上 下
1 / 139

1 美少年のような捜査官が殺し屋に化けているって?

しおりを挟む
 金曜日、朝八時少し前。

 ワシントンの合同捜査局鑑識課長のトビアスは、上機嫌だった。

 カリブ海での週末が待っている。

 今日は残業をしない――誰もしない。

 オフィスのドアを開けた。

 一瞬息を呑んだ。空気の流れが堰き止められたようだった。

「トビアス、大至急でたのむ」立っていた男が言った。

 自分の顔がプラチナブロンドの髪よりも白くなったような気がした。

 おはようとか元気かいとかいう挨拶をこの男が発するのを聞いたことがない。

 よりによって組織犯罪対策課主任特別捜査官、トニー・リナルディだ。

「よく入れたな、僕のオフィスに」

「掃除のおばさんに入れてもらった」

 つまり、一時間以上前からここにいたっていうことか?

 イタリア系の浅黒い肌に黒い髪のトニーは、椅子はあるのに座って待つということさえしない。

 彼はたった今、どこかの突入現場から戻って来たばかりのような出で立ちだった。

 ショルダーホルスターの銃を身につけたままだ。

 光る刃物のような青い目がトビアスを見ている。

 たぶん一晩中どこかの現場にいて、まだ昨日の続きでトビアスのオフィスに立っていたのだろう。

 トニーはジッパー付きのビニール袋に入った何かの切れ端を差し出した。

「DNA鑑定を頼む」

 見ると血痕のようなものが付着している。

「誰の?」

 数日前に発見された死体の男、とトニーは言った。

「一致すれば、殺害された場所と犯人を特定できる。令状を取って、今日中に容疑者の逮捕に向かう」

 今日中?

「ちょっと待てよ、トニー。全米の支部からいったい何件の鑑定を頼まれていると思う?」

「そこを何とか。頼むよ」

「いやいや。知ってるだろう、物事には全て順序があるって」

「優先順位ってものもあるだろう」

「ほかを素っ飛ばせっていうのか」

「素っ飛ばしてくれ。これが一番だ」トニーが人差指でビニール袋をトンと叩いた。

 トビアスは一瞬返事をしなかった。

 普通なら、数珠つなぎで並んでいる鑑定依頼の一番あとになって、確実に来週になる。

 しかしここで来週に持ち越すようなことを言ったら、トニーに飛行機の中まで追ってこられかねない。

 言葉の綾ではなく本当にこの男はそこまでやる。

「五時くらいまでかかるけど、いいかな」トビアスはトニーの表情の変化を注視しながら訊いた。

 意外にも彼は微笑した。

「四時までにしてくれ。金曜だから判事が五時までしかつかまらない」

「でもなんでそんなに急ぐんだ? 令状が出ないかもしれないじゃないか」

「出してもらわないと困る。ホークが半年も潜入しているんだ。もう限界だ」

 ホーク、と聞いてトビアスは、金髪のハンサムな若い男を思い出した。トニーの部下、というか弟分だ。

「ああ、彼か。そういえばしばらく見ないと思ったよ」

 トニーは頷いた。

「絶対に今夜回収する。だから頼む」

「危ないのかい……その、正体がばれそうなのか?」

 トビアスは、デスクの上の小引き出しから、受け取った証拠品の預かり証を取り出して、ペンを走らせた。

「……いや。あいつに限ってばれるようなことはない」

「じゃあ、どうしたんだ」

「演技にのめりこみすぎて……というか、かなり……」

 トビアスは顔を上げた。

「何に化けているんだ?」

「殺し屋――麻薬カルテルの」

 ヒュウッ! トビアスの口笛が鳴った。

「殺し屋か。すげえや」

 トビアスが差し出した預かり証をトニーは手に取った。

「でもさ、彼の顔で殺し屋ってのは、ちょっと……」

 トビアスの目にはホークは優しげで、どちらかと言えば線の細い、美少年がそのまま大人になったような印象だった。

 トニーは軽くため息をついた。

「それが、すっかりなりきっているらしい」

「で、殺しをやっちまったのかい」

 トニーの青い目がきらりと光った。

「ああ」

「ほお……。それは、後始末もちょっとだな」

「これ以上続けると……」トニーはかったるそうに前髪を片手で掻き上げた。

「本当の殺し屋になっちまう。敵対組織からリクルートされそうになったというんだ」

「はあ、それはまた……」

 トニーは頷いた。

「それじゃおれたちはこれからひと眠りして、午後出直してくる」頼んだぜ、と言ってトニーは出て行った。

 トビアスは、いつもの白衣を羽織りながらパソコンを立ち上げた。

 優先順位一番で頼むために、あちらこちらにメールを送る必要があった。

 やれやれ。

 ここはアメリカ合衆国歳入庁に属する捜査機関で、あくまでも文民公務員組織だ。

 捜査の目的は、脱税の摘発。それに尽きる。

 捜査対象は民間企業、金融機関、公務員、個人・団体なんでもありだ。

 犯罪組織だろうとテロリストだろうと普通の市民であろうと、すべて網羅する。

 通常は、帳簿調べのような検査をやっている。

 しかし、脱税する資金が犯罪行為に絡む利益だったりすると――

 どこでどんな武装集団が関わっているかもしれない。

 捜査に当たる人間も、それ相応の戦闘能力が要求されるのだ。

 トニー・リナルディのチームは、組織犯罪対策課の戦闘部隊だ。

 メンバーは、軍歴やもと警察官などの経歴を持っている。

 トビアスが飛ばしたいくつかの“緊急マーク”付きEメールに返事が返って来た。

“なんでそれが優先なんだ?“
 
 トビアスは、少し考えて返事を出した。

“潜入捜査官の命が危ないからだ”

 こう書いた方がわかりやすい。

 あんな夜討ち朝駆けの生活を続けてよく体がもつものだ。

 今、時代は、ワーク・ライフ・バランスなのに。

 トニーの二番目の妻ナタリーは、陸軍病院に勤務するカウンセラーだが、自分の夫に対しては何もアドバイスしないのだろうか。

 そんなことを思い巡らせていると、デスクの電話が鳴り出した。

「トビアス・オルセンです」

 たった今出て行ったはずのトニーの声がした。

「トビアス、やっぱり三時半にしてくれ。判事の所で待たされるとやばい」
しおりを挟む
1 / 3

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

迷惑ですから追いかけてこないでください!

恋愛 / 完結 24h.ポイント:31,225pt お気に入り:1,336

女海賊ジェーンレーン

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:2

王太子に婚約破棄されましたが、幸せになりたいです!

恋愛 / 完結 24h.ポイント:71pt お気に入り:54

処理中です...