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11 これ、一人分の仕事なのか?

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 毎朝六時十五分にデスクに着くように出社する。

 六時半から、株式部と株式調査部の朝会が始まる。

 マーケットは朝八時から午後四時半まで。

 昼休みはないから交替で出る。

 新しく入った営業担当として、顧客に挨拶に回りながら、オフィスに戻ってくると、アウトルック・カレンダーにぎっしり新しい予定が入っている。

 営業時間が終わってからは、社内の関連部署とのミーティングだ。

 その他に、中途入社した社員のための研修の予定がやたらに入ってくる。会社全体で合わせて三十人ほどが同じ月に入社していた。

 更に、読まなければならない社内規則が五百ページくらいあり、期限内に読んだことをオンラインで宣誓しなければならない。

 営業時間が終わってからしかできないので、残業になった。

 入社して三日目の夜、九時頃帰宅して、テイクアウトの中華料理を箸でつまみながらふと思った――そういえば何も捜査していない。



 その朝は、新着メールのタイトルを茫然と見ながら、どれから先に片付けるべきかと考えていた。

 まず、人事部から給与口座の書類を出せという催促。これは既に三度目の催促ですと但し書きがある。

 続いてコンプライアンスから、営業員研修に出ろと言う催促。

 ダイバーシティ委員会から、トレーニングセッションに出席予定を入れろと催促。

 マラソンクラブから、トライアル・ランの誘い。

 経理部から、経費精算口座をオンライン登録せよと催促。

 入社時に買い取ってもらった、前社のストック・ユニットから転換した、当社株の株数の通知と、自分の口座のパスワード。

 LGBTのレセプションからの招待。

 会社が契約しているジムのカードが出来ているから、取りに来い、と総務から催促。

 役員のメンバーとの昼食会の招待に返事を出せ。

 インターンのメンバーが作成したプレゼンテーションのフィードバックを送ってほしい。

 人事部の会社概要説明会に出た感想を送ってほしい。

 CEO主催のストラテジー・ミーティングの予定をアウトルックに入れろ。

 十日間連続休暇の予定をカレンダーに入れて、上司の承認を取れ。

 法務部に自署のサインを登録に行け。

 当社の銀行に口座を開け。

 自分で持っている有価証券の全てをコンプライアンスに報告しろ。

 アンチ・ハラスメント研修へ参加申し込みをしろ。

 週末ボランティア活動に参加希望の方は……。

 このほかに、当然ながら、客からの問い合わせ、業務関連の連絡事項・確認事項のメールが、別のフォルダーに入っている。

 放っておくと、すぐ百通くらい溜まるメールを片づけつつ、百を超えるクライアントの運用口座をマネージするのが、アラン・キャンベルの仕事らしい。

 これ、一人分の仕事なのか?

 スクリーンを見つめていると、アラン、と呼ぶ声がした。

 後ろにパメラがいた。マスカラびっしりの目を大きくあけて見ている。

「ロマネスクの社長に紹介するから、すぐ来てって」営業本部長からの伝言だった。

 全てのメールを放り出して、上着を着ると、ブラックベリーをポケットに突っ込んで、エレベーターホールに走った。

 エレベーターの壁に映る自分の姿を点検する。髪に手櫛を入れ、ネクタイを整えた。

 ロマネスクこそ、前任者のロニーがマークしていた顧客だ。

 彼から引き継いだファイルには、取引の詳細だけでなく、社長とその秘書、更に社長の愛人とのコミュニケーションの取り方まで残されていた。

 取引残高から言って、ロマネスク海運は、担当する中で一番の大口顧客だった。

 本社の登記はサンクトペテルブルクにあり、ロンドンには、連絡事務所だけがある。

 本業は海運業で、自社のコンテナや貨物船を所有し、寄港先は、北米および南北ヨーロッパの殆どの港である。

 ロニーは、複数の犯罪組織の金が、銀行間の送金によってロマネスクに流れ、ロマネスクが合法的に資金洗浄をしている、と書いていた。

 ロマネスクの口座に入金がある時点では、合法に輸送した貨物に対する代金の支払いばかりで、犯罪性を立証できていない。

 ロマネスクは一見、善意の第三者であった。

 ひとたび証券口座で運用されてしまうと、資金の出所がもうわからなくなる。

 最上階の役員エリア応接室。

 パメラから、初日に社員証兼アクセス・カードをもらったときに、職責によって、社内で入ることのできるエリアは限られていると聞いた。

 当局が決めたファイアーウォール規制によるものと、社内で決めたルールがある。

 最上階は、役員のフロアなので、許可のある社員しか入れない。ホークは、担当に大口顧客がいるので、彼らがそこに通される関係で、アクセスを許可されていた。

 採用面接の時オンラインで話した、本部長のジェイミー・トールマンは、四十半ばのスコットランド人だ。ロイヤルハイランド連隊ブラックウォッチが最初のキャリアだ、とロニーのファイルにあった。

 長身で、赤みがかったストレートの金髪を、オールバックにしている。話し声は大きいし、豪快に笑い、歩くと床が揺れる。

 なんとなく軍人らしい所作と話し方が、軍人だったホークの亡き父親を思い出させた。

 応接室には、チーフ・オブ・スタッフのエディも同席していた。

 二人が長身なので、百八十五センチを超えるホークでも、自分が小柄に感じる。

 ロマネスク側は、社長のトマシュ・レコフと秘書のアンドレ・ブルラクが来ていた。

 トマシュは四十歳ちょうどで、背はホークと同じくらいだが、もっとがっちりしている。顔は細長く、茶色の髪と同じ顎髭に覆われている。肌は日に焼けていた。

 アンドレもまた長身で、肩幅が広く、長めの黒髪を七三に分けており、眼鏡をかけている。トマシュより若く、三十半ばと見えた。ファイルにある通りだ。

「今日は、新しく担当する営業部員を紹介するよ」

 本部長が、スコットランド訛りで言った。

「トマシュだ、よろしく」

 力強い握手だった。薄い水色の目が、瞬きもせずに見つめてきた。非常に強いアンバー系コロンをつけている。

 アンドレは、ごく事務的な握手で、おざなりにホークを見ただけだった。

 トマシュが座ると、ここにいる誰よりも高価そうな生地で誂えた、スーツの衣擦れの音がした。

「前職も株を?」

「はい。主にヘッジファンド・セールスをやっていました」

「どうしてロンドンに来たんだ」採用時にホークが提出した職務経歴書の情報は、既に聞いているらしい。

「もともとロンドン出身だからです。最初に就職したのがアメリカの会社で、転勤願いを出していたのですが、前社では、ロンドンに空きがありませんでした」

「ほう。ここには空きがあったからな」

 トマシュがジェイミーを見た。ジェイミーが頷く。

「私の口座を見たかね」

「はい」

「どう思う」

「バランスが取れていると思います。リスクヘッジも」

 トマシュは頷いた。

「どうだね、この会社は」

 初めて微笑を浮かべた。

「二人の前だが、正直に言ってかまわないよな?」

 ジェイミーが愛想笑いをする。エディは先ほどから一言も発しない。

「今はまだ、この会社に慣れようとしているところです」

 ホークも微笑を浮かべた。ポケットの中で、ブラックベリーが振動している。さっきから次々メールが入っているようだ。

 トマシュは、ホークの顔を記憶に焼きつけるように、シャッターを切るような瞬きをすると、ようやく視線をはずした。

「近々またキャッシュが入りそうなんでね、この際手ごろな会社があったら、買おうと思っているんだが」

「どのような分野で」ジェイミーがきいた。

「小さな運用会社か、投資顧問会社かな」

「なるほど」

「お宅の情報で、何か出物があったら、おしえてほしいね」

 ジェイミーがホークを見た。投資銀行本部の人間に話せと言う意味だ。

 帰る時、トマシュとまた握手をすると、肩に手を掛けられた。

「今度またゆっくり話そう」

 三人で、エレベーターのドアが閉まるまで見送った。

 席に戻ると、またメールが増えていた。

 一番上のメールのタイトルを見ると、「ワーク・ライフ・バランス向上研修(ヨガ講習)」とあったので、読まずに捨てた。

「ねえアラン」

 振り向くと、パメラが立っていた。

「メール読むの、大変でしょ」

「……ちょっとね」

「予定表のアクセスをくれたら、あたしが管理してあげられるんだけど」

 他に、数人の上級営業員の名前を挙げ、彼らの予定表も自分が管理している、と言った。別に、この役柄に秘密はないので、かまわないだろう。

「助かるよ」

「あとね、給与口座を教えてくれないと、給料が払えないって、電話があったわ」

「あー、そうだった」そのメールを探そうとしたが、どこまで行ってしまったのか、もうかなり下の方だ。

「営業員研修は、あたしの方で予定入れるわね」

「ありがとう」

「役員の昼食会とかも、やっとくから。さっき上の秘書室から電話があったの」

「助かるよ」

 チームのアシスタントは、パメラの他にあと二人いる。ホークの列は、パメラの担当だ。ほかに、エディの秘書と、本部長の秘書がいる。

 パメラはニコニコと愛想よく話して、席に戻って行った。なんとなく、高くつきそうな予感が、ちらっと兆した。

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