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5 目の前に自分が立っていたら、引き裂いてしまいそうだ

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 マイアミの警察署では、容疑者十数名を連行した合同捜査チームが会議室の一つでささやかな祝杯を上げていた。

 それぞれ突入現場から戻った格好のまま、ビールを飲んでいる。

 夜明けが近かった。任務完了をゆっくり祝いたくても、トニーたちはヘリでワシントンまで戻らなければならない。

 会議室を一人出たトニーは、廊下の反対側の取調室の一つに向かった。

 法執行機関の現場は大抵そうだが、内装を整える予算も時間もない。

 壁のあちこちは何の汚れなのか判別の付き難いしみだらけだし、ドアというドアはとっくに塗装し直す時期を逸している。

 そういう環境に慣れ過ぎて妙に見慣れた感じを抱きながらトニーはドアを開けた。

 殺風景な取調室の簡素なテーブルの向こうに、長い金髪の頭を項垂れて、男が椅子に縛りつけられていた。

 両手首に手錠が掛けられている。

「ホーク」トニーの声に男の頭がぴくりと反応した。

 眠っていたかのようにゆっくりと顔を上げる。

 長くのばした金髪に、無精髭、Tシャツの襟から見える胸と腕に本物そっくりにプリントされた刺青。

 Tシャツの胸に乾いた血のような汚れがついている。

 普段のホークはスタイリッシュに髪を整えているし、刺青はなく髭を生やしたこともない。

 今目の前にいるホークは、いつもの彼とは似ても似つかない。

 トニーは胸ポケットから鍵を取り出した。

 ホークの手錠をはずし、ついで腰に掛けられていた拘束ベルトのラッチをはずした。

 げっそりと頬がこけて、もともと白い顔がすっかり青ざめていた。

「大丈夫か?」

 ホークは自由になった腕を後ろに回して、背中をさすりながら顔をしかめた。

 トニーはチームの者達に、潜入捜査官を殴る時は骨が折れない程度にしろと命じてあった。

 祝杯の席にホークが出なかった理由は、突入現場で味方の捜査員に怪我をさせた件を尋問されていたからだった。

 現場に居合わせた地元警察とトニーのチームの捜査員は、偶然の事故ではなくホークが意図的に相手を蹴ったと証言していた。

 ホークもそれを否定しなかった。

「顎の骨が折れて、全治六ヶ月だそうだ。しばらく物を食べるにも不自由するだろうな。マイアミ警察からの抗議に、歳入庁が謝罪する方向だ」

 と言ってみたが特に反応はなかった。

 顔を背けて背中に手をやっているままだ。

「せっかく手柄を立てたというのに、おまえって奴は……」

「……まだ十六歳だった」

 なに?

「彼女だよ。組織のことなんか何も知らなかった」いつものイングランドアクセントだった。

 だが、味方に銃を向けた。あの状況ではこちらの判断に間違いはない。

 保険会社が大規模な工事の際に死亡する人間の数を予測するように、それは計算された事故発生リスクの一つに過ぎなかった。

 無情な事だが、死んだ少女に関しては、歳入庁は全く問題にしていない。

 捜査妨害をされたので無力化した、というのが記録される事実だ。

「……殺すことないじゃないか」

「おまえこそ、味方を蹴り倒すとは何事だ」

 所詮は潜入中の人間関係だ。

 どんなに深い仲になろうと、捜査が終われば、二度と会ってはならない。

 そんなこと、ホークは百も承知のはずだ。

 テーブルに肘をつき、手で額を支えている。辛そうに目を閉じているのは背中が痛むからではないらしい。

「まさか、彼女を更生させようとか思っていたのか」

 目蓋が開いて青い目がトニーを見た。

 そんなことを考えているようには見えない。

 荒んだ殺し屋の扮装をしていても、目には光があった。

「ようやく家に帰れるじゃないか。半年振りだろう」ワシントンの家ではホークの恋人が待っている。

「僕が過去半年どうしていたと思うんだ。美少女と楽しくやっていたとでも?」

「いや。過酷な状況だったと聞いている」
 
 目がギラッと光った。

「この目で見たものを忘れたいよ。記憶を抹消してほしい」両手で顔を覆った。

「そうでないと……」

「しばらく休め。二週間」

 誰だって一つの捜査が終わったら、リハビリが必要だ。

 肉体的にも精神的にもだ。

 潜入捜査官はミッションごとにブレークを入れる。短期契約でプロジェクトを請け負うような感じなのだ。

「家でゆっくりすれば、落ち着いてくるさ」

 ホークは首を振った。

「……まさか。メイリードの所へなんか帰れるわけがない」

 メイリードとは、ホークが同棲する恋人だ。

 十代の頃北アイルランドで知り合って以来の仲らしいが、彼女は別の男と結婚して娘をなしていた。

 いろいろあって、今は娘とともにホークの元で暮らしているが、確かまだ彼女の夫は離婚に応じていない。
 
「もう何人殺したのか……。殆どは殺し屋みたいな奴らだったからいい。

 でも、一人はそうじゃなかった。なのにその男を……。

 いくら演技だからって、あんなことやりたくない。

 その上ルイーザを目の前で殺された」

 目を閉じて眉間に皺を寄せた。

「このままメイリードの所へ帰れるわけがない。よくわかんないけど、目の前に自分が立っていたら、引き裂いてしまいそうだ」

 今気がついた。彼の瞳がギラギラしているのは、力があるからではなく、神経が昂っているせいだった。

 恐らくは、ズタズタに傷ついている神経だ。

「自分が自分じゃないみたいだ……。メイリードに見せられない、こんな……」

 抹消したい記憶と戦っているのかもしれない。

 恐らくは残虐な殺戮現場だろう。

 殺された男の死体にはバラバラにされる前に相当傷めつけられた痕があった。

 ホークは素手で相手を斃す能力を備えている。

 必要な時は相手を殺すことをためらわない。

 しかし残酷なことはしない。いつも必要最小限の致命傷で止めを刺す。

「わかった。治療しよう」

 この際カウンセラーをつけて、メンタルのケアをするのがいい。

 十分な経験のある捜査官でも、過酷な任務で神経を痛めつけられることはある。

 恢復するまでは休ませる必要がある。

 本部長には少し待ってもらわねば。

「……治療って? どこも悪くないよ」

「いいから言う通りにしろ」

「あんたの言う通りにしたら、こんなひどい目に遭ったんだ」

 確かに、今回の潜入をホークに勧めたのはトニーだ――他に引き受け手がいなかったからだが。

「殺し屋の演技は難しいんだ。おまえくらい演技がうまくないと勤まらない」

「よく言うよ……。どうせ使い捨てだからだろ」

「使い捨てはおれだって同じだ」国とはそういうものだ、所詮。

 代わりはいくらでもいる。

 ホークは顔を上げ、腕を組んで背もたれによりかかった。

「もっと別の人生を生きるべきだったな」

「ああ」トニーは軽く頷いた。「おまえはピアニストになればよかったんだ」

「今それを言う? ……人が一番言われたくないことを」

「とりあえず、ワシントンに戻るぞ」トニーは立ち上がり、ホークの腕を取った。

「……家には帰れない」

「一晩くらいうちに泊めてやる」と言ってももう朝だった。

「嫌だ」ホークはトニーの妻のナタリーが苦手だ。

 すぐカウンセリングしようとするからだ。

 逆にナタリーにとっては、ホークはすごく興味をそそられる研究対象らしい。

「留置場の方がいい」

「そのために何枚書類が要ると思っているんだ。うちが嫌なら研修所に行け」リハビリは研修所で行うのだ。

「なんで?」ホークはトニーの手を振りほどいた。

「休みって言ったじゃないか。なんで研修なんだ」

「おっと、言い忘れた」トニーは振り向いてホークを見た。

「おまえ、減給処分になるからな。金額と期間は追って給与課から連絡があるそうだ」

「なんだよ、それ!」

 無理もない。普通なら、成功裏に任務完了でボーナスが出る所だ。

「だから、カウンセラーに付いてしっかりリハビリしろ」

 帰りのヘリに乗ってもまだホークの抗議は続いていた。
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