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35 どうしてあんなに怯えていたんでしょうか

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  帰りは小雨が降って来たので、ルーフトップを閉めて走った。

「君が来てくれてよかったよ。僕一人じゃジェニファーに会えなかったかもしれない」

「そんなことないですよ。口が上手だから」

 口調に棘を感じて、ちらっとハルを見た。憮然としている。

「何か気に障った?」

「さっきの、警察の取り調べみたいで、可哀そうでした」

  ロンドン方面に向かう車が多いせいで、行きより車線が混んでいる。

  車線変更せず、前の車に続いて行くことにした。

「じゃあ、ロニーのセックスはどうだったですか、とか訊いた方がよかった?」

 振り向いたハルは「信じられない!」と言いたげだった。

「ああ今のハラスメント発言だ。ごめん」

 謝ってもハルの憮然とした顔は変わらない。

「どうしたの、ハル。よほど僕が嫌いになったんだな」

「ジェニファーのこと、告発するんですか」

「なんで?」

「だって、フィッシャーさんのパスワードを使って生命保険を……」

「まさか。違うよ。

 ロニーのパスワードを知っていたけど、彼の生命保険をせしめたのはジェニファーじゃない。

 彼女がそうしたかったら、受取人を自分にすればよかっただけだ」

 あ……と言ってハルはこっちを見た。

「じゃあ、どうしてあんなに怯えていたんでしょうか」

 前方の車の赤いテールランプがまたたくのを見て、スピードを落とした。
 
 ジェニファー、ひょっとして君は、見てしまったんじゃないのか。

 ロニーが捜査官としてカルロに送っていた報告書ファイルを。

 彼が君にも知られたくなかったことを、君は知ってしまったんじゃないのか。

 そして、そのせいでロニーが殺されたと思っている。

 事故なんかじゃなくて。

「ハル、警察の取り調べを受けたことがあるの?」

「え、ないです私は」

「でもさっき、そう言っただろう」

「あれは……友達が一度」

「友達がどうして?」ジャンクションの前で完全に渋滞になった。

 ブレーキを踏む。

「うちの近くで人が死んでいたことがあって、彼女が帰ってくる時間が、死亡推定時刻に近かったからって、刑事が来たんです」

「物騒だな。他のアパートに移った方がいいんじゃないの」

「今度ボーナスが出たらそうします」

「ちなみに僕の所は……」

「キャンベルさんの所みたいな高級物件には、私は住めません」

 ホークは笑った。

「どうして知ってるの」

「住所とか、データベースに入力したの私ですから」

 ようやく渋滞が解けて走り出した。

 早めに高速道路を降りることにする。

 雨が本降りになっていた。

 ハマースミスの近くまで来ていた。歩道を打ちつける雨がしぶきを上げている。

「傘持っている?」

「いえ……」

「送るよ。これからどこへ行くんだっけ?」

「でも遠いですけど」

「まさかパリとかじゃないだろう」ホークは笑った。

 午後四時を過ぎたところだった。

「ハムステッドの向こう……ゴルダーズ・グリーンの……」北ロンドンの方向だ。

 フィンチリー・ロードを北へ進んでいく。

 そう言えばカルロの自宅が確かこの辺にある。

 といっても潜入捜査官の自分が訪ねて行くことはまずない。

「友達は何しているの」

「いろいろなアルバイトです」

「定職がないんだ」

「前はあったんですけど、不景気でクビになっちゃって」

「じゃあ君がいなかったら、部屋も借りることができないわけだ」

 ハルはこっちを向いた。

「困った時はお互い様です」

 ハルの言う住所通りに行ったところは、高い塀で囲まれた豪邸の大きな門の前だった。

 門は閉まっている。

「何だい、ここ?」

 門の向こうに高級車が何台か停まっている。

 邸宅の窓は煌煌と明るく、時々動く人影が窓に映る。

 大勢の人間がいるらしい。

 ハルはシートベルトをはずした。

「どうもありがとうございました」

 ホークはまだドアロックをはずさなかった。

「ここで何があるの?」

「パーティーです。ベッカが、友達が、今日パーティーのコンパニオンのアルバイトで。私にも手伝ってと言われて」

「兼業は禁止されているだろう」LB証券のルールだ。

「違います、私は行くだけ。お金もらいません」

「ハル、何のパーティーか調べたのか」

「いろいろな業界の人たちの交流会です」

「例えば誰だ?」

「いつも違うメンバーですから……」

「いつも?」いかがわしいパーティーじゃないのか――と眉をひそめた時、

 門の方から近付いてくる人影があり、助手席側の窓を叩く音がした。

 雨に濡れて曇っているが、男の顔があった。

 また叩かれたので窓を下げた。

「どうも。ゲストの方ですか?」どこか訛りのある聞き取りにくいアクセントの男だった。

「いいえ」ホークが言ったが、ハルが「私、手伝いです」と言う。

 仕方なくホークはドアロックをはずした。

「あとで電話するよ、ハル」

 ハルは男の傘に入れられて、門の向こうに消える前にこっちを向いて手を振った。

 素朴な手編みのセーターに斜めがけバッグ。

 あれはコンパニオンの格好じゃないよな。

 自分の部屋に戻り、携帯でジェニファーの様子をカルロに報告した。

 ロニーが捜査関係の資料で使うパスワードは、“エレノア82” ではない、とカルロは言った。

「怯えていたのか」

「そう見えた」

「今でも誰かに監視されているようなのか?」

「それはないみたいだ。家族が一緒だし」

「彼女が何を見たにせよ、捜査関係の資料がリークした痕跡はない」

 何かが欠けている。

 捜査局が掴んでいない何かが。

 だから繋がらないんだ。

 ロニーの死が仕組まれたものだとしたら。

 ロニーが死んだあと、婚約者のジェニファーが監視されたとしたら。

 理由がわからない。


 夜八時頃、ハルの携帯に掛けてみた。

 大勢の人間がいるざわめきと音楽、それらの騒音をバックに彼女の声が聞こえた。

「ハル、まだ帰らないのか」

「あー、キャンベルさん、今ゲームの途中で……」相当うるさい。

「何時に終わるんだ」

「えーと」誰かに訊いている。「十時まで」

「なんでそんなに遅くまでいるんだ。早く帰れ」

「え?」聞こえにくいらしく、声を張り上げている。早く帰れともう一度言った。

「大丈夫です。帰りはタクシーですから」

「何かあったら、この携帯に電話しろよ」

 自分はいつからこんなおせっかいになったのだ。

 トマトとモッツァレラチーズのバゲットサンドを食べながら、侘しい夕食だと思った。
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