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56 百パーセントLB証券の社員
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あれから何度もロマネスクが『セブンオークス』の株を買い増している。
わかっていても何も手出しできない。
一方で、偽装の身分にどっぷり浸かった自分は、今や演技を通り越して百パーセントLB証券の社員だ。
成績はともあれ、百パーセントの時間を使っている。
その意味するところは即ち――
自分は初めて任務に失敗するかもしれない。何の成果もなく。
既にトニーに報告が行って――まあ、彼は気にしないが――交代要員が選考されているかもしれない。
だが、落ち込んでいる暇もない。
十二月二十一日金曜日から、長いクリスマス休暇を予定している社員が多く、ジェイミーもその一人だった。
従って、何が何でもそれまでに、例の『業績評価』を、全過程終わらせる必要があった。
人事部が決めた、全社的な期限は一月十日だったが、株式営業本部長、ジェイミー・トールマンの部下百人は、十二月二十一日が期限だった。
既に、『360度評価』の期限は過ぎていた。
必死で夜も昼もやったのに、何人かは間に合わず、「消極的拒否」をしたことになってしまった。
そろそろ五人の部下の、個別面談と評価もやらなければならない。
いつもなら感謝祭を過ぎたころから、マーケットは徐々に静かになってくると聞いていた。
今年に限ってギリシャの問題や、シリア・エジプト・イスラエル・パレスチナ・イランなどのニュースが目白押しだ。
十二月になっても利益確定売りや裁定買い(先物が高いので先物を売り、割安な現物を買う)が続き、全く空く時間がなかった。
おまけに近々行われる日本の総選挙で、ほぼ政権交代が予測されると言われていた。
朝会のコメントで、これから更に円安が進み、日本株全般が動くという話が出た。
日本株は担当ではないので話半分に聞いていたのだが――
アンドレから、突然手持ちの日本株を売りたいと電話がかかってきた。
東証の一部上場輸出関連銘柄だという。
東京も大阪も指標を見たことがなかったので、見当がつかなかった。
前任のロニーも、日本株の売買記録を残していない。
全くわからないまま、まとまった指値注文を受けて電話を切り、イーサンに手順を訊く始末だった。
東京支店の担当者にメールで注文を出し、夜電話で話すことにした。
そうこうしているうちに、部下五人分の評価面談が予定表に入れられた。
皆の休みの予定を把握しているパメラが、部下たちの催促にたまりかねて決めたらしい。
ふと見ると、昼休みに自分とジェイミーの面談が入っていた。
気づいたのが遅く、三分ほど遅れて彼のオフィスに走っていった。
ジェイミーは、のんびりとスクリーンを見ながらサンドイッチを食べていた。
「おお来たか。まあ座れ。おまえも昼を食ったらどうだ」
ふだんまわりの皆の話を聞いていると、彼の年収や、将来数年かけて行使できるストック・オプションなどの総額を想像できる。
しかし昼間よく食べているのは、カフェテリアで売っているサンドイッチとビスケットと紅茶だ。
ジェイミーは紅茶派で、それも相当濃く入れるのが好みなので、いつもカップにティーバッグが二つ入っている。
ホークの分もサンドイッチの箱が用意してあった。コーヒーもあった。
「いただきます」
「どうだ、この会社は」
「みんなによくしてもらって、楽しいです」
「ロニーの後だからな……」
何か思い出したように、口を噤んだ。
「ロニーは皆に、良く言われていますね」
「ああ。いい奴だった。知っていることを仲間には惜しまず教えていた。
客のあしらいもうまくてな。怒っている客をなだめるのもうまかった。
その実、客から絞り取っていた」
そのまましばらくスクリーンを見たまま、メールの返事を書き続ける。
「おまえもよくやってる。評判もいい。入って早々稼いだしな」
はあ、とホークは食べながら頷いた。
メールを送り終わったらしく、こっちを向いた。
「仲間と仲良く、敵には容赦なく、客には優しく且つ絞り取る。
来年は今年の百二十%達成すると書いて、サインしたら、おれに送っておけ」
「了解しました」
なんだ、こんなに簡単でいいのか。
ジェイミーにならって、部下達の面談をそれぞれ五分で終わらせた。
もともと部下と言ったって、いつの間にかそうなっていただけだ。
それらしいことをお互いにしていないのだ。そう、パメラ以外は。
パメラは五分というわけにいかない。
本人がホークのカレンダーをブロックしている時間は、一時間――そんなに?
雑用――通常の業務――に追われ、電話に向かってしゃべりまくっているうちに、その時間が近付いてきた。
ふとパメラのデスクを見ると、席にいない。もう会議室に行ったのか。
するとまた電話が鳴った。
さっきメッセージを残しておいた返事で、今日の約定についての確認だった。
電話を切ると、数字を確認して資金決済課に内容を流した。
それが終わるとあわてて紙のノートを持って、「会議室A」に向かった。
ドアを開けて、既に座っていたパメラにすぐ謝った。
「ううん、大丈夫。どうせアラン遅れるから、長めに取っておいたの」
持つべきものは、寛容なアシスタントだ。
何も言わなくても事情を察して、先回りしてくれるような。
施設のボランティア活動で一緒にピアノを弾いて以来、パメラは最初の頃のように柔らかく接してくれる。
「自己評価、送っておいたけど、読んでくれた?」
いきなり言われて顔を見ると、マスカラびっしりの目でニコニコしていた。
テーブルの上に置いた両腕のちょうど上に、ピンクのモヘアのセーターの膨らみが乗っている。
しかしパメラから送られたメールは、一般受信フォルダーに入っているため、見ていなかった。
「うん」
「あれでいい?」
――わかんないけど、
「いいよ」
「じゃ、来年はあたし、アランの専属アシスタントね?」
「え?」
パメラはもう一人のジュニア・アシスタントと、ホークたちの列を二人で受け持っている。
シャロンは近くに座っているが、エディの専属だ。
「いや、おれだけってわけには」
「だって、アランの用事すごく多いんだもの。他の人と比べ物にならない。皆は自分のことは自分でやってるけど、アランはメールの返事も出せないじゃない」
「……出してると思うけど」
「それは、営業のメールでしょ。その他にいっぱい来てるの、知ってる?
そっちのフォルダー、見てもいないんでしょ。あたし、コピーされてるから、
アランが返事しないと皆あたしに電話してくるの」
「……ごめん、見るようにする」
パメラは首を横に振った。無理、無理。
「予定表に入れておいても会議に行くの忘れるし、リマインダーを送っても見ないから、席まで行って肩叩かなきゃいけないし。他の皆と違うのよ」
「……ごめん、ちゃんと見るようにする」
「ううん、いいの。アランには無理。だからあたしが必要でしょ?」
ホークは肘をつき、手で額を支えた。
「……自己評価もちゃんと読んでおくよ」
「ううん、いいの」パメラが思いっきり楽しそうな目をして、身を乗り出した。
「どうせアラン読まないから、送ってないの」
わかっていても何も手出しできない。
一方で、偽装の身分にどっぷり浸かった自分は、今や演技を通り越して百パーセントLB証券の社員だ。
成績はともあれ、百パーセントの時間を使っている。
その意味するところは即ち――
自分は初めて任務に失敗するかもしれない。何の成果もなく。
既にトニーに報告が行って――まあ、彼は気にしないが――交代要員が選考されているかもしれない。
だが、落ち込んでいる暇もない。
十二月二十一日金曜日から、長いクリスマス休暇を予定している社員が多く、ジェイミーもその一人だった。
従って、何が何でもそれまでに、例の『業績評価』を、全過程終わらせる必要があった。
人事部が決めた、全社的な期限は一月十日だったが、株式営業本部長、ジェイミー・トールマンの部下百人は、十二月二十一日が期限だった。
既に、『360度評価』の期限は過ぎていた。
必死で夜も昼もやったのに、何人かは間に合わず、「消極的拒否」をしたことになってしまった。
そろそろ五人の部下の、個別面談と評価もやらなければならない。
いつもなら感謝祭を過ぎたころから、マーケットは徐々に静かになってくると聞いていた。
今年に限ってギリシャの問題や、シリア・エジプト・イスラエル・パレスチナ・イランなどのニュースが目白押しだ。
十二月になっても利益確定売りや裁定買い(先物が高いので先物を売り、割安な現物を買う)が続き、全く空く時間がなかった。
おまけに近々行われる日本の総選挙で、ほぼ政権交代が予測されると言われていた。
朝会のコメントで、これから更に円安が進み、日本株全般が動くという話が出た。
日本株は担当ではないので話半分に聞いていたのだが――
アンドレから、突然手持ちの日本株を売りたいと電話がかかってきた。
東証の一部上場輸出関連銘柄だという。
東京も大阪も指標を見たことがなかったので、見当がつかなかった。
前任のロニーも、日本株の売買記録を残していない。
全くわからないまま、まとまった指値注文を受けて電話を切り、イーサンに手順を訊く始末だった。
東京支店の担当者にメールで注文を出し、夜電話で話すことにした。
そうこうしているうちに、部下五人分の評価面談が予定表に入れられた。
皆の休みの予定を把握しているパメラが、部下たちの催促にたまりかねて決めたらしい。
ふと見ると、昼休みに自分とジェイミーの面談が入っていた。
気づいたのが遅く、三分ほど遅れて彼のオフィスに走っていった。
ジェイミーは、のんびりとスクリーンを見ながらサンドイッチを食べていた。
「おお来たか。まあ座れ。おまえも昼を食ったらどうだ」
ふだんまわりの皆の話を聞いていると、彼の年収や、将来数年かけて行使できるストック・オプションなどの総額を想像できる。
しかし昼間よく食べているのは、カフェテリアで売っているサンドイッチとビスケットと紅茶だ。
ジェイミーは紅茶派で、それも相当濃く入れるのが好みなので、いつもカップにティーバッグが二つ入っている。
ホークの分もサンドイッチの箱が用意してあった。コーヒーもあった。
「いただきます」
「どうだ、この会社は」
「みんなによくしてもらって、楽しいです」
「ロニーの後だからな……」
何か思い出したように、口を噤んだ。
「ロニーは皆に、良く言われていますね」
「ああ。いい奴だった。知っていることを仲間には惜しまず教えていた。
客のあしらいもうまくてな。怒っている客をなだめるのもうまかった。
その実、客から絞り取っていた」
そのまましばらくスクリーンを見たまま、メールの返事を書き続ける。
「おまえもよくやってる。評判もいい。入って早々稼いだしな」
はあ、とホークは食べながら頷いた。
メールを送り終わったらしく、こっちを向いた。
「仲間と仲良く、敵には容赦なく、客には優しく且つ絞り取る。
来年は今年の百二十%達成すると書いて、サインしたら、おれに送っておけ」
「了解しました」
なんだ、こんなに簡単でいいのか。
ジェイミーにならって、部下達の面談をそれぞれ五分で終わらせた。
もともと部下と言ったって、いつの間にかそうなっていただけだ。
それらしいことをお互いにしていないのだ。そう、パメラ以外は。
パメラは五分というわけにいかない。
本人がホークのカレンダーをブロックしている時間は、一時間――そんなに?
雑用――通常の業務――に追われ、電話に向かってしゃべりまくっているうちに、その時間が近付いてきた。
ふとパメラのデスクを見ると、席にいない。もう会議室に行ったのか。
するとまた電話が鳴った。
さっきメッセージを残しておいた返事で、今日の約定についての確認だった。
電話を切ると、数字を確認して資金決済課に内容を流した。
それが終わるとあわてて紙のノートを持って、「会議室A」に向かった。
ドアを開けて、既に座っていたパメラにすぐ謝った。
「ううん、大丈夫。どうせアラン遅れるから、長めに取っておいたの」
持つべきものは、寛容なアシスタントだ。
何も言わなくても事情を察して、先回りしてくれるような。
施設のボランティア活動で一緒にピアノを弾いて以来、パメラは最初の頃のように柔らかく接してくれる。
「自己評価、送っておいたけど、読んでくれた?」
いきなり言われて顔を見ると、マスカラびっしりの目でニコニコしていた。
テーブルの上に置いた両腕のちょうど上に、ピンクのモヘアのセーターの膨らみが乗っている。
しかしパメラから送られたメールは、一般受信フォルダーに入っているため、見ていなかった。
「うん」
「あれでいい?」
――わかんないけど、
「いいよ」
「じゃ、来年はあたし、アランの専属アシスタントね?」
「え?」
パメラはもう一人のジュニア・アシスタントと、ホークたちの列を二人で受け持っている。
シャロンは近くに座っているが、エディの専属だ。
「いや、おれだけってわけには」
「だって、アランの用事すごく多いんだもの。他の人と比べ物にならない。皆は自分のことは自分でやってるけど、アランはメールの返事も出せないじゃない」
「……出してると思うけど」
「それは、営業のメールでしょ。その他にいっぱい来てるの、知ってる?
そっちのフォルダー、見てもいないんでしょ。あたし、コピーされてるから、
アランが返事しないと皆あたしに電話してくるの」
「……ごめん、見るようにする」
パメラは首を横に振った。無理、無理。
「予定表に入れておいても会議に行くの忘れるし、リマインダーを送っても見ないから、席まで行って肩叩かなきゃいけないし。他の皆と違うのよ」
「……ごめん、ちゃんと見るようにする」
「ううん、いいの。アランには無理。だからあたしが必要でしょ?」
ホークは肘をつき、手で額を支えた。
「……自己評価もちゃんと読んでおくよ」
「ううん、いいの」パメラが思いっきり楽しそうな目をして、身を乗り出した。
「どうせアラン読まないから、送ってないの」
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