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第13章
107 ベルフェゴールの回想 ⑤ ♤ ⚠
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どれだけの時間が経ったか、やがて彼女の身体から力が抜け、水中に吸い込まれるように沈んだ。湯の中に長い黒髪が揺蕩い、ホラー映画めいた気色悪い光景が広がっている。
同時に俺も脱力し、浴槽に凭れかかるようにして座り込んだ。
少し息が切れた。
しかし、恩人を殺したというのに、何の感情も浮かんでこない。さっきの山のような悪意の残滓だけが、ぱらぱらと零れ落ちて行く。
俺は心の底であんなにもこの人を憎んでいたのか……。そちらの方に驚いていた。
気が付くと、風呂場の入り口にバエルさんが立っている。彼は浴槽の中に目を遣り、その後、俺を見下ろした。
「…………」
俺は何かを言おうとしたが、言葉が出てこない。
するとバエルさんは膝をつき、出し抜けに俺を抱き締めた。何が起こったのか理解できず、一瞬、呼吸が止まった。
「仁、すまない……」
バエルさんの口から謝罪の言葉が漏れる。
「……僕に覚悟がなかったばかりに、君の手を汚させることになってしまった……」
彼は俺の頬に顔を寄せ、ゆっくりと髪を撫でながら言った。
「よくやってくれたね。ありがとう……本当に、ありがとう……っ」
「……っ」
背筋がぞくりとし、眉間の辺りに甘く鈍い痺れが走る。
何とも言えない多幸感で満たされ、俺はバエルさんの胸に身体を預けた。
「……いえ。お役に立てて、よかった……」
発した声が掠れ、震えている。俺は思いのほか動揺していたようだ。
バエルさんの胸は仄あたたかく、ゆったりとした鼓動が伝わってくる。妻を殺されたというのに少しも動揺がない。それにより、彼は俺の行動を肯定してくれているのだと確信した。
「良いコだね、君は本当に良いコだ……」
バエルさんは俺を抱き締めたまま、何度も何度も頭を撫でてくれた。この数十秒の間に、俺は人生最良の時を味わった気がする。
やがて抱擁が解かれ、バエルさんは近くの棚からバスタオルを取って手渡してくれた。
「こんなに濡れてしまって……寒いだろう?」
「……大丈夫です。ありがとうございます……」
俺はそれを受け取り、手早く余計な水分を拭き取る。いつまでもこの場に留まっているわけにはいかない。すぐに移動の準備をしなければ。
その間、バエルさんは風呂場の中にあったものを片付けたり移動させたりしながら言った。
「僕はこれから救急車を要請する。そうしないと不自然だからね。まあ、この状態ならまず助からない……目立つ痣や傷も残っていないし、大丈夫さ。君は人目を避けて、まっすぐに家に帰っていてくれるかい? 落ち着いたらすぐに連絡するよ。うまくやるから心配しないでくれ」
「……はい。よろしくお願いします」
「――ああ、そうだ。仁、これを」
そのまま玄関へ向かおうとする俺の背に、バエルさんの声がかかる。彼は羽織っていたガウンを脱ぐと、こちらに差し出して来た。
このガウンはバエルさんが昔、海外の蚤の市で一目惚れして購入したものだ。オーバーサイズだが、着心地が良くて気に入っていると言っていた。
そんな大切なものを濡らすわけにはいかないと思い、断ろうとしたら、彼は「気にしなくていい。多分、君の方がぴったり着られるはずだ」と言って俺の肩に着せ掛けてくれた。
「うん、思った通り、僕より似合うね。これだけでは冷えるだろうけど、ないよりはマシだろう」
「ありがとうございます。お借りします……」
「くれぐれも気をつけて帰るんだよ。そして、今夜はゆっくり休んで」
「はい、バエルさんも、お気をつけて……」
夜道をひた走る俺の胸に後悔はない。あの人の役に立てた喜びと、憑き物が落ちたような解放感に満たされていたからだ。
ガウンの生地からバエルさんの体温が伝わってくるのがわかり、身体の最奥が熱を帯びるのを感じた。この時、自分がバエルさんに向ける感情は、単なる“親愛の情”に留まらないのではないかと思った。
一時期、バエルさんの関心があのガキや娘に向いて、俺は忘れられてしまったんじゃないかと不安を覚えることがあった。バエルさんが喜んでくれるだけで充分だから、見返りを求めていたわけじゃない。ただ、世界一慕っている人の目に自分が映らないことが寂しかった。
我ながら、発想が幼過ぎて呆れ果てる……。多分、俺の精神年齢は中学生くらいのまま成長していないんだろう。
でも、バエルさんが俺を頼りにしてくれていることがわかって、報われた気がした。こんなしょうもない人間でも、誰かの役に立つことができる。それも、“最愛の父”の大願に貢献できる――これ以上の幸せがあるだろうか。
この日を機に、俺はある誓いを立てた。
フィンブルヴェトが軌道に乗ったら本業を辞め、生涯を賭けてバエルさんと組織を支える。俺の命はそのためにあるのだから――。
同時に俺も脱力し、浴槽に凭れかかるようにして座り込んだ。
少し息が切れた。
しかし、恩人を殺したというのに、何の感情も浮かんでこない。さっきの山のような悪意の残滓だけが、ぱらぱらと零れ落ちて行く。
俺は心の底であんなにもこの人を憎んでいたのか……。そちらの方に驚いていた。
気が付くと、風呂場の入り口にバエルさんが立っている。彼は浴槽の中に目を遣り、その後、俺を見下ろした。
「…………」
俺は何かを言おうとしたが、言葉が出てこない。
するとバエルさんは膝をつき、出し抜けに俺を抱き締めた。何が起こったのか理解できず、一瞬、呼吸が止まった。
「仁、すまない……」
バエルさんの口から謝罪の言葉が漏れる。
「……僕に覚悟がなかったばかりに、君の手を汚させることになってしまった……」
彼は俺の頬に顔を寄せ、ゆっくりと髪を撫でながら言った。
「よくやってくれたね。ありがとう……本当に、ありがとう……っ」
「……っ」
背筋がぞくりとし、眉間の辺りに甘く鈍い痺れが走る。
何とも言えない多幸感で満たされ、俺はバエルさんの胸に身体を預けた。
「……いえ。お役に立てて、よかった……」
発した声が掠れ、震えている。俺は思いのほか動揺していたようだ。
バエルさんの胸は仄あたたかく、ゆったりとした鼓動が伝わってくる。妻を殺されたというのに少しも動揺がない。それにより、彼は俺の行動を肯定してくれているのだと確信した。
「良いコだね、君は本当に良いコだ……」
バエルさんは俺を抱き締めたまま、何度も何度も頭を撫でてくれた。この数十秒の間に、俺は人生最良の時を味わった気がする。
やがて抱擁が解かれ、バエルさんは近くの棚からバスタオルを取って手渡してくれた。
「こんなに濡れてしまって……寒いだろう?」
「……大丈夫です。ありがとうございます……」
俺はそれを受け取り、手早く余計な水分を拭き取る。いつまでもこの場に留まっているわけにはいかない。すぐに移動の準備をしなければ。
その間、バエルさんは風呂場の中にあったものを片付けたり移動させたりしながら言った。
「僕はこれから救急車を要請する。そうしないと不自然だからね。まあ、この状態ならまず助からない……目立つ痣や傷も残っていないし、大丈夫さ。君は人目を避けて、まっすぐに家に帰っていてくれるかい? 落ち着いたらすぐに連絡するよ。うまくやるから心配しないでくれ」
「……はい。よろしくお願いします」
「――ああ、そうだ。仁、これを」
そのまま玄関へ向かおうとする俺の背に、バエルさんの声がかかる。彼は羽織っていたガウンを脱ぐと、こちらに差し出して来た。
このガウンはバエルさんが昔、海外の蚤の市で一目惚れして購入したものだ。オーバーサイズだが、着心地が良くて気に入っていると言っていた。
そんな大切なものを濡らすわけにはいかないと思い、断ろうとしたら、彼は「気にしなくていい。多分、君の方がぴったり着られるはずだ」と言って俺の肩に着せ掛けてくれた。
「うん、思った通り、僕より似合うね。これだけでは冷えるだろうけど、ないよりはマシだろう」
「ありがとうございます。お借りします……」
「くれぐれも気をつけて帰るんだよ。そして、今夜はゆっくり休んで」
「はい、バエルさんも、お気をつけて……」
夜道をひた走る俺の胸に後悔はない。あの人の役に立てた喜びと、憑き物が落ちたような解放感に満たされていたからだ。
ガウンの生地からバエルさんの体温が伝わってくるのがわかり、身体の最奥が熱を帯びるのを感じた。この時、自分がバエルさんに向ける感情は、単なる“親愛の情”に留まらないのではないかと思った。
一時期、バエルさんの関心があのガキや娘に向いて、俺は忘れられてしまったんじゃないかと不安を覚えることがあった。バエルさんが喜んでくれるだけで充分だから、見返りを求めていたわけじゃない。ただ、世界一慕っている人の目に自分が映らないことが寂しかった。
我ながら、発想が幼過ぎて呆れ果てる……。多分、俺の精神年齢は中学生くらいのまま成長していないんだろう。
でも、バエルさんが俺を頼りにしてくれていることがわかって、報われた気がした。こんなしょうもない人間でも、誰かの役に立つことができる。それも、“最愛の父”の大願に貢献できる――これ以上の幸せがあるだろうか。
この日を機に、俺はある誓いを立てた。
フィンブルヴェトが軌道に乗ったら本業を辞め、生涯を賭けてバエルさんと組織を支える。俺の命はそのためにあるのだから――。
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