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24 ちょっとくらい誤爆しても気づかないだろう
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火曜の朝、ヒースローの駐車場にとめておいた自分の車でオフィスに直行した。
飛行機の中で髭は剃ったが、Tシャツとジーンズのままだったので、二十階にあるドレッシングルームでスーツに着替えた。
トレーディング・フロアに駆け込んだ時は、ちょうど六時半だった。
朝会のあと、マーケットが開く十五分前に、緊急会議に呼ばれた。
『流動性会議』という名目で、審査部からメールが送られてきたのだ。
呼ばれたのはホークを含む五人のみ。
それぞれ大口の顧客を担当する営業部員だった。
二十一階の審査部の会議室に入ると、それぞれは軽く挨拶をして席に座った。
審査部の次長レイチェル・ハリーが、壁のスクリーンにパワーポイントの資料を映し出していた。
「覚悟しとけよ、話が長いぜ」隣に座った上級営業員がホークに耳打ちした。
トップ・セールスマンと言われているジョルジオだ。
一見無精に見える髭面でカーリーヘア、洗いすぎて元の色がわからないくらい色褪せたポロシャツを着ている。営業員には見えない。
社内のルールで、客と会う予定がない時はドレス・ダウンしてよいことになっている。
何着も会社のロッカーに服を置いてあるので、急に客から呼ばれても、すぐ着替えて出かけられるのだ。
全員揃ったところでレイチェルが、明かりを消して壁のスクリーンを明るくした。
「早くしろ」とジョルジオが言った。
彼のチームは金融法人のファンドマネージャーが顧客だ。
何時であろうと関係なく電話が入る。
朝会中もだいたい電話を持って、大量注文のプライスをトレーダーチームとやりとりしている。
いつも秒単位の生活だ。
「急いで集まっていただいたのは、内密で、ある商品の流動性に問題が発覚したことをお知らせしたいからです。
先ほどの幹部会議で決まったことを代理でお伝えします」
幹部会議とは、本部長以上が出席する。
“先ほど”というからには、緊急に開かれたのだろう。
小柄なレイチェルは、黒のノースリーブのドレスを着ていて、ジムで鍛えているような二の腕をしている。
ショートカットの髪は黒、はっきりした目鼻立ちだ。
正面のスクリーンに波の荒い海の映像が映った。
その瞬間「なんだ、これ?」とレイチェル以外の全員が思った。
「これは、センカク・列島と呼ばれている島嶼群です。
この島々の領有権をめぐって、現在日本と中国との間の緊張感が高まっていることは、御存じかしら」
なんとなく聞いていた程度だったので、ホークは少し首を横に振った。
「御存じだ。それで?」ジョルジオが言った。
「岩にしか見えねえ」誰かが言った。
その岩の周りに国旗の種類の違う船が何隻も出ている。沿岸警備艇のようだ。
「それがどうしたんだ、早くしろレイチェル」
「そんな岩を取り合って、フォークランドみたいな戦争が始まるのか?」
レイチェルは全く動じない声で言った。
「いいえ、今のところは。どの道日本は戦争をしません」
「じゃあ、アメリカがやるのか。でもあれ、アメリカの船じゃないな」
「ちょっと待てよ、アメリカが中国相手に戦争するか?」
「レイチェル、結論は何なんだよ。おれたちに時事問題を討論させてどうするんだ」
「この岩のことはどうでもいいの。そのせいで、これから中国で起こる抗日運動が問題なのよ」
レイチェルがページを進めて、あるグラフが出てきた。
「うちの情報源によると、遅くとも今から一週間以内に、かなり激しい抗日デモが起こる」
だったらここから始めりゃいいんだよ、とジョルジオが、ホークにだけ聞こえるように囁いた。
グラフが、そうなった場合のある組成商品の時価評価額の推移を予測していた。
「御存じの通り、中国に生産・販売拠点を持っている日本企業はたくさんあるわね。
それらの拠点がデモ隊に占拠されたり、破壊されたりした場合の影響を考えたのが、このグラフ」
急激な右肩下がりだ。
「先週までは、これほどの緊張は高まっていなかったの。つまり、中国に進出している外国企業に関するリスクは、例年より緩和されていたのね」
「格付けだって投資適格になっているじゃないか」一人が言った。
「そうだったのよ。それで今日が販売初日だったんだけど、うちの調査員からの情報で、投資適格とは言えなくなったの」
「暴動ってのは、いずれ治まるんじゃないのか」
「暴動自体は治まっても、その先、生産と物流が以前と同じように回復するかどうかが未知数なの。
ひょっとすると、永久に回復しない可能性もある」
「じゃ、どうするんだ。販売中止か?」ジョルジオが言った。
レイチェルが首を振った。
「もともと中国政府の要請もあってつくった商品だったから、ナンバー・イレブン(財務省)に密かに聞いたところ、中国政府の手前、販売中止にはするな、と言われたわけ」
五人の営業員は一瞬黙った。ジョルジオが言った。
「つまり、一週間後に暴落するとわかっていて、売れと言うんだな」
部屋にいた全員が互いの顔を見回した。最後にレイチェルに目を戻すと、
「そういうこと」と頷いた。
「そいつはやべえ」全員、ジョルジオと同じことを思った。
「だからあなた方を呼んだのよ」
「よしてくれ、おれは抜ける」ホークと同じ階級の営業員が立ちあがった。
「最後まで聞いて」レイチェルが声を上げた。
立ち上がった男は一応立ち止まった。
レイチェルは、プリントアウトした紙をそれぞれの前に一枚ずつ置いて行った。
「あなた方が担当する大口顧客の取引口座残高の予測をしてみたの。
シミュレーション通りにこの商品を割り当てて売ってもらった場合、
トータルのポートフォリオにどういう影響が出るか。ジェイミーも承認済みよ」
つまり、営業本部長のジェイミー・トールマンが、売っていいと言っているわけだ。
五人は受け取った紙を凝視した。
ホークの紙にはロマネスク社の数字が載っていた。
しかし、割り当て分のシミュレーションが入っていない。
問いかけるようにレイチェルを見ると、ちょっと待って、と指で合図された。
「各付け会社が今日にもレーティングを落として来たら、どうするんだ」ジョルジオが言った。
「格付け会社よりもうちの情報源の方が早いわ」レイチェルは、一人一人の顔を見回した。
「どうかしら、そのくらいの影響なら挽回できるかと思ったんだけど、行けそうかしら」
ジョルジオは、まあ、なんとか、という顔をした。
さっき立ち上がった男が言った。
「これじゃ多すぎる。他にも危ないのが入ってるんで、この通りには挽回できない。十本までだ。それ以上だと自爆する」
「……そう。誰か引き受けてもらえる人、いる?」
そう言われても、ぎりぎりまで入れられた数字でシミュレーションしているらしく、誰もやるとは言わない。
ロマネスクに損をさせられる絶好のチャンスだ。イギリスの国策商品だと言えば、絶対信用する。誰も知らない情報だから、暴落しても偶然に見える。
「じゃあ、残りはおれが」ホークが手を上げた。
「アラン、大丈夫?」レイチェルが真顔で聞いた。
「そのくらいなら」
レイチェルが紙を回収して、全員会議室を出た。
エレベーターで二十階に戻る途中、全員言葉少なだった。
降りる時ジョルジオがホークに言った。
「ロマネスクに買わせるのか?」
ああ、とホークは頷いた。
「ロニーは絶対やらなかった」
「ちょっとくらい誤爆しても気づかないだろう。領土が広いんだ」
「殺されるぞ」
「……?」
ジョルジオは席に駆け戻り、もうヘッドセットをつけていた。
飛行機の中で髭は剃ったが、Tシャツとジーンズのままだったので、二十階にあるドレッシングルームでスーツに着替えた。
トレーディング・フロアに駆け込んだ時は、ちょうど六時半だった。
朝会のあと、マーケットが開く十五分前に、緊急会議に呼ばれた。
『流動性会議』という名目で、審査部からメールが送られてきたのだ。
呼ばれたのはホークを含む五人のみ。
それぞれ大口の顧客を担当する営業部員だった。
二十一階の審査部の会議室に入ると、それぞれは軽く挨拶をして席に座った。
審査部の次長レイチェル・ハリーが、壁のスクリーンにパワーポイントの資料を映し出していた。
「覚悟しとけよ、話が長いぜ」隣に座った上級営業員がホークに耳打ちした。
トップ・セールスマンと言われているジョルジオだ。
一見無精に見える髭面でカーリーヘア、洗いすぎて元の色がわからないくらい色褪せたポロシャツを着ている。営業員には見えない。
社内のルールで、客と会う予定がない時はドレス・ダウンしてよいことになっている。
何着も会社のロッカーに服を置いてあるので、急に客から呼ばれても、すぐ着替えて出かけられるのだ。
全員揃ったところでレイチェルが、明かりを消して壁のスクリーンを明るくした。
「早くしろ」とジョルジオが言った。
彼のチームは金融法人のファンドマネージャーが顧客だ。
何時であろうと関係なく電話が入る。
朝会中もだいたい電話を持って、大量注文のプライスをトレーダーチームとやりとりしている。
いつも秒単位の生活だ。
「急いで集まっていただいたのは、内密で、ある商品の流動性に問題が発覚したことをお知らせしたいからです。
先ほどの幹部会議で決まったことを代理でお伝えします」
幹部会議とは、本部長以上が出席する。
“先ほど”というからには、緊急に開かれたのだろう。
小柄なレイチェルは、黒のノースリーブのドレスを着ていて、ジムで鍛えているような二の腕をしている。
ショートカットの髪は黒、はっきりした目鼻立ちだ。
正面のスクリーンに波の荒い海の映像が映った。
その瞬間「なんだ、これ?」とレイチェル以外の全員が思った。
「これは、センカク・列島と呼ばれている島嶼群です。
この島々の領有権をめぐって、現在日本と中国との間の緊張感が高まっていることは、御存じかしら」
なんとなく聞いていた程度だったので、ホークは少し首を横に振った。
「御存じだ。それで?」ジョルジオが言った。
「岩にしか見えねえ」誰かが言った。
その岩の周りに国旗の種類の違う船が何隻も出ている。沿岸警備艇のようだ。
「それがどうしたんだ、早くしろレイチェル」
「そんな岩を取り合って、フォークランドみたいな戦争が始まるのか?」
レイチェルは全く動じない声で言った。
「いいえ、今のところは。どの道日本は戦争をしません」
「じゃあ、アメリカがやるのか。でもあれ、アメリカの船じゃないな」
「ちょっと待てよ、アメリカが中国相手に戦争するか?」
「レイチェル、結論は何なんだよ。おれたちに時事問題を討論させてどうするんだ」
「この岩のことはどうでもいいの。そのせいで、これから中国で起こる抗日運動が問題なのよ」
レイチェルがページを進めて、あるグラフが出てきた。
「うちの情報源によると、遅くとも今から一週間以内に、かなり激しい抗日デモが起こる」
だったらここから始めりゃいいんだよ、とジョルジオが、ホークにだけ聞こえるように囁いた。
グラフが、そうなった場合のある組成商品の時価評価額の推移を予測していた。
「御存じの通り、中国に生産・販売拠点を持っている日本企業はたくさんあるわね。
それらの拠点がデモ隊に占拠されたり、破壊されたりした場合の影響を考えたのが、このグラフ」
急激な右肩下がりだ。
「先週までは、これほどの緊張は高まっていなかったの。つまり、中国に進出している外国企業に関するリスクは、例年より緩和されていたのね」
「格付けだって投資適格になっているじゃないか」一人が言った。
「そうだったのよ。それで今日が販売初日だったんだけど、うちの調査員からの情報で、投資適格とは言えなくなったの」
「暴動ってのは、いずれ治まるんじゃないのか」
「暴動自体は治まっても、その先、生産と物流が以前と同じように回復するかどうかが未知数なの。
ひょっとすると、永久に回復しない可能性もある」
「じゃ、どうするんだ。販売中止か?」ジョルジオが言った。
レイチェルが首を振った。
「もともと中国政府の要請もあってつくった商品だったから、ナンバー・イレブン(財務省)に密かに聞いたところ、中国政府の手前、販売中止にはするな、と言われたわけ」
五人の営業員は一瞬黙った。ジョルジオが言った。
「つまり、一週間後に暴落するとわかっていて、売れと言うんだな」
部屋にいた全員が互いの顔を見回した。最後にレイチェルに目を戻すと、
「そういうこと」と頷いた。
「そいつはやべえ」全員、ジョルジオと同じことを思った。
「だからあなた方を呼んだのよ」
「よしてくれ、おれは抜ける」ホークと同じ階級の営業員が立ちあがった。
「最後まで聞いて」レイチェルが声を上げた。
立ち上がった男は一応立ち止まった。
レイチェルは、プリントアウトした紙をそれぞれの前に一枚ずつ置いて行った。
「あなた方が担当する大口顧客の取引口座残高の予測をしてみたの。
シミュレーション通りにこの商品を割り当てて売ってもらった場合、
トータルのポートフォリオにどういう影響が出るか。ジェイミーも承認済みよ」
つまり、営業本部長のジェイミー・トールマンが、売っていいと言っているわけだ。
五人は受け取った紙を凝視した。
ホークの紙にはロマネスク社の数字が載っていた。
しかし、割り当て分のシミュレーションが入っていない。
問いかけるようにレイチェルを見ると、ちょっと待って、と指で合図された。
「各付け会社が今日にもレーティングを落として来たら、どうするんだ」ジョルジオが言った。
「格付け会社よりもうちの情報源の方が早いわ」レイチェルは、一人一人の顔を見回した。
「どうかしら、そのくらいの影響なら挽回できるかと思ったんだけど、行けそうかしら」
ジョルジオは、まあ、なんとか、という顔をした。
さっき立ち上がった男が言った。
「これじゃ多すぎる。他にも危ないのが入ってるんで、この通りには挽回できない。十本までだ。それ以上だと自爆する」
「……そう。誰か引き受けてもらえる人、いる?」
そう言われても、ぎりぎりまで入れられた数字でシミュレーションしているらしく、誰もやるとは言わない。
ロマネスクに損をさせられる絶好のチャンスだ。イギリスの国策商品だと言えば、絶対信用する。誰も知らない情報だから、暴落しても偶然に見える。
「じゃあ、残りはおれが」ホークが手を上げた。
「アラン、大丈夫?」レイチェルが真顔で聞いた。
「そのくらいなら」
レイチェルが紙を回収して、全員会議室を出た。
エレベーターで二十階に戻る途中、全員言葉少なだった。
降りる時ジョルジオがホークに言った。
「ロマネスクに買わせるのか?」
ああ、とホークは頷いた。
「ロニーは絶対やらなかった」
「ちょっとくらい誤爆しても気づかないだろう。領土が広いんだ」
「殺されるぞ」
「……?」
ジョルジオは席に駆け戻り、もうヘッドセットをつけていた。
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