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37 死んだ兄もこんな風にステージに立っていたかもしれない

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 濃い香水の香りが漂い、肘をつつかれて、マリーが自分を見上げているのに気がついた。

「……女に興味ないんじゃなかったの?」

 母を見ていたことに気づかれた。

「すみません」

 トマシュ達がどこにいるのかわからなかったので、マリーを座席に案内した。

「ねえ、トマシュを口説いたりしないでよ」

 ホークはマリーの顔を見た。

「してませんよ」

「嘘。最近あの人、あなたの話ばっかり」

「あれ、もしかして信じたんですか?」

「なによ、違うの?」

「嘘です、すみません」

 マリーが口を開けて、非難の目を向けた。

 遅れて来る招待客が何組かいたので、一曲目が始まっても会場の中に入らずにホールで立っていた。

 ようやく担当客を全員席に案内して、一番後ろの席に座った。

 既に二楽章に入っていた。

 招待客は皆一階の特等席に座っている。

 真ん中の列に叔父と母の後ろ姿を見つけた。

 ホークの隣でアダムが眠り出した。

 肩に寄りかかられたので、揺すって起こした。しかしすぐまた眠り出す。

 一曲目と二曲目の間の休憩時間中、招待客達はまたホールに集まった。

 ロマネスクの三人は、ホールの壁際のバーカウンターに並んでいる。

 母が歩いて来るのを目で追った。

 会場の外に出てホールの端まで行き、銀色のクラッチバッグから携帯を出して誰かにかけた。

 頷きながら話している。

 息子のグレンかもしれない。

 この間、マークと一緒にランチに来ていた少年が彼だろうか。

 誰かを探している振りをして、人混みをかき分け母のそばに近づこうとした時、

「キャンベルさん、もう一杯シャンパンをいただきたいわ」と高い鈴の音のような声がした。

 マリーだった。

 マリーの空のグラスを受け取り、バーカウンターに向かう。

 隣にやはり客の飲み物を取りに来たジョルジオがいた。

「世話が焼けるだろう」耳元で囁かれた。ホークは微笑んだ。

「そっちは?」

 ジョルジオはほんの少しだけ肩をそびやかした。

「御大が来ているんで、粗相をしないようにな」

 御大とは、セブンオークスの社長マーク・スチュアートのことらしかった。

 彼のチームがマークを取り囲んで談笑している。母の姿はない。

 マリーにシャンパンのグラスを渡した。

「キャンベルさんは飲まないの?」

「仕事中ですから」

「つまらないわ。お仕事でしか、お話ししてくれないの?」

 マリーの赤いホルターネックのドレスは大胆に背中が開いたデザインだ。

 白い肩はむき出しで、胸のふくらみが絹のジョーゼットを押し上げている。

 男の客の視線を集めていることを、十分意識しているらしい。

「素敵ですよ、とっても」マリーが笑った。

「今のもお仕事?」

「いいえ。本心です」

 開演のブザーが鳴った。人々が動き出す。

 席に戻ると二曲目が始まるところだった。

 バイオリン独奏者のジェレミー・マーコウィッツが、指揮者と一緒に舞台に出てきた。

 黒髪で背が高く、堂々とした足取りだった。

 少し身体に肉がついたかもしれない。

 コンサートも随分場数を踏んで、自信たっぷりな感じだ。

 前奏の部分を待っている時、弓を持つ手を下げた姿が優雅だ。

 時々指揮の方を見たり、客席の方を向いたりするだけで、聴衆の目を惹きつける。

 独奏が始まる寸前に、指揮を見てさっと弓を構えた。

 あとは旋律に身を任せるように身体を動かした。

 前の方の席の母の後ろ姿を見る。

 死んだアンドリューも、こんな風にステージに立っていたかもしれない。

 あるいはひょっとしたら、次男の僕がピアノを演奏して……。

 左隣のアダムはまた居眠りを始めた。

 右隣のルパートは、膝の上でブラックベリーを見ている。

 寄りかかって来たアダムを肘でつつき、苦笑いした。

 ……今更どうしようもない。

 カデンツァが始まった。母の頭が俯いた。

 手が動いている。ハンカチ?……もしかして、泣いているのか。

 マークが気を使って声をかけている。

 第二楽章の独奏。

 ホークは隣のルパートに「ごめん」と言って、背をかがめて席を立った。

 第一主題が再度弾かれる前に外へ出た。

 化粧室に入り、洗面台で顔を洗った。

 黒い服にかかった水滴を丁寧にペーパータオルで拭き、鏡に映る自分を点検する。

 髪を手櫛で直し、唇を舌で湿らせ、目が赤くないことを確認した。

「アラン」

 振り向くと、隅の方から、ライアン・コートニーがこっちを見ていた。

 なんとなくディナー・ジャケットの腹の辺りが窮屈そうだ。

「気分悪いのか」

「いや、なんでもない」ホークは笑った。

 ライアンは携帯のメールを見ていた。

 彼の顔の方こそ、何か心配事があるように沈んでいる。

「どうかしたのか」

 携帯を切って、伏せていた目を上げた。

「娘がまた緊急入院して……」

「具合が悪いのか?」

「生まれつき心臓が弱いんだ」

 ライアンはヨハネスブルク出身の白人だ。

 娘の持病のために、いい病院を探してイングランドに引っ越し、こちらで職を得たと言う。

 娘はまだ七歳だ。

「行ったら? 上司に言っておいてやるよ」

 二人が化粧室を出た時、ちょうど拍手の音が聞こえてきた。

 曲が終わったのだ。

「もう皆出てくるから、自分で言ってくる」

 トレーディング・フロアでいつも威勢のいいライアンの背中が、少し丸まって見えた。
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