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40 身の危険を感じていたのに、なぜサンクトペテルブルクへ行ったのだ

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 空は曇っていて、今にも雨が降りそうな肌寒い日だった。

 半袖のTシャツの上にフード付きのパーカーを着た。

 ジーンズと、素足にスエードのモカシンを履き、濃いサングラスをかける。

 宮殿の正面の噴水近くのベンチが空いていた。

 熱いラージサイズのコーヒーを傍らに、ブリオッシュBLTサンドを食べながら彼女を待った。

 昼過ぎの公園は人が多かった。

 ローラーブレードの一団が通り過ぎたあとを、ミニサイクルの子供たちが走り、ベビーカーを押す人やジョギングの人々が行き交っていた。

 目の前の池は灰色の空を映して寒々と漣を立てている。

 夏場は子供たちが親の制止も聞かずに水際まで駆け寄って行くが、今は水鳥が寒そうに二、三羽はばたいているだけだ。

 ゆうべ業績評価の360度フィードバックをやりすぎて、眠くてたまらない。

 最初のうち真面目に質問文を読み、考えた。

「あなたはこの人が、周囲の士気が上がるような貢献をしていると思いますか?」とか、

「この人は、当社のミッションを遂行していると思いますか?」などと訊かれ、

 五段階の評価を選び、一々具体例を挙げられれば挙げろ、とある。

 エスカレーション、つまり、何かまずくなりそうな状況になった時に、

 隠さず即座に上司や然るべき上席者に報告に行くかどうか――なんて訊かれたって、

 四六時中そいつのことを見ているわけじゃないから、知るわけがない。

 そして最後に「あなたはこの人と働きたいと思いますか?」という質問が来る。

 随分辛辣な事を訊くものだ。ワシントンでこれをやったら、微妙だな。

 丁寧にやりすぎたせいで、これまでに頼まれた三十五人分は当分終わりそうにない。

 上級職員からの依頼だと質問項目が多くて、真面目に全部読んでいると一人分で二十分近くかかってしまうのだ。

 だいたいが、一度何かで電話で話したとかミーティングで一緒になったくらいの接点しかないのに、送られてきている。

 よく知らないから悪くつけることもないと思われているらしい。

 アダムに言わせれば「人気者だから」ということになる。

 捜査官であることを忘れるような毎日だ。

 いや、思い出す暇がない。

 ランカスター・ゲートの方向から、ジェニファーが歩いてくるのが見えた。

 きょろきょろと周りを探している。

 ホークはサングラスを頭の上に押し上げ、立って手を振った。

 ジェニファーは、先日会った時よりも少し元気そうに見えた。

 デザイナーズ・ブランドらしい、深いグリーンのドレスを着ているからかもしれない。

 その上にベージュのコートをはおり、レースアップのショートブーツを履いている。

 バッグもそれなりに値段のする、ブランド物のトートバッグだった。

「わざわざ来てくれて、ありがとう」ジェニファーが座るのを待ってベンチに腰かけた。

「何か食べます?」ホークはまだサンドイッチを食べ終わっていなかった。

「いえ、友達とお茶するからいいんです」

「ロニーとは、よくどこに出かけたんですか」

「……バービカンの方とか」

「そっちの方がよかったですか?」

 ジェニファーは、いいえと首を振った。

「彼のことを思い出す場所は、辛いんです」

 ホークは頷いた。ジェニファーの左手にはロニーのダイヤの指輪が光っている。

「よく、電話してくれましたね」

 ジェニファーは右の手を左の手にかぶせ、ダイヤの指輪をそっと包むようにした。

「キャンベルさんがロニーの後任なんだし、あなたに渡すのが正しいと思ったの」

 ホークは微笑んだ。

「僕の方で処理します」

 ジェニファーはじっとホークの目を見ていたが、やがてバッグの中を手で探り、小さなポーチを取り出した。

 絞っていたリボンをほどくと、中からメモリースティックが顔を出した。

「営業の記録が入っているんですか」

「御自分で見て下さい。例のパスワードです」

 彼女がパスワードを試したことを、告白したも同然だった。

 ジェニファーの目を見ると、彼女が視線を逸らした。

「例えばこの中に、何か不正の記録が入っていたとしたら、直ちに上司に報告する義務があるんじゃないですか?」

「あたしはもう、社員じゃないですから」

「ロニーはどうだったんですか」

「……知らないわ」

「あなたが知らないはずがない」

 ホークの声は穏やかだったが、ジェニファーの顔は緊張した。

「彼は何と言って、あなたにこれを預けたんですか」

「出張から帰るまで預かっていてほしい。もし自分に何かあったら――」ジェニファーは手で口を覆った。

 ホークはジェニファーの肩を抱いて、耳を近づけた。

「それをどうしろと言ったんですか?」

 ジェニファーの肩がホークの胸に寄りかかった。

 傍目には、恋人同士が寄り添っているように見えただろう。

「何かあるなんて、なぜそんなことを言うの? と訊いたの」囁くような声だった。

「そしたら彼、笑って『そうだよな。いや、いいんだ。持っていてくれれば』って……」

 そして、彼の言った通りのことになった。

 身の危険を感じていたのに、なぜサンクトペテルブルクへ行ったのだ。

 迷っていたのかもしれない。

 だからジェニファーに――。

 ジェニファーが、口に手をやったまま俯いている。

「あなたはこれを、どこに持っていたんですか?」

「大事なものだったから、いつもバッグに入れていたんです」

「大事なものだと言われたんですね」

 ジェニファーは少し考えた。思い出そうとしているようだった。

「彼は『ジェン、これ、けっこうやばいものなんだ。誰にも知られないようにしてくれ』って……」

 なるほど、君は約束を果たしたんだ。

 連中が君の部屋を家探ししてまで捜していた情報。

 実は、いつも君が持っていたとは。

「ジェニファー」

 ホークは彼女が自分を見るのを待った。

 ようやく顔をこっちに向けた。

「これをどこかにコピーしたりしましたか?」

「そんなこと、しません!」

「ロニーのパスワードを、誰かに教えたことは?」

 ブルー・グレーの目がじっとホークを見た。

「ないわ」

「誰かから、訊かれたことは?」

「……」

 ジェニファーの膝からバッグが滑り落ちた。

 ホークは手を伸ばして拾ってやった。

「何を怖がっているんですか」

 ホークの手が、ジェニファーの固く握りしめた拳に触れた。

「……誰にもおしえていないわ。でも……」ジェニファーの視線が揺れた。

「でも、私以外にも知っている人がいたような気がしたの」

「それは、なぜですか?」

「私が変えていないのに……ロニーの休暇の申請が変わっていたり」

「ロニーが自分でやったのでは?」

 ううん、とジェニファーは首を振った。

「彼が亡くなってからよ。なんで休暇の記録を変更する必要があるの? それも去年の分だったわ」

 だいたい休暇の申請など、まじめにやっている方が少ない。

 二十階の連中は、そういうことはいい加減だ。

「そんなことをきっちりやるのは、人事部かな」

「人事部?」ジェニファーが顔を上げた。

「ほら、彼らはマスターユーザーだから」

「でも人事部が変更したら、本人宛に通知のメールが来るわ」

 それは知らなかった。

「そうなんだ」

「そんな通知は来なかったから、誰かがロニーの名前でログインして、彼のパスワードで彼の記録を変更したんじゃないかと……」

「誰が、何のために?」

 ジェニファーは口を噤んだ。

 ホークはジェニファーの拳を自分の手で包んだ。

「心配しないでください。もう何も訊きませんから」

 ジェニファーが、ポートベローの近くで友達と待ち合わせているというので、ホークは公園の出口まで彼女を送って行った。

 曇り空の合間から、少し薄日が差してきた。

 週末の人出が本格的に増えてきた。

「何か不安な事があったら、いつでも電話して下さい」

 ジェニファーは行きかけて、ふと振り向いた。

「キャンベルさん、あなたは――」

 薄いブルー・グレーの瞳が、言葉にならない問いをかけているようだ。

「なんですか?」

「……いいえ。さよなら」

 すぐに雑踏が彼女の姿を飲み込んだ。
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