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50 キャンベルさんは、くじけそうになったりしたことあります?

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 久しぶりにハルをランチに誘った。

 五分ほど歩いたビルの中にあるチャイニーズ・レストランだ。

「ジェニファーが再就職したんです」

 たぶん自分の上司がホークに『360度』評価を頼んだのを知っているので、ハルは少しきまり悪そうに上目遣いで見た。

「へえ、よかったじゃないか。どこだい?」

 もちろんカルロから聞いて知っていた。

 春巻きを箸で掴もうとして、失敗した。

 箸が丸いせいでツルツル滑る。

 仕方ないのでこうばしい皮をバリっと突き刺した。

「それが、ジブラルタルのヘッジファンドなんです。随分思い切った感じで……」

「ヘッジファンド? 何するの?」

「ファンドマネージャーのアシスタントです。引っ越し代を出してくれるなんて、すごくいい条件ですよね」

 確かにアシスタントくらい、どこにでも候補者はいるだろう。

 引っ越し代を出してまで来てほしいとは、普通では考えられない。

 カルロたちがよほど気前よく予算を使ったらしい。

「すごいじゃないか」

 ハルはジャスミンティーの小さな茶碗を傾けて、飲みほした。

 その仕草が彼女の細い手首を丸見えにした。

「フィッシャーさんの、ニューヨーク時代のお客さんだった人の紹介とか、言ってました」

「ふーん。喜んでいただろうね」

 はい、と頷き、春雨のスープを白い陶器の大きなスプーンですくって飲んだ。

「君は将来どうしたいの?」

「え?」

「仕事、おもしろい?」

「……おもしろいとかって言うより、やっとついて行ってるって言うか……」

「いつか東京に帰るの?」

「東京に空きがあれば、ですけど」

「なかったら?」

「帰れません。もともと東京が人員削減になって、私は異動できたから、クビになっていないんです」

「そうなの?」

 ハルは、こくんと頷いた。

「キャンベルさんは、すごいですね。あんなにたくさん候補者がいたのに選ばれて」

「ほかの候補者が断ったって聞いたよ」捜査局がそう仕向けたからだ。

「でも、最終に残ったんですから」

 ホークは甘辛いソースに絡めたエビを一つ口に入れ、窓の外を行き交う人波に目をやった。

 足早に歩く長いコートの女性と、スエードのショートコートの初老の男。

 大きなカバンを肩から下げ、手に書類が挟まったファイルを抱えている若い男。
 
 携帯を耳につけて話しながら、あたりを見回す背の高い男。

 両手をダウンジャケットのポケットに突っ込んで、笑いながらゆっくり歩く二人連れの若い女性。

「株の営業が好きなんですね」

 目を戻してふっと笑った。

「まあ、嫌いなわけじゃないけど」
 
 ハルの皿の野菜と豚肉の炒め物は半分以上残っている。

「もらうよ」箸をのばして肉を一つ取った。

「君の友達は仕事見つかった?」

 ハルの動作が止まった。ううん、と首を振る。

「いったい彼女、就職活動しているの?」

「してますよ。ベッカは外国人だから不利なんです」

「……どこの国?」

「ルーマニアです」

「EUじゃないか。何が不利なんだ」

 ハルは、わかってないですね、と言わんばかりの非難がましい視線になった。

「移民にはすごく不利なんです」

 そういえば、保守政権になってから、イギリスは外国人の移民ビザの発給条件を厳しくした。

「でも、もともと就労ビザを持っているんだろう」

「……一度失効して、今、旅行者なんです」

「まさか不法滞在?」

「違いますよ。九十日ごとに国外に出ています」

 随分不安定な生活だ。

 しかし国外に出るには金がかかる。

 全く何を考えているのやら……。

「なんで友達になったの」

「ベッカがルームメイトを募集していたんです」

「たぶんその子、そのうち戻ってこなくなるんじゃない?」

 ハルは目を伏せたまま口をムッと結んだ。

「君が応援しているのはわかるけどさ」

「キャンベルさんは、くじけそうになったりしたことあります?」

 数回瞬きをしてから目を上げた。ハルと目が合った。

「ベッカは、本当にもう諦める寸前かもしれないです。

 どこに履歴書送っても面接によばれなくて。

 見ていると、なんだか……」

 自分には「くじけそう」になるのを親友と励まし合うような青春はなかった。

 どこまで時間を遡ればそうできただろうか。

「僕にはその話をする資格はないな」
 
 ハルが不思議そうに少し首を傾けた。

「とっくにくじけて諦めの人生を送っているからさ」

「またそんなこと……」

「僕の話はやめよう」

 ポットのお茶をカップに注いでみると、随分濃くなっていた。

「キャンベルさんて、自分のことあまり話さないですよね」

 ホークは苦いお茶に顔を顰めた。

「そう?」

「みんな言ってますよ」

「……みんな?」

「前の会社のこととか、ニューヨークの話、全然しないし」

 ハルの皿から次々野菜と肉を取って口に入れた。

 捜査局の研修担当も、さすがにそこまでは手が回らなかった。

 急いでいたんだから仕方がない。

「フィッシャーさんは、随分いろんなことを話していましたよ」

 ホークは黙って咀嚼した。

「婚約者のことだって、普通はもうちょっと、どんな話をしたとか、どこへ行ったとか、喧嘩したとか、何か話すじゃないですか」

「じゃあなに」ようやく口の中のものを飲み込んだ。

「婚約者がいるというのは嘘だとか、思ってるの?」

 ハルは一瞬、眉根を寄せた。

「そういう風にカモフラージュしてるだけじゃないかって……」

「て、『みんな』が言ってんのか」

「キャンベルさん、もてるから」

 ホークは話しても大丈夫だと思える範囲を頭の中で確認した。

「連れ子がいてさ。九歳の女の子。これが僕の言うことはまったくきかない。先が思いやられるよ」

 最近のメリー・アンは下手すると、メイリードと同じ口調でホークに命令しかねない。

「すごーい……」

「なにが?」

「じゃあ、お父さんになるんですね、いきなり」

「あまりそういう気は、しないけど」

「だからその子、言うこときかないんじゃないですか? キャンベルさんがお父さんらしくしないから」

「おれ、九歳の娘がいるように見える?」

「……見えませんね」

「だろ?」

 ただでさえメイリードが一つ年下なのに、彼女の方が年上に見えると言われている。

「大変ですね……」ハルは下を向いて、くすくす笑った。

 艶やかな頬が膨らんで、かわいらしい。

「私がキャンベルさんの彼女だったら、ちょっと困るかも」

 ハルはふと笑うのをやめた。

「でも、キャンベルさんの幼なじみなのに、別の人と結婚してたんですか」

「……まあ、いろいろあって」

「キャンベルさんがもてるから、浮気したんですか?」

「違うよ」

「じゃ、彼女が別に好きな人ができちゃって?」

「まあ、そうかな」

「へえじゃあ、失恋状態だったんですか?」

「そう。ショックで手当たり次第、女の子とつきあった」

「それでニューヨークにいられなくなって?」

「ああ、まあ、そう……かな」

「やっと繋がりました」ハルは満足気に笑った。

「よく、もとの莢に戻りましたね」

 何か失言をしていないだろうか。一瞬、ひやりとした。

「……彼女を忘れられなかったから、会いに行って、直談判したんだ」

 ええ? ハルは目を大きく見張った。

「略奪したんですか?」

 頷いた。

「すごい……」

 ホークは腕時計を見た。

「もう戻らないと」

 会社に戻る道すがら、ハルは「すごい、すごい……」と言っていた。

「ねえ、なんて言ったんですか、彼女の所に行って? それって告白ですよね? あ、違う、プロポーズ?」

 なんだか子犬がまとわりつくような感じでついてくる。

「ねえねえ、なんて言ったんですか? 聞きたいですう!」

 夢見るような瞳を見降ろし、ため息をつきそうになった。

「まだ前の夫と離婚が成立していないんだ」

「ええっ?」新たな驚きに、目が丸くなった。



 その午後アメリカの大手投資銀行が、ドイツの自動車メーカーへの投資判断を一ランク引き下げた。

 それを受けて、ある客と長い議論を交わした結果、売却すると言われ、ホークはその指示を出した。

 イーサンの客も同じことをしていた。

 互いに顔を見合わせ、肩をすくめた。

「おまえも案外、苦労しているんだな」イーサンがふと言った。

「え?」

「いやなに、見た目と要領がいいから、何事も順調ってわけじゃないんだな」

「?」

 イーサンが身を乗り出して小声で囁いた。

「おまえどうするわけ、彼女の離婚が成立しないままで?」

 左側のアダムまで椅子を引き寄せて来た。

「おれも聞きたい、世紀の口説き文句!」

「ちょっと待てよ」ホークは二人を交互に見た。

「おれ、ハルにしか話していないぜ」

 あははは……。

「人事部の連中が口が堅いと思ったら、大間違いだぜ」

「やつら、プライバシーの宝庫だからな」

「面白い話はすぐ広まる。クオンツの高速取引並みの速さだ」
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