4 / 139
4 マイアミでかりそめの恋人を失ったホークは……
しおりを挟む
ホークは崖の上から海を見下ろすコロニアル風建築の大きな邸宅の中にいた。
邸宅は風に揺れる木立に守られ、夜空を背に優雅な白い姿を浮かび上がらせている。
静かだった。木立の影のそこここに監視カメラと赤外線スコープ、そして十人以上の迷彩服の男たちが、交替で見張りについている。
マシンガンを肩に掛けて持ち場をパトロールする彼らは足音を立てない。
時折聞こえるのは耳元の無線から漏れる乾いた音声だけだ。
二階の寝室のブラインドの影から様子を見ていると、彼らの一人が声もなく膝からくず折れた。
監視カメラを避けるように、倒れた身体が植え込みの中に引きずりこまれる。
ほどなく黒いマスクと黒い服で全身を覆った人物が、見張りの男が着けていた無線マイクを自分の頭に装着した。
ホークはほぼ同時に同じことが、庭の反対側でも起こっているだろうと思った。
神経を瞬間的に麻痺させる薬を首筋に注射されれば、どんな屈強な男でも、空気の抜けた風船人形のようにぐにゃりと崩れ落ちるのだ。
建物の中は、よく効いた空調が海辺の湿気を取り去り快適だった。
ホークの寝室は吹き抜けの螺旋階段を昇った二階にある。
窓から離れたホークは大きなベッドに横向きに寝そべり、薄眼を開けていた。
部屋の中はテラコッタの床に置かれた薄暗い照明に照らされている。
傍らでは若いヒスパニック系の女が、艶やかな黒髪を羽根枕の上に広げて、気持ちよさそうな寝息を立てている。
ルイーザという名前だった。彼女の髪や肌からなじみ深い香りと体臭が漂っていた。
手を伸ばせばしっとりと滑らかな肌がそこにある。
どこに触れても弾力のあるみずみずしい果物のような感触の身体だった。
この組織に潜入している間、普通の人間社会の誠意や善意が全く通じない殺伐とした空気の中にいた。
ルイーザだけがホークの神経を戦闘態勢から解放してくれる存在だった。
もっとも彼女がどういう人間なのかよく知っているわけではない。
話をするよりも先に身体に触れあった。
確かな事は、彼女の身体に自分を預けている時だけは、『組織の殺し屋』ではない自分に戻っていたことだ。
閉じたブラインド越しに夜の帳は乱されることなく屋敷を覆っている。
もうこれ以上は耐えられない。
今ホークはようやくここから脱出できるという希望にすがっていた。
ここにいる間に見聞きしたこと、自分がやったことを全て消去したい。
ここ何日か今まで経験したことのない、胸苦しさを感じていた。
ふとした拍子にそれはやってくる。
意識が飛んだように目の前が見えなくなり、見たくない別の光景を見てしまう。
とたんにこめかみを冷たい汗が伝い落ちる。
ホークはギュッと目を閉じた。
意識を今に集中しないと息ができなくなる。
目を閉じたまま静かに呼吸を整え深呼吸した。
その時、密閉された邸内の空気がほんの少し振動したような気がした。
サイドテーブルのクラシックな置時計が、夜中の一時近いことを告げている。
間もなくだ。ホークは少しの間息を詰め、空気が動く気配を探った。
どこかでドン! と音がした。続いてドカドカと数人の重い足音が聞こえた。ドカン! と重い破裂音が続く。ショットガンだ。
――始まった。
そっと身を起こし、隣のルイーザを見る。まだすやすやと眠っている。
一瞬黒い睫毛に目を留めた。幼なさの残る愛らしい顔だ。
ガン! という音とともに寝室のドアが破られた。
強烈なサーチライトの光を浴びて、ホークは思わず顔を背けた。
「警察だ、動くな!」
三人の黒装束の男が夜間用スコープ越しに銃口で自分を狙っている。
赤いポインターが三つ自分の胸に当たっているのがわかった。
「両手を上げて立て」
ホークは両腕でライトを遮るようにして、ゆっくりベッドから立ち上がった。
「服を着たいんだが」下着以外何も身につけていなかった。
「さっさと着ろ」
一人が前に出て、至近距離でホークに狙いをつけた。
マスク越しなので誰だか分らない。わかったとしても、お互いまだ演技を続けた方がいい。
ホークは窓際の籐椅子の上に脱ぎ捨ててあったジーンズとTシャツに手を延ばした。
既に目を覚ましていたルイーザが、裸の胸の前に羽根枕を抱きしめている。
黒い大きな目が恐怖に見開かれ、ホークの動きを追っている。
「おまえもだ」男の一人がルイーザに銃を向けた。
指示を仰ぐようにルイーザの目がホークを見る。
服を着ろよ、と身ぶりで促した。心配するな。大丈夫だ……。
ルイーザのドレスは反対側の壁際のソファの上にあった。枕を抱いたまま彼女はドレスに手を延ばし、こちらを向いた時拳銃を持っていた。
「ルイーザ、やめろ!」
ホークの叫び声と銃声が殆ど同時に発せられた。枕の羽根が飛び散り、ルイーザの身体がドサッと床に倒れた。
ホークはベッドを跳び越えた。
「ルイーザ……」ゆらゆらと羽根が舞っている。枕に黒々と穴があいていた。ホークは力を失った身体を抱き起した。
目を閉じて、口は半ば開いたまま、ルイーザの頭が重くのしかかった。
流れ出した血が床を染め始めた。
「こっちへ来い」ルイーザを撃った男が言った。つんと鼻をつく火薬の匂い。
ホークは女の身体をそっと横たえ、ドレスを掛けてやった。
「急げ。撤収だ」
振り向きざま、ホークは身体を回転させ、踵を大きく振り上げ――
ガッ! と男の顎を蹴りつけた。
「よせ!」
男が倒れる拍子に引き金を引いたせいでドカン! という音とともに天井に穴があいた。
パラパラと漆喰が降ってくる。
ホークは目の端で別の男がライフルの銃身を振り下ろすのを見た。
背中にガツン! と衝撃。
ホークは気を失った。
邸宅は風に揺れる木立に守られ、夜空を背に優雅な白い姿を浮かび上がらせている。
静かだった。木立の影のそこここに監視カメラと赤外線スコープ、そして十人以上の迷彩服の男たちが、交替で見張りについている。
マシンガンを肩に掛けて持ち場をパトロールする彼らは足音を立てない。
時折聞こえるのは耳元の無線から漏れる乾いた音声だけだ。
二階の寝室のブラインドの影から様子を見ていると、彼らの一人が声もなく膝からくず折れた。
監視カメラを避けるように、倒れた身体が植え込みの中に引きずりこまれる。
ほどなく黒いマスクと黒い服で全身を覆った人物が、見張りの男が着けていた無線マイクを自分の頭に装着した。
ホークはほぼ同時に同じことが、庭の反対側でも起こっているだろうと思った。
神経を瞬間的に麻痺させる薬を首筋に注射されれば、どんな屈強な男でも、空気の抜けた風船人形のようにぐにゃりと崩れ落ちるのだ。
建物の中は、よく効いた空調が海辺の湿気を取り去り快適だった。
ホークの寝室は吹き抜けの螺旋階段を昇った二階にある。
窓から離れたホークは大きなベッドに横向きに寝そべり、薄眼を開けていた。
部屋の中はテラコッタの床に置かれた薄暗い照明に照らされている。
傍らでは若いヒスパニック系の女が、艶やかな黒髪を羽根枕の上に広げて、気持ちよさそうな寝息を立てている。
ルイーザという名前だった。彼女の髪や肌からなじみ深い香りと体臭が漂っていた。
手を伸ばせばしっとりと滑らかな肌がそこにある。
どこに触れても弾力のあるみずみずしい果物のような感触の身体だった。
この組織に潜入している間、普通の人間社会の誠意や善意が全く通じない殺伐とした空気の中にいた。
ルイーザだけがホークの神経を戦闘態勢から解放してくれる存在だった。
もっとも彼女がどういう人間なのかよく知っているわけではない。
話をするよりも先に身体に触れあった。
確かな事は、彼女の身体に自分を預けている時だけは、『組織の殺し屋』ではない自分に戻っていたことだ。
閉じたブラインド越しに夜の帳は乱されることなく屋敷を覆っている。
もうこれ以上は耐えられない。
今ホークはようやくここから脱出できるという希望にすがっていた。
ここにいる間に見聞きしたこと、自分がやったことを全て消去したい。
ここ何日か今まで経験したことのない、胸苦しさを感じていた。
ふとした拍子にそれはやってくる。
意識が飛んだように目の前が見えなくなり、見たくない別の光景を見てしまう。
とたんにこめかみを冷たい汗が伝い落ちる。
ホークはギュッと目を閉じた。
意識を今に集中しないと息ができなくなる。
目を閉じたまま静かに呼吸を整え深呼吸した。
その時、密閉された邸内の空気がほんの少し振動したような気がした。
サイドテーブルのクラシックな置時計が、夜中の一時近いことを告げている。
間もなくだ。ホークは少しの間息を詰め、空気が動く気配を探った。
どこかでドン! と音がした。続いてドカドカと数人の重い足音が聞こえた。ドカン! と重い破裂音が続く。ショットガンだ。
――始まった。
そっと身を起こし、隣のルイーザを見る。まだすやすやと眠っている。
一瞬黒い睫毛に目を留めた。幼なさの残る愛らしい顔だ。
ガン! という音とともに寝室のドアが破られた。
強烈なサーチライトの光を浴びて、ホークは思わず顔を背けた。
「警察だ、動くな!」
三人の黒装束の男が夜間用スコープ越しに銃口で自分を狙っている。
赤いポインターが三つ自分の胸に当たっているのがわかった。
「両手を上げて立て」
ホークは両腕でライトを遮るようにして、ゆっくりベッドから立ち上がった。
「服を着たいんだが」下着以外何も身につけていなかった。
「さっさと着ろ」
一人が前に出て、至近距離でホークに狙いをつけた。
マスク越しなので誰だか分らない。わかったとしても、お互いまだ演技を続けた方がいい。
ホークは窓際の籐椅子の上に脱ぎ捨ててあったジーンズとTシャツに手を延ばした。
既に目を覚ましていたルイーザが、裸の胸の前に羽根枕を抱きしめている。
黒い大きな目が恐怖に見開かれ、ホークの動きを追っている。
「おまえもだ」男の一人がルイーザに銃を向けた。
指示を仰ぐようにルイーザの目がホークを見る。
服を着ろよ、と身ぶりで促した。心配するな。大丈夫だ……。
ルイーザのドレスは反対側の壁際のソファの上にあった。枕を抱いたまま彼女はドレスに手を延ばし、こちらを向いた時拳銃を持っていた。
「ルイーザ、やめろ!」
ホークの叫び声と銃声が殆ど同時に発せられた。枕の羽根が飛び散り、ルイーザの身体がドサッと床に倒れた。
ホークはベッドを跳び越えた。
「ルイーザ……」ゆらゆらと羽根が舞っている。枕に黒々と穴があいていた。ホークは力を失った身体を抱き起した。
目を閉じて、口は半ば開いたまま、ルイーザの頭が重くのしかかった。
流れ出した血が床を染め始めた。
「こっちへ来い」ルイーザを撃った男が言った。つんと鼻をつく火薬の匂い。
ホークは女の身体をそっと横たえ、ドレスを掛けてやった。
「急げ。撤収だ」
振り向きざま、ホークは身体を回転させ、踵を大きく振り上げ――
ガッ! と男の顎を蹴りつけた。
「よせ!」
男が倒れる拍子に引き金を引いたせいでドカン! という音とともに天井に穴があいた。
パラパラと漆喰が降ってくる。
ホークは目の端で別の男がライフルの銃身を振り下ろすのを見た。
背中にガツン! と衝撃。
ホークは気を失った。
応援ありがとうございます!
10
お気に入りに追加
90
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる