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29 おまえ子供の頃、悪ガキだっただろう
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――危なかった。
メイフェアからベイズウォーターの自宅まで運転しながら、ホークはトマシュとの会見を思い返していた。
何かまずいことを言ったり、ボディーサインで表したりしていなかっただろうか。
自分の部屋に戻るとカルロに報告した。
「今回はすぐに他の空売り(下げ相場で証券会社から借りた株を将来売る契約を決め、その値より安くなった現物株を買い戻し、借株返却の際差額で儲ける)で取り返したけど、それがなかったら……」
損が出たままだったら、ただじゃ済まないかもしれない。
「損失補填しろとか言われかねない」
「あからさまな損失には見えんようにやるべきだな」カルロが言った。
次の作戦を考える間に、ロニーの生命保険金の受取人の名前を確かめろ、と言われた。
活気のない午後のマーケットが終わって、営業部員たちは帰り始めている。
ホークはだらしなく背もたれに寄りかかり、両腕を上げて伸びをした。
「キャンベル」頭の上でエディの声がした。
「飲んでいく時間、あるか」
ホークは椅子の上に起き直った。
「あるよ」
まだ席にいたアダムとイーサンが、耳をそばだてている。
じゃあ五分後に下で、とエディが離れていくと、イーサンが言った。
「エディと差しかよ」
「さあ」
アダムも寄ってきた。
「そうだろ。うーむ、これはこれは……」
「なんだよ。クビか?」ホークが二人に訊いた。
「じゃなくて、逆だ」
「おまえが気にいったんだ」
エディがオフィスの鍵を閉めている。ホークは上着を持って立ち上がった。
「あとで教えろよ」と二人に見送られた。
エディは一ブロックほど歩いたところにある、古めかしい看板のパブに行った。
ここは会社の同僚はあまりいない。混んではいるが、同業他社の人間が多い。
既に外のテーブルはいっぱいで、歩道に輪になって立ち飲みしている状態だった。
薄暗い店内の隅の方に、一つだけ立ち飲み用のテーブルがあいていた。
人をかき分けながらカウンターでビールを買い、窓のそばのテーブルまで移動した。
エディが壁を背にして立ち、ホークは窓側に立った。
葡萄とバッカスの柄のステンドグラスの入った窓だった。
「うまく事態を収拾したな。たいしたもんだ」エディがすぐ本題に入った。ロマネスクの件だ。
「社長もおまえのことを気に入ったみたいだな」
「そうかな」ホークは店内の客たちの方に目をやりながら、ビールに口をつけた。
「殺されるかと思ったよ」
ふふ、とエディが笑った。
「おまえは勇敢だ、とジェイミーに言ってたそうだ」
それはほめ言葉じゃない。
エディの後ろの壁に小さなランプが灯っている。
時々顔を動かすと、少し鷲鼻気味の細い鼻梁に光が当たった。
「おまえ子供の頃、悪ガキだっただろう」いきなりエディが言った。
ホークはビールに噎せた。
「なんで」
「両親や先生を困らせた口だろう?」
隣のテーブルから紙のナプキンを取って、口を拭く。
「……両親の顔は、知らないんだ」
「そうなのか」
ホークは諳んじている偽装の身の上を、頭の中で手繰り寄せた。
「赤ん坊の時に養父母にもらわれて……その養父母が離婚して、養父が娘みたいな若い後妻をもらってさ」
「……ありがちだな」
「その通り。おれはずっと寄宿舎に入れられていた。どうしようもないワルだったよ」
「何をしたんだ」
「ありとあらゆることかな。酒、煙草、女、薬、喧嘩……」
「放校にならなかったのか」
「養父が寄付をしていたから」
「ふーん。金持ちか」
ホークは頷く。
「大学はアメリカに行った。音楽と経済のダブル・メイジャーで、インターンをやった証券会社に就職した。以上、終わり」
逆光でよく見えなかったが、エディが自分の顔をつぶさに見ているのを感じた。
ホークの顔には明かりが当たっている。
「薄幸な少年時代、そのものだな」
ふと母の顔が思い出された。伏せていた目を上げた。
「あんたは?」
「おれも寄宿舎で育った」
「あんたは優等生だろう。ヘッドボーイという感じだな」
エディの口角が上がった。
「イギリス風に言うと、そうだな」
客がさらに増えたらしく、周りの喧騒のせいで声が聞こえにくくなった。
ホークはもっとエディに近寄った。
ホークの頭は、長身のエディの眉の高さだった。
「クラスメートの中にしょっちゅう規則を破る奴がいた。
でも、みんなの人気者だった。
おれとしては、どうしたら彼に言うことをきかせることができるのか、考えていた。
何度か話をしようとしたが、埒があかない。
それであるとき思い切って、対決することにした」
「どうしたんだ?」
「喧嘩したんだ。一対一で。
そいつはすごく強くて、とてもかなわないと思った。
でも、絶対諦めなかった。
とうとう二人とも傷だらけになって、それ以上動くことができなくなった。
引き分けだな。で、二人とも保健室送りになって、ものすごく先生に怒られた。
傷が治ると懲罰が待っていた。勤労奉仕だ。
学校の近くに老人ホームがあって、そこの畑で毎日ジャガイモ掘りをやらされて、そのあと二人で全部のジャガイモの皮むきをやるんだ。
いつまでやるのか、なかなか先生がもう終わりと言ってくれないので、何週間か、来る日も来る日もそいつと二人でイモ掘りをやっていた」
エディの目が穏やかな笑みを浮かべている。
オフィスではあまり見ない表情だ。
ホークも微笑を返した。
「そうしているうちに、そいつと仲良くなって、以来ずっと一番の友達になった」
「よかったじゃないか。どこの学校だ?」
「ドイツの田舎だ」
「そのあとは、そいつはまじめになったのか」
「いや。そのあとも結局あいつは規則を破っていた。でもおれは、不思議と以前のように腹が立たなくなっていた」
「ハハハ……、あんたの方が妥協したのか」
「お前を見ていると、あいつを思い出す」
ホークは苦笑した。
「もう殴り合いは遠慮しとく」
「でも、これだけは言っておく。顧客の扱いにはそれぞれ歴史があるんだ。いきなり自分の考えを通す前に、おれやジェイミーの意見を聞け」
頷きながらエディを見た。
案外まともなことを言うんだな、こいつ。
「わかったよ、チーフ」
メイフェアからベイズウォーターの自宅まで運転しながら、ホークはトマシュとの会見を思い返していた。
何かまずいことを言ったり、ボディーサインで表したりしていなかっただろうか。
自分の部屋に戻るとカルロに報告した。
「今回はすぐに他の空売り(下げ相場で証券会社から借りた株を将来売る契約を決め、その値より安くなった現物株を買い戻し、借株返却の際差額で儲ける)で取り返したけど、それがなかったら……」
損が出たままだったら、ただじゃ済まないかもしれない。
「損失補填しろとか言われかねない」
「あからさまな損失には見えんようにやるべきだな」カルロが言った。
次の作戦を考える間に、ロニーの生命保険金の受取人の名前を確かめろ、と言われた。
活気のない午後のマーケットが終わって、営業部員たちは帰り始めている。
ホークはだらしなく背もたれに寄りかかり、両腕を上げて伸びをした。
「キャンベル」頭の上でエディの声がした。
「飲んでいく時間、あるか」
ホークは椅子の上に起き直った。
「あるよ」
まだ席にいたアダムとイーサンが、耳をそばだてている。
じゃあ五分後に下で、とエディが離れていくと、イーサンが言った。
「エディと差しかよ」
「さあ」
アダムも寄ってきた。
「そうだろ。うーむ、これはこれは……」
「なんだよ。クビか?」ホークが二人に訊いた。
「じゃなくて、逆だ」
「おまえが気にいったんだ」
エディがオフィスの鍵を閉めている。ホークは上着を持って立ち上がった。
「あとで教えろよ」と二人に見送られた。
エディは一ブロックほど歩いたところにある、古めかしい看板のパブに行った。
ここは会社の同僚はあまりいない。混んではいるが、同業他社の人間が多い。
既に外のテーブルはいっぱいで、歩道に輪になって立ち飲みしている状態だった。
薄暗い店内の隅の方に、一つだけ立ち飲み用のテーブルがあいていた。
人をかき分けながらカウンターでビールを買い、窓のそばのテーブルまで移動した。
エディが壁を背にして立ち、ホークは窓側に立った。
葡萄とバッカスの柄のステンドグラスの入った窓だった。
「うまく事態を収拾したな。たいしたもんだ」エディがすぐ本題に入った。ロマネスクの件だ。
「社長もおまえのことを気に入ったみたいだな」
「そうかな」ホークは店内の客たちの方に目をやりながら、ビールに口をつけた。
「殺されるかと思ったよ」
ふふ、とエディが笑った。
「おまえは勇敢だ、とジェイミーに言ってたそうだ」
それはほめ言葉じゃない。
エディの後ろの壁に小さなランプが灯っている。
時々顔を動かすと、少し鷲鼻気味の細い鼻梁に光が当たった。
「おまえ子供の頃、悪ガキだっただろう」いきなりエディが言った。
ホークはビールに噎せた。
「なんで」
「両親や先生を困らせた口だろう?」
隣のテーブルから紙のナプキンを取って、口を拭く。
「……両親の顔は、知らないんだ」
「そうなのか」
ホークは諳んじている偽装の身の上を、頭の中で手繰り寄せた。
「赤ん坊の時に養父母にもらわれて……その養父母が離婚して、養父が娘みたいな若い後妻をもらってさ」
「……ありがちだな」
「その通り。おれはずっと寄宿舎に入れられていた。どうしようもないワルだったよ」
「何をしたんだ」
「ありとあらゆることかな。酒、煙草、女、薬、喧嘩……」
「放校にならなかったのか」
「養父が寄付をしていたから」
「ふーん。金持ちか」
ホークは頷く。
「大学はアメリカに行った。音楽と経済のダブル・メイジャーで、インターンをやった証券会社に就職した。以上、終わり」
逆光でよく見えなかったが、エディが自分の顔をつぶさに見ているのを感じた。
ホークの顔には明かりが当たっている。
「薄幸な少年時代、そのものだな」
ふと母の顔が思い出された。伏せていた目を上げた。
「あんたは?」
「おれも寄宿舎で育った」
「あんたは優等生だろう。ヘッドボーイという感じだな」
エディの口角が上がった。
「イギリス風に言うと、そうだな」
客がさらに増えたらしく、周りの喧騒のせいで声が聞こえにくくなった。
ホークはもっとエディに近寄った。
ホークの頭は、長身のエディの眉の高さだった。
「クラスメートの中にしょっちゅう規則を破る奴がいた。
でも、みんなの人気者だった。
おれとしては、どうしたら彼に言うことをきかせることができるのか、考えていた。
何度か話をしようとしたが、埒があかない。
それであるとき思い切って、対決することにした」
「どうしたんだ?」
「喧嘩したんだ。一対一で。
そいつはすごく強くて、とてもかなわないと思った。
でも、絶対諦めなかった。
とうとう二人とも傷だらけになって、それ以上動くことができなくなった。
引き分けだな。で、二人とも保健室送りになって、ものすごく先生に怒られた。
傷が治ると懲罰が待っていた。勤労奉仕だ。
学校の近くに老人ホームがあって、そこの畑で毎日ジャガイモ掘りをやらされて、そのあと二人で全部のジャガイモの皮むきをやるんだ。
いつまでやるのか、なかなか先生がもう終わりと言ってくれないので、何週間か、来る日も来る日もそいつと二人でイモ掘りをやっていた」
エディの目が穏やかな笑みを浮かべている。
オフィスではあまり見ない表情だ。
ホークも微笑を返した。
「そうしているうちに、そいつと仲良くなって、以来ずっと一番の友達になった」
「よかったじゃないか。どこの学校だ?」
「ドイツの田舎だ」
「そのあとは、そいつはまじめになったのか」
「いや。そのあとも結局あいつは規則を破っていた。でもおれは、不思議と以前のように腹が立たなくなっていた」
「ハハハ……、あんたの方が妥協したのか」
「お前を見ていると、あいつを思い出す」
ホークは苦笑した。
「もう殴り合いは遠慮しとく」
「でも、これだけは言っておく。顧客の扱いにはそれぞれ歴史があるんだ。いきなり自分の考えを通す前に、おれやジェイミーの意見を聞け」
頷きながらエディを見た。
案外まともなことを言うんだな、こいつ。
「わかったよ、チーフ」
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