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44 君はあの罠にひっかかったんじゃないのか?

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 マリー・ラクロワに奨めた新たな先物契約に、彼女のサインが必要になった。

 電話で説明して書類を送ろうとしたが――

「わからないわ。説明にいらして」

 またチェルシーの自宅まで行くことになった。

 今回は、彼女の家にトマシュとアンドレがいた。

 トマシュは上質なジャケットをジーンズの上に羽織っている。

 これからどこかのクラブに出かけるような感じだ。

 シャツの襟元から髭と同じ色の胸毛が見えた。

 アンドレもスポーツ・ジャケットとジーンズだ。

 マリーはボーダーのポロシャツにショーツ姿で、素足に膝上までの長い靴下をはいていた。

 白い腿が目を惹きつける。

 中庭のテーブルに四人で向かい合って座った。

 中年の太った家政婦が、大きなティーポットのお茶とビスケットを運んできた。

 東欧の言葉しか話さないらしく、ホークには何を言われているのかわからない。

 トマシュが「ミルクを入れるかね」と通訳した。

 彼女は化粧っ気のない朴訥な顔をして、太い指が不器用そうな感じがした。

 ポットの傾け方が乱暴だ。

 ホークのカップのソーサーに、数滴茶の滴が垂れた。

 自分の実家だったらあり得ない――遠い昔のことを思い出した。

 セブンオークスの館のベテラン家政婦は、カップをいつも温めていた。

 銀のスプーンに曇りはなく、テーブルクロスを滴で汚すところを見たことがない。

 ソーサーの汚れをどうしたものかと考えていると、

「嫌ッ!」と小さな悲鳴が聞こえた。

 見るとマリーが腿の辺りを手ではたいている。

 家政婦が、慌ててポットをテーブルの上にドシン! と置いた。

 反動で注ぎ口から茶が飛び出した。

 そこから先は東欧の言葉で言われたので、聞き取れなかった。

 トマシュが家政婦を怒鳴りつけ、家政婦が平謝りに謝っているのがわかった。

 どうやら茶の滴がマリーの腿に垂れてしまったらしい。

 激しい口調でトマシュが家政婦に命令している。

 彼女はすごすごと中庭から出て行った。

 大丈夫か、とトマシュがマリーを労わっている。

 マリーはショーツに染みでもついたのか、しきりに腿を気にしている。

「火傷なんかさせたら、ただじゃおかないぞ」

 ホークの左側に座っていたアンドレが、二人の様子を無表情に眺めている。

 トマシュがアンドレを見て何か言った。

 アンドレは立ち上がり、家政婦のあとを追うように中庭を出て行った。

「……全く、茶の入れ方も知らんとは」まだ怒りの抜けない顔つきでトマシュが言った。

「大丈夫ですか」ホークは言った。

「ああ。少し赤くなったが、大事ないだろう」

 ホークはテーブルクロスの汚れを避けるように、書類を広げて置いた。

 二人ともペンなど持っていないようなので、自分のペンを上着の内ポケットから出した。

「キャンベル君が親切に説明してくれるので、少しはわかってきたかな」トマシュがマリーの頭に手を伸ばし、髪の中に指を入れる。

 マリーは唇に笑いを浮かべ、水色の目でホークを見た。

 ビスケットの皿に白い手を伸ばす。

 一枚取った拍子に、書類の上にバター・ビスケットのかけらが飛んだ。

 今日はトマシュがいるからか、前回この家で会った時とマリーの感じが違う。

 目を合わせても誘ってこない。

「今日は蛇に噛まれないようにな」

 マリーにサインする場所を指で示しながら、ホークは苦笑した。

「御存じだったんですか」

「これと私の間に秘密はないさ」

 ホークがページをめくると、マリーが「まだ?」という目で見た。

 最後のページに金額がある。

「こちらの金額を、新たに当社の口座に送っていただく必要があります」

 トマシュがホークの手元を覗いた。

「マリー、どうする」

「送って」何のためらいもなく、十万ポンドを超える金額に対してそう言った。

「彼女は君の言いなりだな」

「いえ、そんな」ホークは感じよく微笑んだ。

 トマシュは立って居間に続くガラス戸を開け、さっき中に入ったアンドレを呼んだ。

 ロシア語らしいやりとりがあった。

 トマシュが席に戻るとアンドレがラップトップを持ってやってきた。

 二人はそのままロシア語で会話を続けた。

 マリーは用が済んだとみて、テーブルを離れていった。

 トマシュがアンドレに送金の指示をしたらしい。

 アンドレはラップトップのキーを叩いてパスワードを打ち込む。

 どこかの銀行口座に送金指示を送っている。

 アンドレがそうしている間、トマシュはホークの方を向いた。

「マリーはいい娘だろう」

 温室の方に目を向けて、マリーを見た。

 白い太腿に日差しが当たって輝いている。

 後ろ姿はウエストが引き締まり、のびやかな手脚が見事なバランスをつくっている。

 いつも大人びた化粧をしているが、彼女はまだすごく若い。

 可憐な少女のような雰囲気を残した肢体だった。

 トマシュは目を細めて彼女の後ろ姿を見ている。

「マリーを見つけた時、あれは、森の湖で白鳥を見つけた王子の心境だな」どこか遠くを見ているような目をしている。

「ひどく恥かしそうに、私の視線を避けようとするんだ。

 市場の人混みの中に隠れようとして。

 あんな美しい娘が人に観られることにまだ慣れていない。

 どうしても捕まえたくなったよ」

 日差しが降り注ぐ温室の中。

 マリーのほっそりした二の腕まで蛇が巻きついている。

 蛇をあやしながら、蘭の鉢に水をやっている。

 腕を動かす度にウエストがひねられて、しなやかな腰から目が離せない――両手で掴めそうだ。

 少し見つめすぎたかもしれない。

「蛇の扱いに慣れていますね」

「ああ、あれの父親が蛇使いでな。小さい頃からマリーは蛇に慣れているんだ」

 サーカスか何かだろうか。

「父親がなかなか強欲なのが、困りものだ。マリーを連れてくるために、金で片をつけた」

 ホークは書類をきれいに揃えて、封筒に戻した。

 ビスケットが飛んだ所に油の染みができている。

「今でもこっそり父親に金を送っているはずだ。私もそこまで監視する気はないがね」

 アンドレは、じっとラップトップの画面を見ている。

「マリーは宝石だ。それを、がさつなあの女がぞんざいに扱うのを見るのは我慢ができん。ああいう価値のない人間とは違うのだと、言ってもわからんのだ、あの女は」

 怒りの蘇ったトマシュの目は冷たかった。

 確かに手元は器用じゃなかったが、訓練をしていないからだろう。

 一流の家政婦やメイドがほしかったら、それなりの教育を受けた人物を採用すべきだ。

 あの家政婦は、どこかの国の田舎から出てきた女性に過ぎない。

 だが、そんな人物を雇った自分のミスは認めないのだろう。

 ラップトップの作業に没頭していたアンドレが「送金できました」と言った。

 ではこれで、と礼を言って帰ろうとした時、トマシュの携帯電話が鳴った。

 再びロシア語になって応えると、トマシュはアンドレに目配せする。

 二人は中庭を出て居間に入って行った。

 ホークは腕時計を見た。

 マリーは相変わらず温室の中にいる。

 中庭のテーブルに一人だけで座っているのは手持無沙汰だった。

 と言って、無断で帰るわけにもいかない。

 アンドレのラップトップが開いていた。

 パスワードをかける間もなく席を立ったので、画面が出たままだ。

 四十五度身体をずらせば画面が見える。

 それどころか、今だったら、メモリースティックがあれば、データのダウンロードも可能だ。

 一瞬、画面を見ようとしてハッとなった。

 そして慌てずゆっくりと、ポケットからブラックベリーを出し、会社のメールを確認し始めた。

 重要なデータは、簡単には手に入らない。

 もし、目の前に幸運が転がっているように見えた時、それは罠だ。

 この中庭を監視するカメラがないはずがなかった。

 トマシュ達は家の中からホークの様子を見張っているに決まっている。

 しばらく会社のメールをチェックしていると、トマシュ達が中庭に戻ってきた。

「すまない、緊急の電話だったのでね」

「いえ。僕はそろそろ失礼します。まだマーケットの最中ですので」ホークはにこやかに応えた。

 アンドレがラップトップを閉じた。

「送金は明日、当社の口座に到着するということでよろしいですか」

 ああ、とトマシュが頷いた。

「よろしく頼むよ」

 ホークは丁寧に礼を言ってトマシュと握手した。

 マリーがこっちを見ている。

 中庭を出る前に、日陰になってよく見えない顔に微笑を向けた。

 ロニー、君はあの罠にひっかかったんじゃないのか?
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