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32 これ、デートなんですか?
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「保険会社のデータを調べられないか?」
ホークがそう訊くと、カルロが言った。
「無理だ。我々には捜査権がない。ファイヴ(英国内務省管轄の国内情報機関)の管轄だ」
「MI5に知り合いは?」
「内密で捜査を頼めるような知り合いはいないな」
「じゃあ、人事部のスタッフをあたるしかないな」
「捜査範囲を守れよ」
ホークはランチタイムにハルと寿司店に入った。
ハルのチョイスだ。
歩いて五分の店に行くにもハルはフード付きのナイロンコートを着て来た。
テーブル席に座り、脱いだコートをホークが洋服掛けに掛ける。
黒いジャケットの下に着ているのはハイネックのセーターだ。
日本人のウェイターに、ハルがホークの分もオーダーをしてくれた。
「あれって係のミスなんじゃないかと思うんです」ハルが言った。
ロニーの生命保険の件だ。
「入社する人多いし、システムに入力するのは月末で、まとめて何人分も入力するから……。生命保険に加入しない人は殆どいないので、単に見落として、そのまま入力したんじゃないかと……」
「最初はそうかもしれないね」ホークが言った。
「でも受取人が改竄されている。それは誰がやったのかな」
ハルは熱い緑茶が入った焼き物の茶碗を両手で持って、ふうっと息を吹きかけた。
ウェイターが円い桶みたいな入れ物に入った寿司を持ってきた。
「サビ抜きは、どちら?」
ハルがホークを指した。
食べ始めるとハルがクスッと笑う。
「子どもみたいです」
「ワサビは苦手なんだ」
珍しくハルの食べ方が早い。殆ど一口で一個食べている。
「生命保険の受け取り人の名前、思い出さないかい」
「はっきりと思い出せなくて……。名前の横に地名があったような……。福利厚生の生命保険のファイルも見たんですけど、あの支払い通知がファイルされていなかったんです」
「まだ入れていないのかな」
「かもしれませんけど……」
人事部の中に犯人がいるとすると、横領の証拠は完全に隠滅される。
正式には何も不正がないから、注目されることもない。
LB証券側ではそんな支払いがあったかどうか、未来永劫誰も気にしない。
保険会社の審査に通った受取人は必ず実在する。
「受取人の変更がいつ保険会社に送られたのか、どうしたらわかる?」
「ITに頼んで、フィッシャーさんのログを、全部調査……」
「いや、ITには頼めない。それに、ロニーが変更するわけないじゃないか。自分は生命保険に入らない、と意思表示したんだから」
「でも、誰かがフィッシャーさんのパスワードを使ったんだから……」
「ロニーから変更依頼が来ていないのに、保険会社に変更依頼することができるのは?」
ハルは眉間に皺を寄せて考えていた。
「いないと思います。なぜなら変更依頼するアカウントから、直接保険会社のサイトに入って変更依頼を出すので」
「いるじゃないか、ハル」ハルはえっ? とこっちを見た。
「マスターユーザーだよ」
三十代後半の女性社員、太り気味のマーガレット。
ほかにも福利厚生担当はいる。人事部長にも権限はある。
ハルが心配そうに見ていた。
「どうしてそんなにフィッシャーさんの生命保険が気になるんですか?」
「犯罪は一度成功すると、もう一度やりたくなるものなんだよ」
ハルは出汁の利いたスープの椀を持つ手を止めた。
「……私がよくチェックします 」
「今後はね」ホークはスープに口をつけたが、あまり飲まなかった。
「コーヒー飲みに行こう」
寿司店を出て一番近いカフェに入る。
ハルがコーヒーは買えばいいですよ、と言いながら追い付いて来た。
「君と話がしたいんだよ」混んだ店内で立ち飲み用のテーブルの一つを確保する。
カウンターからコーヒーのカップを二つ持ってホークは戻った。
「今度の週末、空いてる?」
「えっ?」周囲の声と音楽のせいでよく聞こえないらしい。
ホークはハルの耳元に近づいた。
「ジェニファー・ハドリルに会いに行かないか?」
「どーして、ですか?」ハルの目が丸くなった。
「訊きたいことがあるんだ。僕一人じゃ会ってくれないだろう。付き合ってくれない?」
「えー、でも……」
「ダメもとでいいからさ」
「メイドンヘッドですよ。遠いです」
ロンドンから四十キロくらいのはずだ。
「東京より近いだろう」
ハルはあれこれ何か言ったが、結局承知してくれた。
というわけで、週末ハルのハマースミスのアパートの近くで待ち合わせた。
ハルはルームシェアしている友達とどこかへ出かける予定があったらしいのだが、そちらへは夕方遅れて行くことにしてもらった。
あまり舗装状態のよくない歩道に寄せて、Z4を停めた。
天気がいいのでルーフトップを開けていた。
ハルを待っていると、ラッパー風の格好をしたカリブ系の少年が二人やってきた。
車と乗っている人間の両方をねめつけて、すぐそばを通り過ぎた。
ホークは濃いサングラスをかけた目で睨み返す。
車を置いたまま離れる気がしないエリアだ。
携帯で着いたことを知らせてから、五分くらいでハルは現れた。
今日は手編み風のセーターと、かなりはき古したジーンズに、ジョギングシューズを履いている。
斜め掛けしているバッグはカジュアルな茶色い革だ。
会社で見る服装は地味だが、これはこれで彼女らしい。
車の屋根がないことに一瞬目を見張り、ハルは助手席に座った。
なんとなく落ち着かない感じで、すぐにシートベルトを締めようとしない。
「どうかした?」
「屋根……開けとくんですか」
ホークは手を伸ばして、ハルが首に巻いていたスカーフを取った。
え? とこっちを見ている間に、三角に折ったスカーフでハルの頭を覆い、きっちりと耳の横で留めた。
「これで大丈夫」
あ……と頭に手をやっている彼女に「ベルトして」と言い、車を出した。
まもなく高速M4号線に乗り、西へ向かった。
土曜日の午前中、道はすいている。
風をいっぱいに受けながら車線を次々変えて、周りの車をどんどん追い抜いて行くのは快適だった。
大きなジャンクションの前で、少し渋滞するのでスピードを落とす。
ハルを見ると、目を見開いて前を見つめている。
「この車の助手席に乗ったの、今のところ君だけだよ」
よく聞こえなかったのか、ハルが「え?」と口を開けてこっちを向いた。
前の車が動き出したのでアクセルを踏む。
時々あるスピードカメラには気をつけた。
三十分ほど突っ走りM4号線を降りた。
ラウンドアバウトで町の中心へ向かう。
ほどなくメイドンヘッドのハイ・ストリートに着いた。
「一休みしよう」ショッピングモールの駐車場に車を停めた。
ハルが黙っている。車が停まっているのにシートベルトをはずそうとしない。
「どうしたの?」
「ジェニファーに……会うんですか?」
ホークは笑みを浮かべた。
「会えればね」
「会って、何を訊くんですか」
「ロニーのことだよ」ルーフトップを戻すスイッチを押した。
屋根ができると突如ハルの顔が陰になった。
「私は……」ホークは手を伸ばしてハルのシートベルトをはずした。
「行かないなんて、言わないでくれ」
車を降りて助手席のドアを開け、ハルの腕を軽く取った。
「ハル」不安そうな目が見上げている。
「朝ごはん食べよう」
天気がいいのでカフェのテラス席が混みあっている。
青いパラソルのテラス席が一つ空いているのを見つけて、そのカフェに入った。
まだ朝食メニューの時間内だったので、卵・ベーコン・ソーセージ・マッシュルームのフルオーダーとトースト、コーヒー、フルーツジュースを頼んだ。
「そんなんじゃ、痩せちゃうよ」
ハルが頼んだのは、フルーツのプレートとヨーグルトとカフェラテだけだ。
ホークはトーストにジャムを塗ってハルの皿に置いた。ハルは考え込んでいるように黙りこくっている。
「あのさ、僕デートした女の子に、そんなつまらなそうな顔されたの初めてなんだけど」
ハルが顔を上げた。
「これ、デートなんですか?」
「ひょっとして、仕事だと思ってる?」
「だって、社内のクライアントの方ですし……」
人事部などのインフラの部署にとっては、社員がクライアントなのだ。
「なーんだ。仕事だから、仕方なく来たんだ」
ホークはベーコンの最後の一切れを食べ終わった。
ハルのフルーツプレートの、葡萄の実を一つ取って、口に入れる。
「じゃ、休日出勤手当を払わないとな」
「そんな」ハルの眉毛がゆがんだ。
「いいです、そんな」
ホークはフッと噴き出した。
「来たくない時は、そう言ってくれよ」
「違うんです。だって、キャンベルさんは、婚約者もいるし……」
ホークはコーヒーを啜った。
「僕じゃなくてアダム・グリーンバーグでも、君は来たの?」
「え、わかりません……」
「まあ、いいや」ホークは下を向いて笑った。
「どこだっけ、ジェニファーの家は?」
ホークがそう訊くと、カルロが言った。
「無理だ。我々には捜査権がない。ファイヴ(英国内務省管轄の国内情報機関)の管轄だ」
「MI5に知り合いは?」
「内密で捜査を頼めるような知り合いはいないな」
「じゃあ、人事部のスタッフをあたるしかないな」
「捜査範囲を守れよ」
ホークはランチタイムにハルと寿司店に入った。
ハルのチョイスだ。
歩いて五分の店に行くにもハルはフード付きのナイロンコートを着て来た。
テーブル席に座り、脱いだコートをホークが洋服掛けに掛ける。
黒いジャケットの下に着ているのはハイネックのセーターだ。
日本人のウェイターに、ハルがホークの分もオーダーをしてくれた。
「あれって係のミスなんじゃないかと思うんです」ハルが言った。
ロニーの生命保険の件だ。
「入社する人多いし、システムに入力するのは月末で、まとめて何人分も入力するから……。生命保険に加入しない人は殆どいないので、単に見落として、そのまま入力したんじゃないかと……」
「最初はそうかもしれないね」ホークが言った。
「でも受取人が改竄されている。それは誰がやったのかな」
ハルは熱い緑茶が入った焼き物の茶碗を両手で持って、ふうっと息を吹きかけた。
ウェイターが円い桶みたいな入れ物に入った寿司を持ってきた。
「サビ抜きは、どちら?」
ハルがホークを指した。
食べ始めるとハルがクスッと笑う。
「子どもみたいです」
「ワサビは苦手なんだ」
珍しくハルの食べ方が早い。殆ど一口で一個食べている。
「生命保険の受け取り人の名前、思い出さないかい」
「はっきりと思い出せなくて……。名前の横に地名があったような……。福利厚生の生命保険のファイルも見たんですけど、あの支払い通知がファイルされていなかったんです」
「まだ入れていないのかな」
「かもしれませんけど……」
人事部の中に犯人がいるとすると、横領の証拠は完全に隠滅される。
正式には何も不正がないから、注目されることもない。
LB証券側ではそんな支払いがあったかどうか、未来永劫誰も気にしない。
保険会社の審査に通った受取人は必ず実在する。
「受取人の変更がいつ保険会社に送られたのか、どうしたらわかる?」
「ITに頼んで、フィッシャーさんのログを、全部調査……」
「いや、ITには頼めない。それに、ロニーが変更するわけないじゃないか。自分は生命保険に入らない、と意思表示したんだから」
「でも、誰かがフィッシャーさんのパスワードを使ったんだから……」
「ロニーから変更依頼が来ていないのに、保険会社に変更依頼することができるのは?」
ハルは眉間に皺を寄せて考えていた。
「いないと思います。なぜなら変更依頼するアカウントから、直接保険会社のサイトに入って変更依頼を出すので」
「いるじゃないか、ハル」ハルはえっ? とこっちを見た。
「マスターユーザーだよ」
三十代後半の女性社員、太り気味のマーガレット。
ほかにも福利厚生担当はいる。人事部長にも権限はある。
ハルが心配そうに見ていた。
「どうしてそんなにフィッシャーさんの生命保険が気になるんですか?」
「犯罪は一度成功すると、もう一度やりたくなるものなんだよ」
ハルは出汁の利いたスープの椀を持つ手を止めた。
「……私がよくチェックします 」
「今後はね」ホークはスープに口をつけたが、あまり飲まなかった。
「コーヒー飲みに行こう」
寿司店を出て一番近いカフェに入る。
ハルがコーヒーは買えばいいですよ、と言いながら追い付いて来た。
「君と話がしたいんだよ」混んだ店内で立ち飲み用のテーブルの一つを確保する。
カウンターからコーヒーのカップを二つ持ってホークは戻った。
「今度の週末、空いてる?」
「えっ?」周囲の声と音楽のせいでよく聞こえないらしい。
ホークはハルの耳元に近づいた。
「ジェニファー・ハドリルに会いに行かないか?」
「どーして、ですか?」ハルの目が丸くなった。
「訊きたいことがあるんだ。僕一人じゃ会ってくれないだろう。付き合ってくれない?」
「えー、でも……」
「ダメもとでいいからさ」
「メイドンヘッドですよ。遠いです」
ロンドンから四十キロくらいのはずだ。
「東京より近いだろう」
ハルはあれこれ何か言ったが、結局承知してくれた。
というわけで、週末ハルのハマースミスのアパートの近くで待ち合わせた。
ハルはルームシェアしている友達とどこかへ出かける予定があったらしいのだが、そちらへは夕方遅れて行くことにしてもらった。
あまり舗装状態のよくない歩道に寄せて、Z4を停めた。
天気がいいのでルーフトップを開けていた。
ハルを待っていると、ラッパー風の格好をしたカリブ系の少年が二人やってきた。
車と乗っている人間の両方をねめつけて、すぐそばを通り過ぎた。
ホークは濃いサングラスをかけた目で睨み返す。
車を置いたまま離れる気がしないエリアだ。
携帯で着いたことを知らせてから、五分くらいでハルは現れた。
今日は手編み風のセーターと、かなりはき古したジーンズに、ジョギングシューズを履いている。
斜め掛けしているバッグはカジュアルな茶色い革だ。
会社で見る服装は地味だが、これはこれで彼女らしい。
車の屋根がないことに一瞬目を見張り、ハルは助手席に座った。
なんとなく落ち着かない感じで、すぐにシートベルトを締めようとしない。
「どうかした?」
「屋根……開けとくんですか」
ホークは手を伸ばして、ハルが首に巻いていたスカーフを取った。
え? とこっちを見ている間に、三角に折ったスカーフでハルの頭を覆い、きっちりと耳の横で留めた。
「これで大丈夫」
あ……と頭に手をやっている彼女に「ベルトして」と言い、車を出した。
まもなく高速M4号線に乗り、西へ向かった。
土曜日の午前中、道はすいている。
風をいっぱいに受けながら車線を次々変えて、周りの車をどんどん追い抜いて行くのは快適だった。
大きなジャンクションの前で、少し渋滞するのでスピードを落とす。
ハルを見ると、目を見開いて前を見つめている。
「この車の助手席に乗ったの、今のところ君だけだよ」
よく聞こえなかったのか、ハルが「え?」と口を開けてこっちを向いた。
前の車が動き出したのでアクセルを踏む。
時々あるスピードカメラには気をつけた。
三十分ほど突っ走りM4号線を降りた。
ラウンドアバウトで町の中心へ向かう。
ほどなくメイドンヘッドのハイ・ストリートに着いた。
「一休みしよう」ショッピングモールの駐車場に車を停めた。
ハルが黙っている。車が停まっているのにシートベルトをはずそうとしない。
「どうしたの?」
「ジェニファーに……会うんですか?」
ホークは笑みを浮かべた。
「会えればね」
「会って、何を訊くんですか」
「ロニーのことだよ」ルーフトップを戻すスイッチを押した。
屋根ができると突如ハルの顔が陰になった。
「私は……」ホークは手を伸ばしてハルのシートベルトをはずした。
「行かないなんて、言わないでくれ」
車を降りて助手席のドアを開け、ハルの腕を軽く取った。
「ハル」不安そうな目が見上げている。
「朝ごはん食べよう」
天気がいいのでカフェのテラス席が混みあっている。
青いパラソルのテラス席が一つ空いているのを見つけて、そのカフェに入った。
まだ朝食メニューの時間内だったので、卵・ベーコン・ソーセージ・マッシュルームのフルオーダーとトースト、コーヒー、フルーツジュースを頼んだ。
「そんなんじゃ、痩せちゃうよ」
ハルが頼んだのは、フルーツのプレートとヨーグルトとカフェラテだけだ。
ホークはトーストにジャムを塗ってハルの皿に置いた。ハルは考え込んでいるように黙りこくっている。
「あのさ、僕デートした女の子に、そんなつまらなそうな顔されたの初めてなんだけど」
ハルが顔を上げた。
「これ、デートなんですか?」
「ひょっとして、仕事だと思ってる?」
「だって、社内のクライアントの方ですし……」
人事部などのインフラの部署にとっては、社員がクライアントなのだ。
「なーんだ。仕事だから、仕方なく来たんだ」
ホークはベーコンの最後の一切れを食べ終わった。
ハルのフルーツプレートの、葡萄の実を一つ取って、口に入れる。
「じゃ、休日出勤手当を払わないとな」
「そんな」ハルの眉毛がゆがんだ。
「いいです、そんな」
ホークはフッと噴き出した。
「来たくない時は、そう言ってくれよ」
「違うんです。だって、キャンベルさんは、婚約者もいるし……」
ホークはコーヒーを啜った。
「僕じゃなくてアダム・グリーンバーグでも、君は来たの?」
「え、わかりません……」
「まあ、いいや」ホークは下を向いて笑った。
「どこだっけ、ジェニファーの家は?」
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