上 下
43 / 139

43 キャンベルさんて、なんか、探偵みたい

しおりを挟む
 脇を通り過ぎる女性客二人がホークをじっと見つめ、つと向かい側のハルを見てまたホークを見た。

 頬紅が濃く、シルバーのアイシャドウと黒のマスカラがハードな印象だ。

 スタッズのついた黒い革のライダージャケットをミニスカートの上に羽織っている。

 ハルは煮崩れたブロッコリーをスプーンにすくい、ふうふうと吹いて冷まそうとしていた。

「おいしい?」

 ハルの口にブロッコリーが吸いこまれた。

 まだ熱かったらしく、頷きながら顔をしかめた。

「慌てなくていいから」冷たいビールのグラスを押しやる。

 ハルは一口ビールを飲んだ。ホークのグラスは空だった。

「もう一杯飲むけど、君は?」

「まだいいです」
 
 カウンターでビールが来るのを待っていると、先ほどのライダージャケットを着た女が隣に寄って来た。

 視線を感じたのでホークは笑顔を返した。

「ねえ、おにいさん、このあとの予定は?」ダークレッドの唇が言った。

 ロンドンの下町の方のアクセントだった。

「先約済みだよ」 

 女はあからさまに振り向いてハルを見た。

「おにいさん、あの子だれ?」

「今夜の連れ」

「従妹かなにか?」

「好みなんだ」

「変った趣味ね。ねえ、奢ってくれない?」

「また今度」

 ハルはまだ煮込みと格闘していた。半分くらいなくなっている。

「一晩でいくら貰えるの?」ホークは言った。

「え?」ハルは口の周りをナプキンで拭った。

「バイト料だよ」

「……確か、時給は十ポンドくらい。でも、チップが」

「どのくらい?」

「今日はわからないけど、前回は」指で数えている、

「五百ポンドくらいだったみたい」

 ……売春の相場より高いじゃないか。

「友達に、もう止めるように言った方がいい」

 ハルがホークを見た。

「仕事が見つからないんです」

「もともとは何をやっていたの」

「ベッカは経理関係です」

「どこかにあるだろう、経理の仕事なら」

 ハルは首を振った。

「経費精算なんて、どんどんシステム化しているし、アウトソースされるから、なくなっちゃうんです」

「だったら、アウトソース先に就職したら?」

「ブダペストとか、クラクフだったり、近くてもグラスゴーだったりですよ」

「ロンドンにいなきゃいけないのか」

「キャンベルさんみたいに、ニューヨークに飛んだりシティに戻ってきたり、そんな風にはできないんです」

 不機嫌そうに煮込みの残りをつっ突いている。

 偽装の人生がうらやましがられているようで、少し居心地が悪い。

「わかったよ、もう言わない」二杯目のビールを飲み干した。

「それより訊きたいことがあるんだけど」

 ハルは煮込みにはもう飽きたようだ。

「休暇申請の変更を本人以外で出来るのは、誰だっけ?」

「その人が自分の替わりにできるように申請した人です」

「じゃ、ロニーの場合は?」

「ジェニファーさんです」

「彼女でなければ?」

「上司です。トールマンさん」

 ジェイミー・トールマン株式営業本部長。……あり得ない。

 彼が休暇申請システムにログインしているところなど想像できない。

 ましてやロニーが死んだあと、過去の有給休暇の申請に修正を入れるなんて。

「辞めた社員の休暇申請の記録をあとから修正することがあるとしたら、なんでだろう?」

 ハルのフォークが止まった。

「誰のことですか?」

「ロニーのだけど」

「フィッシャーさんの……?」ハルの視線が、煮込みの皿の上をさまよった。

「そんなことが、あったんですか?」

 ハルがホークを見た。

「いや、知らない。例えばどういう時か訊きたいだけ」

 ハルは首をかしげて考えた。

「当局の検査とかで、その日出勤していたか、していなかったかが問題になる場合とか……。

 一度申請して変更したのを忘れていると、あとで辻褄が合わなくなったりしたことがあります。

 やっぱり、検査関連でしたけど」

「ふうん。ロニーがいる間にそんな検査があったのかな」

 夏の初めに発覚した金利操作の問題で、債券・金利関連の部署には今でも当局の検査が入っている。

 しかし、去年ロニーがいる頃に、何か検査があったとは聞いていない。

「さあ……」

「検査関連だとすると、誰が修正したのかな」

 ハルがわずかに眉を顰めた。

「わかりません」

「もうお腹いっぱいなら、行こうか」ホークは立ち上がろうとした。

「どこへ?」

「出よう」ハルの腕を取って立たせる。

 混みあった店内を人をかき分けながら出口に向かう。

 先ほどのライダー・ジャケットの女が「もう帰るの?」と声をかけてきた。

「知ってる人ですか?」肩口からハルの声がした。

「知らないよ」

「でも、こっち見てますよ」

「いいから」

 ようやく外に出て車に乗り込んだ。

 冷えた外気のせいでフロントグラスが曇っていた。ステアリングが冷たい。

 人通りは少なく、周囲の店が閉店時間を過ぎているせいか、通りは暗かった。

 明るいのはパブの辺りだけだ。
 
「どこに行くんですか?」

 シートベルトを引く手が止まった。ホークのフラットはすぐそこだった。

「君次第」

 ハルは長すぎるコートの袖をまくって、細い腕に巻きつけた小さな時計を懸命に見ている。

 暗くてよく見えないのだ。

「時間なら、十時十五分前だよ」

「……ベッカがそろそろ帰ってくるかも……」

 ホークは素早くシートベルトを締めた。

「送るよ」

 ハマースミスに向かって車を走らせた。

 ハルが両腕を抱え込むようにしている。

「寒いの?」

「ちょっと……」

 信号で止まった時、暖房のスイッチを入れた。

 使ったことがなかったせいか、出てくる空気が機械油臭かった。

 幹線道路でスピードが上がると温かくなってきた。

「わからないな……」ホークは考えていることをそのまましゃべった。

「なんでロニーの休暇申請が変更されたんだ? 誰がロニーの生命保険の受け取り人を変えたんだ?」

 オレンジ色がかった街灯の光に、街路樹の枝が寂しげな影をつくっている。

『貸家』という表示のテラスハウスが続いているが、歩道を歩く人影は殆どない。

 窓の明かりがまばらなところを見ると空き家が多いようだ。

「その二人は同じ人物のような気がする」ハルは前を見たまま黙っている。

「そう思わないか?」

「……わかりません。どうしてそんなことが気になるんですか?」

「……細かいことが気になる性質たちなんだ」

 ハルがこっちを向いた。口元が笑っているようだった。

「何、おかしい?」

「……なんかちょっと、見た目と違うというか」笑っている。

 ハルが住んでいる古いアパートが立ち並ぶホーリー・クレッセント地区に入った。

「キャンベルさんて、よく道を覚えているんですね」

 もともと方向感覚はいい方だ。

 捜査官になってから、目的があれば、道は一度で覚えるようになった。

「わかりやすいよ」

「でも、タクシーで説明するの、いつもけっこう大変なのに」

 そうかもしれない。内心しまったと思った。

 団地になっているので、各棟には「テニスン」とか「シェイクスピア」とか名前がつけられている。

 しかしどの建物も似ているので、どれがハルの住む「ワーズワース棟」か、見分けるのは難しい。

 侘しげな明かりの街灯の近くに車を停めた。

 植え込みの向こうにすぐワーズワース棟の玄関がある。

 エレベーターがないので五階まで階段で上がるのだ。

「キャンベルさんて、なんか、探偵みたい」

 ドアを開けようとしたホークの手が止まった。

「なんで?」

「なんとなく、です」ハルは自分で助手席のドアを開けた。

 シートベルトをはずしたときコートの裾が一瞬巻き上がった。

 ジーンズの上に素肌がちらっと見えた。

「もしかして、その下、何も着てないんじゃないのか?」ホークの声にハルが振り向いた。

「……汚れちゃったので、服を洗ったんです」

 ホークは車の外に出た。

「ハル」振り向いた彼女にすぐ追いついて、肩を掴んだ。

「もうアルバイトの付き合いは止めてくれ」

 白っぽい街灯の光にハルの顔が浮かび上がった。

「そんなこと言ったって……。みんながキャンベルさんと同じ基準で生活できるわけじゃないんです」

「君が付き合うことはないだろう。ちゃんと仕事があるんだから」

「大丈夫ですよ。キャンベルさんが想像しているようなことはないです」

 肩に置かれたホークの手にハルの手が重なった。ひんやりと冷たい。

「御馳走様でした。送ってくれてありがとうございました」

 それだけ言うと、夜目にも汚れたすりガラスのドアを開けて、アパートの中に入って行った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

最近、夫の様子がちょっとおかしい

野地マルテ
ミステリー
シーラは、探偵事務所でパートタイマーとして働くごくごく普通の兼業主婦。一人息子が寄宿学校に入り、時間に余裕ができたシーラは夫と二人きりの生活を楽しもうと考えていたが、最近夫の様子がおかしいのだ。話しかけても上の空。休みの日は「チェスをしに行く」と言い、いそいそと出かけていく。 シーラは夫が浮気をしているのではないかと疑いはじめる。

私が愛しているのは、誰でしょう?

ぬこまる
ミステリー
考古学者の父が決めた婚約者に会うため、離島ハーランドにあるヴガッティ城へと招待された私──マイラは、私立探偵をしているお嬢様。そしてヴガッティ城にたどり着いたら、なんと婚約者が殺されました! 「私は犯人ではありません!」 すぐに否定しますが、問答無用で容疑者にされる私。しかし絶対絶命のピンチを救ってくれたのは、執事のレオでした。   「マイラさんは、俺が守る!」 こうして私は、犯人を探すのですが、不思議なことに次々と連続殺人が起きてしまい、事件はヴガッティ家への“復讐”に発展していくのでした……。この物語は、近代ヨーロッパを舞台にした恋愛ミステリー小説です。よろしかったらご覧くださいませ。  登場人物紹介    マイラ  私立探偵のお嬢様。恋する乙女。    レオ  ヴガッティ家の執事。無自覚なイケメン。    ロベルト  ヴガッティ家の長男。夢は世界征服。    ケビン  ヴガッティ家の次男。女と金が大好き。    レベッカ  総督の妻。美術品の収集家。  ヴガッティ  ハーランド島の総督。冷酷な暴君。  クロエ  メイド長、レオの母。人形のように無表情。    リリー  メイド。明るくて元気。  エヴァ  メイド。コミュ障。  ハリー  近衛兵隊長。まじめでお人好し。  ポール  近衛兵。わりと常識人。  ヴィル  近衛兵。筋肉バカ。    クライフ  王立弁護士。髭と帽子のジェントルマン。    ムバッペ  離島の警察官。童顔で子どもっぽい。    ジョゼ・グラディオラ  考古学者、マイラの父。宝探しのロマンチスト。    マキシマス  有名な建築家。ワイルドで優しい  ハーランド族  離島の先住民。恐ろしい戦闘力がある。

王女の中身は元自衛官だったので、継母に追放されたけど思い通りになりません

きぬがやあきら
恋愛
「妻はお妃様一人とお約束されたそうですが、今でもまだ同じことが言えますか?」 「正直なところ、不安を感じている」 久方ぶりに招かれた故郷、セレンティア城の月光満ちる庭園で、アシュレイは信じ難い光景を目撃するーー 激闘の末、王座に就いたアルダシールと結ばれた、元セレンティア王国の王女アシュレイ。 アラウァリア国では、新政権を勝ち取ったアシュレイを国母と崇めてくれる国民も多い。だが、結婚から2年、未だ後継ぎに恵まれないアルダシールに側室を推す声も上がり始める。そんな頃、弟シュナイゼルから結婚式の招待が舞い込んだ。 第2幕、連載開始しました! お気に入り登録してくださった皆様、ありがとうございます! 心より御礼申し上げます。 以下、1章のあらすじです。 アシュレイは前世の記憶を持つ、セレンティア王国の皇女だった。後ろ盾もなく、継母である王妃に体よく追い出されてしまう。 表向きは外交の駒として、アラウァリア王国へ嫁ぐ形だが、国王は御年50歳で既に18人もの妃を持っている。 常に不遇の扱いを受けて、我慢の限界だったアシュレイは、大胆な計画を企てた。 それは輿入れの道中を、自ら雇った盗賊に襲撃させるもの。 サバイバルの知識もあるし、宝飾品を処分して生き抜けば、残りの人生を自由に謳歌できると踏んでいた。 しかし、輿入れ当日アシュレイを攫い出したのは、アラウァリアの第一王子・アルダシール。 盗賊団と共謀し、晴れて自由の身を望んでいたのに、アルダシールはアシュレイを手放してはくれず……。 アシュレイは自由と幸福を手に入れられるのか?

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

【完】あの、……どなたでしょうか?

桐生桜月姫
恋愛
「キャサリン・ルーラー  爵位を傘に取る卑しい女め、今この時を以て貴様との婚約を破棄する。」 見た目だけは、麗しの王太子殿下から出た言葉に、婚約破棄を突きつけられた美しい女性は……… 「あの、……どなたのことでしょうか?」 まさかの意味不明発言!! 今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!! 結末やいかに!! ******************* 執筆終了済みです。

ボクが追放されたら飢餓に陥るけど良いですか?

音爽(ネソウ)
ファンタジー
美味しい果実より食えない石ころが欲しいなんて、人間て変わってますね。 役に立たないから出ていけ? わかりました、緑の加護はゴッソリ持っていきます! さようなら! 5月4日、ファンタジー1位!HOTランキング1位獲得!!ありがとうございました!

処理中です...