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36 しばらく母の姿を人の陰から盗み見ていた

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 まただ。

 アンドレ・ブルラクの指値さしね注文を受け、トレーダーのライアンに伝えた。

 ドイツ工業株の一つだったが、朝一番の値で買い、日中上がることを予測して売り値を指定している。

 きょうも当たるのだろうか。

 一つ向こうの列を見ていると、ライアンが振り向きOKサインを出した。

 買えたのだ。

 あとは、売りが成立した時の連絡を待つ。

 その間に今朝はやることがあった。

 ランバートソン・ビーチャム(LB)証券会社は、会社のCSR事業の一つとして、ロンドン・フィルのスポンサーをしている。

 毎年顧客を秋のシーズンに招待するイベントがある。

 営業部は全員参加することになっていた。

 招待状はアシスタントが全部送ってくれる。

 しかし出欠確認は、営業員が担当する顧客全員に電話でする。

 このためだけに、一日中電話でしゃべり続けになりそうだった。
 
 受話器をヘッドホンに替え、パメラから貰ったコンサートの詳細を見た。


 ロンドン・フィルハーモニー・管弦楽団定期演奏会

 十月九日 午後七時開場 七時三〇分開演

 場所 ロイヤル・フェスティバル・ホール

 曲目 ベートーヴェン 交響曲第七番

    ベートーヴェン バイオリン協奏曲ニ長調作品六十一

 出演 ジェレミー・マーコウィッツ


 電話がつながって、相手が「ハロー?」と繰り返すのを聞いて、はっと我にかえった。

「……あ、すみません、LB証券のアラン・キャンベルです、おはようございます……」

 最初の客は、出席すると言った。

 電話を切ってから詳細を見つめた。

 そのバイオリン独奏者を知っていた。

 死んだ兄、アンドリューの同級生だ。

 かつて同じ寄宿学校で音楽を専攻していたので、よく知っていた。

 ロイヤル・アカデミーに進学し、コンクールで上位入賞して、在学中からコンサート活動を始めたのも知っている。

 ベルファストにいたときに、チャリティーコンサートで彼の演奏を聴いた。

 その時は、兄のことを思い出して動揺して、客席で聴いていられなくなった……懐かしい。

 ロマネスクを始め、半分ほどのクライアントが出席すると言ってきた。

 全部の招待客が決まってリストが回ってきた。

 ジョルジオの担当のリストに、叔父の会社『セブンオークス』の名前があった。
 
 胃の辺りが緊張する。

 彼のチームのアシスタントに、ついでを装って誰が来るのかそれとなく訊いてみた。

 彼女はアシスタントの中で一番勤続年数の長いベテランだった。

「いつもはファンドマネージャーと部下が来るんだけど、今年は社長夫妻が来るって。

 なんか、そのソリストと知り合いなんだって」

 母と叔父が――。

 当日急病になろうか。

 しばらく考えて思いなおした。

 十四五歳のときの自分とは、背丈も体格も随分見かけが違う。

 顔をよく見られたりしなければ、なんとかやりすごせるかもしれない。

 当日は終演後にバーでレセプションがあるので、終わるのは深夜だ。

 男は全員ディナー・ジャケットにブラック・タイ着用と、ドレスコードが回ってきた。

 午前中のうちにアンドレの指値注文の売りが成立した。

 これまで全勝無敗だ。いったいどこから情報を得ているんだろう。


「こうして見ると、うちって男ばっかりね」

 コンサート会場のホールはざわざわと騒々しく、顧客と営業員があちらこちらに輪になって集まっていた。

 応援で来ていた審査部のレイチェル・ハリーが、受付でホークの隣に立っていた。

 確かにディナー・ジャケットの男たちが林立している。

「ダイバーシティに問題があるわ」

 レイチェルの年齢は、目尻の皺からすると四十代後半だろう。

 1番ドアの受付に立っているのはホーク達、事業法人担当の男女だ。

 皆若く、二十代か三十代前半だ。

 向かい側の2番ドアにはジョルジオ達、金融法人チームが立っている。

 もっと向こうは債券営業部隊だ。

「ま、一応私も女だから、男女比に貢献してるでしょ」

 レイチェルは、トレードマークのように今日もノースリーブの黒のドレスを着ている。

 開いた胸元に大きめのダイヤのペンダントが下がり、ピアスもダイヤ、薬指にもダイヤの指輪をしている。

 肌がよく日に焼けているのは、毎年休暇に豪華なクルーズに出かけるからだと聞いた。

「そう言えばあなた、この間ロマネスクの件、あとで大丈夫だった?」

 ホークの肩の辺りから、小柄なレイチェルが黒目がちな目で見上げていた。

「呼び出されて拷問された」

「あらら。よく無事に戻ってこれたわね」

 社長のケツでも舐めたの? と小声で耳元に囁く。

「レイチェル……」ホークは首を横に振りながら苦笑した。

 その汚い言葉を女性が使うのを聞くのは慣れていない。

「ロニーがよく言ってた。また社長のケツ舐めてくる、とか言って。最後の時もね……」声のトーンが変わった。

 見ると、目が真剣だ。

「私、最後に出張に向かう彼を、たまたまオフィスで見送ったのよ。

 次の週のミーティングの話をして。……ショックだったわ。

 アメリカから親戚が遺体を引き取りに来たらしいけど、

 なんか、あっさり連れていかれて、それっきりで。悲しかったわよ。

 一緒に働いていた仲間だったのに、お別れを言う暇もなかった」

 ここで今泣き出すのかと思うほど、悲しそうに眉を顰めた。

「いい奴だったんだな」

 うん、と頷く。

 ロマネスクの三人が入ってくるのが見えた。

 ホークは足早に進んで、今晩はと挨拶した。

「やあ。クロークはどこかな」トマシュがマリーの毛皮のコートを脱がせた。

「お預かりします」

 今日はマリーがホークを見ようとしない。

 三人のコートをクロークに預けて戻った。

「席に御案内します」

「あたし、化粧室に行きたいわ」

 トマシュがホークの背に手をやった。

「席はわかるから、彼女を案内してくれ」

 化粧室にマリーを案内し、出てきたらすぐわかる所に立って待った。

 アダムが女性客二人と談笑している。

 客の女性の方がアダムより背が高い。

 ホークを見つけて、ちょっと、と呼んだ。

「ほら、こいつが新入り。ハンサムだろ」

 あらー、と二人の女性が微笑んだ。三十代に見える。

 ビジネス・ウーマンのオフィス兼用のドレスらしく、色もグレーと黒だ。

 二人と握手した。

「こいつには気をつけないと、とにかく女ったらしだから」アダムが言った。

「何しろニューヨークの女達から、逃げて来たんだから」

「誰の事だよ」アダムの背中をバン、と強めに叩いた。

 女の客の家まで追証おいしょう取りに行って、蛇に噛まれたんだぜ……。

 ――この野郎。

 背後でパメラとシャロンが話す声が聞こえた。

「きれいな奥様ね」

「初めてお会いしたわ」

 二人はクロークの近くに立つ一団を見ている。

 ジョルジオと彼のチームだ。

 各社のファンド・マネージャーと、何人かの招待客が一緒に談笑している。

 パメラたちが注目している後ろ姿の男女を見た。

 背の高いタキシードの年配の男の隣に、ロイヤル・ブルーのロングドレスを着た女性が立っている。

 若くはないが、肩までの金髪をきれいにカールし、肩に柔らかそうなショールを掛け、ノースリーブの腕を覆っている。

 ほっそりしたシルエットのその女性は、母――キャサリン・スチュアート――だった。

 昔と変わらない。少し痩せたかもしれない。

 ジョルジオが、叔父のマークにぴったりついている。

 母は叔父の隣に立ち、笑みを浮かべてジョルジオの方を見ている。

 その横顔に惹きつけられた。

 すっとのびた鼻の腺、とがった顎とこけた頬。

 唇は少し厚めで口も大きめ、微笑んでいるので口角に笑窪が出ている。

 全て自分が受け継いでいる、そのものだ。

 しばらく母の姿を人の陰から盗み見ていた。
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