ジェイミーは、のんびりとスクリーンを見ながらサンドイッチを食べていた。

「おお来たか。まあ座れ。おまえも昼を食ったらどうだ」

 ふだんまわりの皆の話を聞いていると、彼の年収や、将来数年かけて行使できるストック・オプションなどの総額を想像できる。

 しかし昼間よく食べているのは、カフェテリアで売っているサンドイッチとビスケットと紅茶だ。

 ジェイミーは紅茶派で、それも相当濃く入れるのが好みなので、いつもカップにティーバッグが二つ入っている。

 ホークの分もサンドイッチの箱が用意してあった。コーヒーもあった。

「いただきます」

「どうだ、この会社は」

「みんなによくしてもらって、楽しいです」

「ロニーの後だからな……」

 何か思い出したように、口を噤んだ。

「ロニーは皆に、良く言われていますね」

「ああ。いい奴だった。知っていることを仲間には惜しまず教えていた。

 客のあしらいもうまくてな。怒っている客をなだめるのもうまかった。

 その実、客から絞り取っていた」

 そのまましばらくスクリーンを見たまま、メールの返事を書き続ける。

「おまえもよくやってる。評判もいい。入って早々稼いだしな」

 はあ、とホークは食べながら頷いた。

 メールを送り終わったらしく、こっちを向いた。

「仲間と仲良く、敵には容赦なく、客には優しく且つ絞り取る。

 来年は今年の百二十%達成すると書いて、サインしたら、おれに送っておけ」

「了解しました」

 なんだ、こんなに簡単でいいのか。

 ジェイミーにならって、部下達の面談をそれぞれ五分で終わらせた。

 もともと部下と言ったって、いつの間にかそうなっていただけだ。

 それらしいことをお互いにしていないのだ。そう、パメラ以外は。

 パメラは五分というわけにいかない。

 本人がホークのカレンダーをブロックしている時間は、一時間――そんなに?

 雑用――通常の業務――に追われ、電話に向かってしゃべりまくっているうちに、その時間が近付いてきた。

 ふとパメラのデスクを見ると、席にいない。もう会議室に行ったのか。

 するとまた電話が鳴った。

 さっきメッセージを残しておいた返事で、今日の約定やくじょうについての確認だった。

 電話を切ると、数字を確認して資金決済課に内容を流した。

 それが終わるとあわてて紙のノートを持って、「会議室A」に向かった。

 ドアを開けて、既に座っていたパメラにすぐ謝った。

「ううん、大丈夫。どうせアラン遅れるから、長めに取っておいたの」

 持つべきものは、寛容なアシスタントだ。

 何も言わなくても事情を察して、先回りしてくれるような。

 施設のボランティア活動で一緒にピアノを弾いて以来、パメラは最初の頃のように柔らかく接してくれる。

「自己評価、送っておいたけど、読んでくれた?」

 いきなり言われて顔を見ると、マスカラびっしりの目でニコニコしていた。

 テーブルの上に置いた両腕のちょうど上に、ピンクのモヘアのセーターの膨らみが乗っている。

 しかしパメラから送られたメールは、一般受信フォルダーに入っているため、見ていなかった。

「うん」

「あれでいい?」

 ――わかんないけど、

「いいよ」

「じゃ、来年はあたし、アランの専属アシスタントね?」

「え?」

 パメラはもう一人のジュニア・アシスタントと、ホークたちの列を二人で受け持っている。

 シャロンは近くに座っているが、エディの専属だ。 

「いや、おれだけってわけには」

「だって、アランの用事すごく多いんだもの。他の人と比べ物にならない。皆は自分のことは自分でやってるけど、アランはメールの返事も出せないじゃない」

「……出してると思うけど」

「それは、営業のメールでしょ。その他にいっぱい来てるの、知ってる? 

 そっちのフォルダー、見てもいないんでしょ。あたし、コピーされてるから、

 アランが返事しないと皆あたしに電話してくるの」

「……ごめん、見るようにする」

 パメラは首を横に振った。無理、無理。

「予定表に入れておいても会議に行くの忘れるし、リマインダーを送っても見ないから、席まで行って肩叩かなきゃいけないし。他の皆と違うのよ」

「……ごめん、ちゃんと見るようにする」

「ううん、いいの。アランには無理。だからあたしが必要でしょ?」

 ホークは肘をつき、手で額を支えた。

「……自己評価もちゃんと読んでおくよ」

「ううん、いいの」パメラが思いっきり楽しそうな目をして、身を乗り出した。

「どうせアラン読まないから、送ってないの」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

生きている壺

川喜多アンヌ
ホラー
買い取り専門店に勤める大輔に、ある老婦人が壺を置いて行った。どう見てもただの壺。誰も欲しがらない。どうせ売れないからと倉庫に追いやられていたその壺。台風の日、その倉庫で店長が死んだ……。倉庫で大輔が見たものは。

極上の一夜で懐妊したらエリートパイロットの溺愛新婚生活がはじまりました

白妙スイ@書籍&電子書籍発刊!
恋愛
早瀬 果歩はごく普通のOL。 あるとき、元カレに酷く振られて、1人でハワイへ傷心旅行をすることに。 そこで逢見 翔というパイロットと知り合った。 翔は果歩に素敵な時間をくれて、やがて2人は一夜を過ごす。 しかし翌朝、翔は果歩の前から消えてしまって……。 ********** ●早瀬 果歩(はやせ かほ) 25歳、OL 元カレに酷く振られた傷心旅行先のハワイで、翔と運命的に出会う。 ●逢見 翔(おうみ しょう) 28歳、パイロット 世界を飛び回るエリートパイロット。 ハワイへのフライト後、果歩と出会い、一夜を過ごすがその後、消えてしまう。 翌朝いなくなってしまったことには、なにか理由があるようで……? ●航(わたる) 1歳半 果歩と翔の息子。飛行機が好き。 ※表記年齢は初登場です ********** webコンテンツ大賞【恋愛小説大賞】にエントリー中です! 完結しました!

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

【BL】男なのになぜかNo.1ホストに懐かれて困ってます

猫足
BL
「俺としとく? えれちゅー」 「いや、するわけないだろ!」 相川優也(25) 主人公。平凡なサラリーマンだったはずが、女友達に連れていかれた【デビルジャム】というホストクラブでスバルと出会ったのが運の尽き。 碧スバル(21) 指名ナンバーワンの美形ホスト。博愛主義者。優也に懐いてつきまとう。その真意は今のところ……不明。 「僕の方がぜってー綺麗なのに、僕以下の女に金払ってどーすんだよ」 「スバル、お前なにいってんの……?」 冗談? 本気? 二人の結末は? 美形病みホスと平凡サラリーマンの、友情か愛情かよくわからない日常。

旦那様に離婚を突きつけられて身を引きましたが妊娠していました。

ゆらゆらぎ
恋愛
ある日、平民出身である侯爵夫人カトリーナは辺境へ行って二ヶ月間会っていない夫、ランドロフから執事を通して離縁届を突きつけられる。元の身分の差を考え気持ちを残しながらも大人しく身を引いたカトリーナ。 実家に戻り、兄の隣国行きについていくことになったが隣国アスファルタ王国に向かう旅の途中、急激に体調を崩したカトリーナは医師の診察を受けることに。

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話

甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。 王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。 その時、王子の元に一通の手紙が届いた。 そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。 王子は絶望感に苛まれ後悔をする。

処理中です...