わけありのイケメン捜査官は英国名家の御曹司、潜入先のロンドンで絶縁していた家族が事件に

川喜多アンヌ

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23 捜査官の仕事、いつまでやるの?

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 ロマネスクは損をしない。

 営業担当の采配に関係なく、指値で必ず取り返す。

 彼らは市場のメカニズムを知り尽くしているのか。

 それとも――どこからかインサイダー情報を得ているのか。

「奴らに損をさせてみろ」カルロが言った。

「犯罪組織から預かっている資金の運用で、損を出したら慌てるだろう。大損させられるか?」

 アンドレはそう簡単に騙されない。よほどの偶然でもない限り――

「うまい案件があったら、やってみる」



 月曜が休日だったので、カルロに許可を取り、週末久しぶりにワシントンに帰った。

 潜入中に家に帰ることなどないのが普通だが、今回の仕事はそれができる。

 潜入先が休みだと何もすることがない。

 土曜の午後、ダレス空港からタクシーで自宅に直行した。

 芝生の前庭を通って玄関ポーチのステップを昇る。

 地下室のついた平屋建てで、ポーチはそのままテラスにつながっている。

 鍵を出すのが面倒だったので、呼び鈴を鳴らすとすぐメイリードがドアを開けた。

「ハイ!」

 メイリードはホークの首に腕を回し、背伸びして唇にキスをした。

 ふわりとローズの香りが漂った。彼女が愛用するボディローションの香りだ。

 メイリードの大きな紫がかった灰色の瞳が、素早く動いてホークの顔と全身を見た。

 何か菓子を焼いたようなこうばしい香りが家の奥から漂ってくる。

「みんなでパンケーキを焼いたのよ」

 キッチンを通ると女の子が二人いた。

 九歳の義理の娘メリー・アンとその友達だ。

 二人ともエプロンをかけて、焼き上がったパンケーキに蜂蜜や果物をのせている。

 泡立てたばかりのホイップクリームがまだボウルに入ったままだった。

 メリー・アンに近寄って「元気?」と訊きつつ頬にキスをした。

「ハイ、デイヴィッド」メリー・アンはホークをそう呼んだ。

 家出した後、北アイルランドで使っていた名前だ。

 メイリードもいまだにホークをデイヴィッドと呼ぶ。

 友達の女の子にも挨拶して寝室に向かった。荷物は殆どなかった。

 リュックから高級チョコレートとビスケットの箱を出して、メイリードに渡す。

「わあ、あの子たちにあげていい?」

 ホークはお菓子を持って行こうとするメイリードを呼びとめた。

 振り向いた彼女を抱き寄せ、しっかり抱きしめた。

 メイリードが何か言いかけたが、さっきより深いキスで唇を塞いだ。

「だめよ、あの子たちがいるのに」

 ホークは後ろ手にドアをロックした。


 ドアの向こうから女の子たちの甲高い声が聞こえてくる。

「……もう、あの子たちをほったらかしにして。きっと、何してるのかって想像してるわよ」

 ベッドの上でメイリードは口を尖らせた。その横顔を見ていると、なぜか笑いがこぼれた。

 メイリードの華奢な拳が額を小突いた。

 ふと、ホークの身体に目を止めて言った。

「どうしたの、これ?」

 柔らかい掌が右わき腹に触れた。まだ痣が消えていなかった。

「ああ……ちょっとボクシングで」

 メイリードの目は信じていないようだ。

「本当だよ。会社の同僚と」

「……危ないことばっかり」

「大丈夫だよ」腕をつかんで引き寄せようとした。

「だめ、もう」

 メイリードは素早く服を着直して、子供たちの所へ戻った。


 この家はボストンの大学を受験する準備をしているときから借りている。

 気兼ねなくピアノの練習をすることのできる家を探していたときに、見つけたのだ。

 もともとオーケストラのメンバーだった夫婦が住んでいた家で、隣との距離がたっぷりある。

 借りるにあたって、小型のグランドピアノを運び込むため、床補強だけ特注した。

 それは、スタインウェイのコンパクトなグランドピアノで、一九八〇年代に造られた中古品だ。

 かつて実家にあったのと同じ型のこれが気に入って、弦を張り替え、鍵盤の反射やペダルを調整して買った。

 ローンを払うのに数年かかった。

 トニーから、普通のピアノで何がいけないのかと散々言われたが、どうしてもとこだわった。

 以来、何度も調律して使っている。

 家には防音も施されているので、長時間ピアノを弾き続けても、近所への気兼ねが要らない。

 もともと一人で住んでいた家の中は、いつの間にか増えたメイリードとメリー・アンの物で、手狭になってきた。

 窓辺には、メイリードが好きな観葉植物の鉢が並んでいる。どこかで手作りのラグやタピストリーを買ってきては、そこここに飾っている。

 今メリー・アンが、ソナチネ・アルバムの中のクレメンティの一曲を弾いている。

 明日がピアノのレッスン日なのだ。

 メリー・アンは、メイリードから受け継いだ褐色の髪を後ろで一つに束ねている。

 瞳は青灰色で、父親から受け継いでいる。

 九歳のメリー・アンにはこのピアノは扱いきれないだろう。

 鍵盤がコンサート用並みに重くしてあるからだ。

 でもメイリードはそんなこと知らない。

 ホークはメリー・アンの横に立って、音を外した所を教え、速さや強弱を教える。

 先生が同じことを教えているはずだが、まだ楽譜通りに弾くことができていない。

「自分の音を聴くんだよ」

「聞こえてるもん」

「じゃあ、これと違うのわかる?」

 彼女の手の上に自分の手を重ねて、正しい音の出し方を教える。

「わかるもん」小さな手が動いて鍵盤を叩く。

 音が鳴っていない。もう一度ホークが弾く。すぐ彼女が同じ鍵盤を叩く。

 合格とはいえないが、なかなか先へ進めないとメリー・アンは飽きてしまう。

 そんなやりとりをして、最後はいつもホークが手本を弾いてやることになる。

 メリー・アンを優しく椅子から抱き下ろし、自分の高さに椅子を合わせて鍵盤を鳴らす。

 たぶんこの曲は五歳くらいの時に弾いた。ソナタ形式だが、二楽章が十六小節しかないので三分もかからない。

 そんなに速く弾けない、とメリー・アンが言う。

「いいんだよ。自分の速さで」

 指で楽譜の冒頭にある速さの指定を指す。

「数字に幅があるのは、ゆっくり弾く人もいるからなんだ」

 丸くカーブしたメリー・アンの額を見ると、父親似だなと思う。

 左右の目の間隔も、やや狭い。

「もう一回弾いてごらん」

 メイリードの手がホークの両肩に置かれた。首の後ろに額をぴったり付けて、囁いた。

「あんまり厳しく言わないでね」

 言ってないよ、と顔を振り向けて微笑む。ローズの香りが漂った。


「ねえ、捜査官の仕事、いつまでやるの?」

 夜、寝室で二人きりでいる時メイリードが言った。

 ホークはベッドの上で枕をクッションにして座り、ブラックベリーをチェックしていた。

「どうしてそんな事訊くの?」

「だって、危ないことが多いじゃない」

 メイリードはホークが戻ってきた時、身体のどこかに傷痕が増えていると、心配そうに尋ねる。

「警察官だって変らないじゃないか」

 メイリードはふと顔を向けた。

「あ、ごめん」思わず謝っていた。

 彼女が結婚した男、メリー・アンの父親は警察官だった。

「一般的に、という意味で」

 水を湛えた湖のような紫がかった灰色の瞳が揺れている。

「あたしね、もう一人子供がほしいの」

 反応が遅れた。

「え?」

「子供。赤ちゃん」

「僕の?」

「他に誰がいるの?」

 メイリードは、NPOに勤務しているが、最近二人目三人目を産むため産休に入る同僚が続いている。

「年齢を考えると今がいいの。三人目が欲しくなっても大丈夫だし。でもね、お父さんが側にいる時間も大切なの」

 やっとブラックベリーのチェックが終わった。

 三連休はイギリスだけで、アメリカや他のEU諸国からメールが入り続ける。

 メイリードがホークの手元を覗きこんだ。

「さっきから何してるの」

「ごめん、もう終わった」

 ブラックベリーをナイトテーブルの上に置いて、素早くメイリードの側に潜り込んだ。

「あたしの話、聞いてた?」

「聞いてたよ」

 ローズの香りに包まれた。
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