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6 リハビリのカウンセラーはホークの治療に匙を投げた
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トニーはワシントン郊外の単調な直線道路をひたすら車で直進していた。
やがてゲートの向こうに司法省及び財務省管轄捜査機関の研修所が見えてきた。
周囲に監視カメラとセンサー付き有刺鉄線が張り巡らされているので、未決囚の拘禁施設かと間違えられる建物だ。
しかしこれは脱走を防ぐためではなく、外からの侵入を防ぐためだ。
アスファルトにゆらゆらと陽炎の立つ、五月のよく晴れた日だった。
トニー・リナルディは研修所入り口のゲートで身分証を見せた。
身分証には所属する歳入庁捜査機関の名と組織犯罪対策課特別捜査官と書かれている。
殆ど黒に見えるダークブラウンの髪に浅黒い肌、瞳の色は青。
名前の示す通りイタリア系の祖先の血を受け継いだ外見だ。
難なくチェックをパスしてゲートを通過し、広い敷地内を車で走った。
体育館、室内温水プール、テニスコート、野球場、フットボール場、ランニングコース、サイクリングコース、射撃場、車両訓練場、宿舎、図書館、教室棟、食堂、病院など、長期間ここで訓練を受ける者に必要な設備が全て揃っている。
ここを卒業した現役の捜査官も、一つの捜査が終わると、次の仕事に入る前に、リハビリや技術・能力維持、そして訓練のためにここで過ごすことがある。
メイン・ビルディングの前の駐車場に車を止めて、トニーは建物の中に入った。
二週間前からホークがここでリハビリ中だった。
受付でロレイン・メンデスという名の研修担当者を呼び出してもらう。今日来ることは先ほど連絡済みだ。
無愛想な灰色のコンクリートの壁を眺めながら立っていると、軽い頭痛を感じた。
両方のこめかみに手をやって、マッサージする。睡眠不足だ。徹夜の強制執行のあとなのだ。
もともと夜撃ち朝駆けの多い現場なので慣れてはいる。
真夜中の数時間に及ぶ説得と撃ち合いの後、容疑者を逮捕してあとを部下達に任せた。
メキシコ国境からヘリで戻ったのが朝の五時。
仮眠する間もなくシャワーと着替えをするだけでここへ来たので、頭痛がするのも当たり前か。
それというのも、クーパー本部長が「ホークはまだか」とうるさいからだ。
リハビリの必要性を訴えて、二週間時間をもらった。
それが、ああ見えてきっちり物事を管理するのが好きらしく、ちょうど二週間経った昨日、本部長がトニーのオフィスにやってきた。
「ロンドンが、もう待てないと言っている」
株式営業担当として潜入していた捜査官が死んだあと、その証券会社では空席を埋めるために同業他社の営業員を次々面接していた。
先日ある候補者が最終面接を終えたらしく、近日中に契約書のやり取りがあるということだった。
二〇〇七年から始まった市場の低迷が依然として世界中の金融業界を覆っている。
空席が一度埋まってしまったら、増員する証券会社など絶対にない。
だから、ホークが行くまでその席が埋まってしまっては困るのだ。
本部長が言うには、その最終面接まで残った候補者には、裏から手を回して他社のいい話を持って行き、自ら辞退させるよう工作するとのことだった。
別に、こちらは待ってもらいたいわけじゃない。だいたい、まだその件をホークに話してもいないのだ。
むしろどう切り出すべきか、考えあぐねていた。場合によっては大芝居を打たなければならないかもしれない。
ロレイン・メンデスから十日ほど前にメールが来ていた。
ゆっくり読む暇もなかったが、一読して「ホークがトレーナーの指示に従わないので困る」という内容だった。
ホークが人の指示に従わないのはよくあることで――もともとあいつは扱いにくい――トニーは特に驚かなかったから、ロレインに返事もしなかった。
すると、今度は五日前、またロレインからメールがあり、トニーが読んでいないと見て電話があり、それに出た秘書のフィオナから伝言があった。
「もうこちらでは対処できない。リハビリ終了証明を出せない」とのことだった。
二週間のリハビリ期間が終わったのに、「職場復帰可能」のお墨付きがもらえないということだ。
いったい何があったのだ?
しかし、ここまで来たからには、なんとかして、あいつを今日連れて帰らなければならない。
小柄なロレインが、ファイルを小脇に抱え、タイトスカートいっぱいに歩幅を広げて速足で歩いてきた。
褐色の肌に階級章付きの真っ白なシャツを着て、胸がはちきれそうだ。
黒い大きな瞳と血色のいい唇が笑みをたたえていた。
二人は軽くハグして挨拶をかわした。
オレンジのようなコロンの香りが漂った。
「何度もメールしたのよ」ロレインが言った。
「悪かった。つい……」
「忙しくて、でしょ?」唇がニーッと笑った。
「わかってるわよ。だからフィオナに伝言しておいたけど」
「聞いたよ。だが、いったい……」
「要するにね、全然カウンセリングを受けに来ないの」
「なんだそれは」精神的リハビリのために特別に組んだプログラムだったはずだ。
「もうお手上げよ。誰が言っても言うこと聞かないの。もうあなたしかいないわ」
二人は話しながら、日差しの降り注ぐ渡り廊下を通って、ダイニング棟へ向かった。
やがてゲートの向こうに司法省及び財務省管轄捜査機関の研修所が見えてきた。
周囲に監視カメラとセンサー付き有刺鉄線が張り巡らされているので、未決囚の拘禁施設かと間違えられる建物だ。
しかしこれは脱走を防ぐためではなく、外からの侵入を防ぐためだ。
アスファルトにゆらゆらと陽炎の立つ、五月のよく晴れた日だった。
トニー・リナルディは研修所入り口のゲートで身分証を見せた。
身分証には所属する歳入庁捜査機関の名と組織犯罪対策課特別捜査官と書かれている。
殆ど黒に見えるダークブラウンの髪に浅黒い肌、瞳の色は青。
名前の示す通りイタリア系の祖先の血を受け継いだ外見だ。
難なくチェックをパスしてゲートを通過し、広い敷地内を車で走った。
体育館、室内温水プール、テニスコート、野球場、フットボール場、ランニングコース、サイクリングコース、射撃場、車両訓練場、宿舎、図書館、教室棟、食堂、病院など、長期間ここで訓練を受ける者に必要な設備が全て揃っている。
ここを卒業した現役の捜査官も、一つの捜査が終わると、次の仕事に入る前に、リハビリや技術・能力維持、そして訓練のためにここで過ごすことがある。
メイン・ビルディングの前の駐車場に車を止めて、トニーは建物の中に入った。
二週間前からホークがここでリハビリ中だった。
受付でロレイン・メンデスという名の研修担当者を呼び出してもらう。今日来ることは先ほど連絡済みだ。
無愛想な灰色のコンクリートの壁を眺めながら立っていると、軽い頭痛を感じた。
両方のこめかみに手をやって、マッサージする。睡眠不足だ。徹夜の強制執行のあとなのだ。
もともと夜撃ち朝駆けの多い現場なので慣れてはいる。
真夜中の数時間に及ぶ説得と撃ち合いの後、容疑者を逮捕してあとを部下達に任せた。
メキシコ国境からヘリで戻ったのが朝の五時。
仮眠する間もなくシャワーと着替えをするだけでここへ来たので、頭痛がするのも当たり前か。
それというのも、クーパー本部長が「ホークはまだか」とうるさいからだ。
リハビリの必要性を訴えて、二週間時間をもらった。
それが、ああ見えてきっちり物事を管理するのが好きらしく、ちょうど二週間経った昨日、本部長がトニーのオフィスにやってきた。
「ロンドンが、もう待てないと言っている」
株式営業担当として潜入していた捜査官が死んだあと、その証券会社では空席を埋めるために同業他社の営業員を次々面接していた。
先日ある候補者が最終面接を終えたらしく、近日中に契約書のやり取りがあるということだった。
二〇〇七年から始まった市場の低迷が依然として世界中の金融業界を覆っている。
空席が一度埋まってしまったら、増員する証券会社など絶対にない。
だから、ホークが行くまでその席が埋まってしまっては困るのだ。
本部長が言うには、その最終面接まで残った候補者には、裏から手を回して他社のいい話を持って行き、自ら辞退させるよう工作するとのことだった。
別に、こちらは待ってもらいたいわけじゃない。だいたい、まだその件をホークに話してもいないのだ。
むしろどう切り出すべきか、考えあぐねていた。場合によっては大芝居を打たなければならないかもしれない。
ロレイン・メンデスから十日ほど前にメールが来ていた。
ゆっくり読む暇もなかったが、一読して「ホークがトレーナーの指示に従わないので困る」という内容だった。
ホークが人の指示に従わないのはよくあることで――もともとあいつは扱いにくい――トニーは特に驚かなかったから、ロレインに返事もしなかった。
すると、今度は五日前、またロレインからメールがあり、トニーが読んでいないと見て電話があり、それに出た秘書のフィオナから伝言があった。
「もうこちらでは対処できない。リハビリ終了証明を出せない」とのことだった。
二週間のリハビリ期間が終わったのに、「職場復帰可能」のお墨付きがもらえないということだ。
いったい何があったのだ?
しかし、ここまで来たからには、なんとかして、あいつを今日連れて帰らなければならない。
小柄なロレインが、ファイルを小脇に抱え、タイトスカートいっぱいに歩幅を広げて速足で歩いてきた。
褐色の肌に階級章付きの真っ白なシャツを着て、胸がはちきれそうだ。
黒い大きな瞳と血色のいい唇が笑みをたたえていた。
二人は軽くハグして挨拶をかわした。
オレンジのようなコロンの香りが漂った。
「何度もメールしたのよ」ロレインが言った。
「悪かった。つい……」
「忙しくて、でしょ?」唇がニーッと笑った。
「わかってるわよ。だからフィオナに伝言しておいたけど」
「聞いたよ。だが、いったい……」
「要するにね、全然カウンセリングを受けに来ないの」
「なんだそれは」精神的リハビリのために特別に組んだプログラムだったはずだ。
「もうお手上げよ。誰が言っても言うこと聞かないの。もうあなたしかいないわ」
二人は話しながら、日差しの降り注ぐ渡り廊下を通って、ダイニング棟へ向かった。
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