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52 蛇のリリーは一週間おきくらいに餌を食べる

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 マリーの話によると、蛇のリリーは一週間おきくらいに餌を食べる。

 餌は殺したばかりの新鮮な鼠で、いつもペットショップで食べさせてもらう。

 きのうもいつもと同じように、ペットショップで鼠を食べた。

 今朝になって具合が悪そうになり、徐々に食べた鼠を吐き出し始めた。

 つまりさっきのは、鼠の残骸だ。ホークは顔を顰めた。

 ペットショップに電話すると先ほどの住所を言われて、ドクターに鼠ごと渡して来いと言われた。

 ブラックフライヤーズ・ブリッジでテムズを渡り、ランべスに向かった。

「よかったー、キャンベルさんが一緒に来てくれて」

「トマシュはいないんですか」

「いないの。トマシュもアンドレも、ずっとドバイに行ってるの」

「ラクロワさん、僕も株の営業が仕事なので、買っていただきたい物があります」

「いいわよ。なあに?」

 値上がりしそうなドイツ株をいくつか挙げた。

「年末にかけて、売り時が来たらお知らせします。短期で儲けられますよ」

 マリーは笑顔で頷いた。

 そのためにまた送金が発生する。

 他の客をほったらかして、マリーの蛇のために時間を使っているのだから、当然だ。

 ランべス地区に入った。

 ホークは後をつけられていないか、周囲に何か不審な車はいないか、それとなく窺った。

 自分で見た範囲では、特に異常を感じることはなかった。

 このあたりは川の向こう側とはだいぶ違う。

 古い建物、それもあまり手入れの行き届いていない古い煉瓦の建物が多い。

 白漆喰の高級住宅街と比べると、街並み自体が暗く見える。

 メモにあった住所を見つけて車を停めた。

 築百年近く経っていそうな古いレンガ壁のビルだ。

 十メートルほど向こうに、古い小型車などの間に停まっている黒いバンがあった。

 カルロが仕向けた部下の車だろう。

 後部の窓も黒くスクリーンがかかっているのでこちらからは見えないが、向こうからはこっちがよく見えているはずだ。

 古ぼけたビルの正面にある緑色のドアの脇には、テナント名とインターホンのボタンがついている。

 メモ書きの名前はドクター・マフメドフ、と読めた。

 ロシア人なのだろうか。発音しにくい。

 ポケットの中でブラックベリーが振動している。

 パメラから「どこにいるの?」と捜索されていた。

「キャンベルさん、降りて」マリーが高いソプラノ調の声で言った。

「いや、ここで待っています」パメラに返事を出した。

 マリーの約定やくじょう内容を伝える。……ちゃんと仕事しているのだ、と言わなければ。

「駄目よ。一緒に来て」いきなり腕を引っ張られ、ブラックベリーが落ちた。

「あの……」

 悪びれる様子もなく、マリーは非難の目を向けてくる。

「こんな所に一人で入るの、嫌」赤い唇がOの字に丸くなった。

 蛇なんかどうでもいい――

 と思ったが、まず自分が降りて車の前方をまわり、マリーのドアを開けてやった。

 差し出した手に蛇のバスケットを受け取り、それを一旦歩道に置く。

 次にマリーの手を取った。

 華奢で温かい手の平だ。

 マリーは足元が危ないわけでもないのに、歩道に降りるとホークの腕に両腕ですがりついた。

 必然的に、蛇のバスケットはホークが持った。

 色褪せた緑色のドアの前に立って、テナント名の表札からドクター・マフメドフを探す。

 マリーはホークの片方の腕にもたれかかるように密着していた。

 どう見ても恋人同士だ。

 カルロの部下が、望遠レンズを通して拡大して見ていることだろう。

 ドクターの名前を見つけて上から三番目のインターホンを押した。

 ややあって、「ハロー?」という男のしわがれた声がした。

 回線のせいかわからないが、すごく年寄りな感じがする。

 君が話せ、とマリーの両肩に手を置いて促した。

「マリー・ラクロワよ。さっきうちの蛇のことで、ペットショップから電話が行ってると思うけど」こちらは鈴の音のような高い声だ。

 ドアが解錠された。

 一応エレベーターはあったが、なんと手動で開ける、最近見たこともない古い型式だった。

 蛇腹のような扉を引いて開け、更に内側の折りたたみ式ドアをレバーでスライドさせる。

 籠に乗っている気分になる。

 三階まで十分かかるかと思った。開ける時も手動だ。

 外側の蛇腹を開けて廊下に出る。

 蛍光灯のわびしい明かりしかない。

 擦り切れたカーペットは、たぶんもとは青だったと思われる。

 何かきつい洗剤の匂いが漂っている。あるいは殺虫剤か。

 薄緑色にペンキで塗られた各ドアに番号がついていた。

 どこかの部屋から、何語かわからないが話し声が漏れてくる。

 目指すべき番号は、マリーのメモによれば6番だった。

 そのドアを見つけ再度インターホンを押す。

 それにしても何のドクターなんだ? 

 ほどなくしてドアが開けられた。

 黒ぶち眼鏡の、六十代くらいに見える、背の高い男の顔が覗いた。

 肌も浅黒い。ロシアと言うより中近東か。

 マリーよりも先にホークと目が合った。

「どなたかな」英語だった。

 マリーが口を利いた。

「マリーよ。こちらは私の連れ」

 男の視線が下に向き、マリーを認めたようだった。

 入れとは言われなかった。

 男はマリーからバスケットを受け取って、待っていろと言い、ドアが閉まった。

 マリーと顔を見合わせる。

 随分愛想のないドクターだ。

 獣医として開業しているなら、普通、看板が出ていて、待合室くらいあるだろう。

 どう見ても怪しい。

 こいつはインチキか、または、外国人だから開業できず、裏で商売している口か。

 あまり知られたくないだろう。特にホークのような、予期せぬ一般市民には。

 ほどなくまたドアが開いた。

 ドクターがバスケットを差し出した。

 マリーが受け取ると、一瞬ギロリとホークをねめつけ、「さよなら」と言ってドアを閉めた。

 バスケットの蓋を開けると、吐いた鼠の残骸がきれいにこそぎ取られていた。

 蛇はなんとなく、おとなしげにじっとしている。

「変なの。鼠を取られただけだわ」

「お金、払いました?」

 ううん、とマリーが首を振る。

「おかしいですね」ホークはまたインターホンを押した。

 数秒後、先ほどと同じ声が「ハロー?」と応答した。

「すみません、先ほどの蛇のことでお訊きしたいことが」

「なんだ」これが客に対する言い方か?

「どこが悪かったんですか」

「どこも悪くない」

「でも、食べたものを吐いていたでしょう?」

「鼠が腐っていたんだ。吐いたから大丈夫だ」

 マリーを見ると、目を丸くしていた。

「じゃ、治療代は?」

「いらない」その一言で、相手は回線を切ったようだった。

「ペットショップに文句言ってやらなきゃ」

「それがいいですね」

 外に出ると、黒いバンは同じ場所に停まっていた。

 中に入る前と変っていたのは、Z4の後ろに空いていたスペースに、ピザの配達のバイクが停まっていることだった。

 助手席のドアを先に開けてマリーを乗せる。

 ピザ屋の制服を着た男が向かいのビルから走り出てきた。

 向かいは何かのオフィスが入っているらしく、二階から三階までの窓に明かりがついている。

 先にバイクが出て行くのを待って、ホークはZ4を出した。

 黒いバンの横を通り過ぎる時、横目で運転席を見た。

 男が二人乗っている。二人とも写真で見たことのあるカルロのチームの男だった。

 チェルシーの、マリーの自宅に向かう。
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