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第12章
98 バエル
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私と凌遅は無言で2階のレストランに向かう。こちらは大した段数もないのに、ひどく足が重く感じる。
階段を上り切ると大きな開口部があり、奧には解放感のある空間が広がっていた。うっすらと埃をかぶっているがテーブルや椅子はすべて残っていて、少し掃除をすればすぐにでも営業できそうな状態だ。どこかの窓が開いているようで、風が通り抜ける。
視界の端に動くものがあった。目を向けると、逆光の中に人影が見えた。
そこにいたのは予想外の人物だった。顔面を這う大きな熱傷痕と猫背が特徴的なその人は、処刑人・ラックだ。
「これはこれは、よく来てくださいましたね、お二人とも。さあ、こちらへどうぞ」
掠れた声が響く。
何故、ここに……。まさか、彼が……?
棒立ちになる私に凌遅が言った。
「行こう。今日は対話に来たんだ。出し抜けに刺されはしないだろう」
「そう、ですね……うん、そうだ……」
自分を納得させるように、私は何度もうなずいた。
まだ、何もわからない。副代表の時と同様、ラックはただの付き添いで、奧に叔父が控えているのかも知れない。
構わず進む凌遅についてどうにか足を踏み出し、ホールの中央部へ向かう。ラックが立っていたのは、かつて私達家族が座った6人掛けの席の前だった。テーブルの上には小型のクーラーボックス、足元には大きめの紙袋が無造作に置かれていて、他に人の気配はない。
どういうことだ。これは叔父が登場するまでの繋ぎなのだろうか。そうでなければ、この男が“この席”を知っている理由に説明が付かない。
それとも、熱傷痕でわからなくなっているだけで、彼が一緒叔父なのか……。いや、顎のラインや目鼻の位置、頭髪の質からして別人だ。
混乱が加速する中、ラックはのんびりとした動作で私達に席を勧める。この周辺だけ清掃がなされており、埃は溜まっていない。
仕方なく椅子を引き、以前、自分が座った真ん中の席に腰を下ろす。凌遅は私の左側――母が座っていた席に、ラックは私の真向かいの席に腰掛けた。そこは家族の誰も座っていなかった席だ。
全員が着席した時、ラックがおもむろに口を開く。
「本日は遠方にもかかわらずご足労いただきまして、ありがとうございます。道中、暑かったでしょう? クーラーボックスに飲み物を用意しているので、ご自由にどうぞ」
「…………」
当然ながら、誰もその場を動かない。そっと隣を見ると、凌遅は普段と変わらない表情で相手の出方を窺っているようだった。
「さて、と――」
少しして、ラックが切り出した。
「――それで、お二人はどこまで辿り着いておられるのですか?」
私の胸が高鳴る。しかし戸惑いが大き過ぎて分析が追い付かない。
「よろしければ、進捗状況についてお聞かせ願いたいのですが」
「不毛ですね」
凌遅が口を開いた。
「こんな猛暑日に長距離移動を強いられて、我々は疲れています。あまり勿体ぶらず、話を進めてくれませんか」
彼が丁寧語を使うところを初めて見た。凌遅は年齢や肩書に関わらず、誰に対しても同じ口調で話していたから、その異様な光景が私の不安を掻き立てる。
「……それに、その悪声は聞くに堪えないのでね」
彼が鼻を鳴らすと、ラックはにたりと嗤った。
「そうですか……もうしばらく遊んでみたかったのですが、まあ良いでしょう。確かに、この格好は暑いですから……」
ラックが首の後ろに手を振れると同時に、耳慣れた声が私の鼓膜を震わせた。
「少し見ないうちに、また好い顔になったね、椋」
「……っ!?」
なんだ、これは……。耳がジンジンと痺れ始める。
聞き間違うものか。
これは、この声は――。
「なんで……だって、あなたは……」
私は、自分が激しく動揺しているのがわかった。
この男――ラックは、画面越しとは言え、私と凌遅の目の前でヴィネを辱め、惨殺した新人処刑人だったはず。
それが何故、父と同じ声、同じ口調で喋るのだ。
「驚いたかい? そうだろうね。この姿をしている間、会員達は誰も僕だと気付かなかった。予め目的を共有していた一部の人間以外は、誰もね」
目の前の人物は朗らかな笑いを含んだ声を発しながら、首の下――鎖骨の辺りに指をかける。そのまま引き上げると、下からは見知った顔が現れた。
それはまごうかたなき、私の父・伊関 顕だった。
「良くできているだろう? オーダーメイドの特殊マスクだ。任意でスイッチを切り替えられる変声機も内蔵されている。すっかり騙されてくれて嬉しいよ。金と手間をかけた甲斐があった」
言いながら、彼はマスクを紙袋の中に放った。
「なに、これ……どういうこと……」
私はまだ状況を理解しきれていなかった。眼前にいるのは確かに父に違いないのだが、よく似た偽物が話しているとしか思えない。だって、父は……。
「……うん。さすがに、すぐ受け入れるのは難しいか」
彼はにこりと笑むと、有り得べからざる発言をした。
「まさかLR×Dの代表であるこの僕が、新人処刑人に紛れ込んでいるなんて思いもしなかったろう?」
何だ。何か、聞こえた。
何と言われた?
「……いま……今、なんて……」
父に似た男は、物柔らかな表情で答える。
「だからね、お前がずっと会いたがっていたバエルは、僕なんだよ。バーデン・バーデンの処女」
全身がガクガクと音を立てて震えるのがわかった。
そんな馬鹿な。
バエルは、あいつは……。
あまりの衝撃と混乱で、私の思考は一時、完全に停止した。
「――実にあなたらしい悪ふざけだ」
凌遅が不敵な笑みを浮かべる。
「夜会の時のパフォーマンスは、布石ということですね」
「その通りです、凌遅くん」
バエルは楽しそうに語り始めた。
「あれほど僕に心酔しているベルフェゴールも、目端が利く情報通のベリトも、こんな展開は予想していなかったんだろうね。長いことアシスタントを務めていたヴィネも、あの場でネタバラシをするまで気付かなかった――」
「……っ!」
その言葉で、私ははっと我に返る。とどめを刺される直前、ぼろぼろと大粒の涙を零し、嗚咽していたヴィネの姿が浮かんだ。
ショックの波が引くと共に激しい怒りが込み上げ、こめかみの血管が脈打つのを感じる。
「――だけど、君は……早い段階で感付いていたんじゃありませんか? 凌遅くん」
バエルの視線の先で凌遅は片笑み、軽く首を傾げて見せた。
「ふふ、やっぱり。君は昔から一筋縄では行かないものね。でも、わざわざ公にするようなつまらない真似はしないだろうと思って、心配はしていませんでしたよ」
ここで私の脳裏に、ヴィネが殺害された時の凌遅の台詞が浮かんだ。
“おそらく、その時に見るべきでないデータを見た。それがベルフェゴールにバレ、間接的に口を塞がれた。あるいは……”
あの台詞の後には、“ラックがバエルなのかもな”という文言が続くはずだったのだろう。
知らねばならないこと、知りたくないことが溢れ返り、頭がどうにかなりそうだ。
私は何度も小さな深呼吸を繰り返し、必死に感情と思考を整理する。
“彼”がバエルだと言うことはわかった。本人が素顔を晒してそう言うのだから、受け入れざるを得ない。
何故こんな組織の代表を務めているのかすぐにでも問い詰めたいが、それは後だ。
まずは、何のために実在しない処刑人に扮して、こそこそ立ち回る必要があったのかを確かめる……話はそこからだ。
階段を上り切ると大きな開口部があり、奧には解放感のある空間が広がっていた。うっすらと埃をかぶっているがテーブルや椅子はすべて残っていて、少し掃除をすればすぐにでも営業できそうな状態だ。どこかの窓が開いているようで、風が通り抜ける。
視界の端に動くものがあった。目を向けると、逆光の中に人影が見えた。
そこにいたのは予想外の人物だった。顔面を這う大きな熱傷痕と猫背が特徴的なその人は、処刑人・ラックだ。
「これはこれは、よく来てくださいましたね、お二人とも。さあ、こちらへどうぞ」
掠れた声が響く。
何故、ここに……。まさか、彼が……?
棒立ちになる私に凌遅が言った。
「行こう。今日は対話に来たんだ。出し抜けに刺されはしないだろう」
「そう、ですね……うん、そうだ……」
自分を納得させるように、私は何度もうなずいた。
まだ、何もわからない。副代表の時と同様、ラックはただの付き添いで、奧に叔父が控えているのかも知れない。
構わず進む凌遅についてどうにか足を踏み出し、ホールの中央部へ向かう。ラックが立っていたのは、かつて私達家族が座った6人掛けの席の前だった。テーブルの上には小型のクーラーボックス、足元には大きめの紙袋が無造作に置かれていて、他に人の気配はない。
どういうことだ。これは叔父が登場するまでの繋ぎなのだろうか。そうでなければ、この男が“この席”を知っている理由に説明が付かない。
それとも、熱傷痕でわからなくなっているだけで、彼が一緒叔父なのか……。いや、顎のラインや目鼻の位置、頭髪の質からして別人だ。
混乱が加速する中、ラックはのんびりとした動作で私達に席を勧める。この周辺だけ清掃がなされており、埃は溜まっていない。
仕方なく椅子を引き、以前、自分が座った真ん中の席に腰を下ろす。凌遅は私の左側――母が座っていた席に、ラックは私の真向かいの席に腰掛けた。そこは家族の誰も座っていなかった席だ。
全員が着席した時、ラックがおもむろに口を開く。
「本日は遠方にもかかわらずご足労いただきまして、ありがとうございます。道中、暑かったでしょう? クーラーボックスに飲み物を用意しているので、ご自由にどうぞ」
「…………」
当然ながら、誰もその場を動かない。そっと隣を見ると、凌遅は普段と変わらない表情で相手の出方を窺っているようだった。
「さて、と――」
少しして、ラックが切り出した。
「――それで、お二人はどこまで辿り着いておられるのですか?」
私の胸が高鳴る。しかし戸惑いが大き過ぎて分析が追い付かない。
「よろしければ、進捗状況についてお聞かせ願いたいのですが」
「不毛ですね」
凌遅が口を開いた。
「こんな猛暑日に長距離移動を強いられて、我々は疲れています。あまり勿体ぶらず、話を進めてくれませんか」
彼が丁寧語を使うところを初めて見た。凌遅は年齢や肩書に関わらず、誰に対しても同じ口調で話していたから、その異様な光景が私の不安を掻き立てる。
「……それに、その悪声は聞くに堪えないのでね」
彼が鼻を鳴らすと、ラックはにたりと嗤った。
「そうですか……もうしばらく遊んでみたかったのですが、まあ良いでしょう。確かに、この格好は暑いですから……」
ラックが首の後ろに手を振れると同時に、耳慣れた声が私の鼓膜を震わせた。
「少し見ないうちに、また好い顔になったね、椋」
「……っ!?」
なんだ、これは……。耳がジンジンと痺れ始める。
聞き間違うものか。
これは、この声は――。
「なんで……だって、あなたは……」
私は、自分が激しく動揺しているのがわかった。
この男――ラックは、画面越しとは言え、私と凌遅の目の前でヴィネを辱め、惨殺した新人処刑人だったはず。
それが何故、父と同じ声、同じ口調で喋るのだ。
「驚いたかい? そうだろうね。この姿をしている間、会員達は誰も僕だと気付かなかった。予め目的を共有していた一部の人間以外は、誰もね」
目の前の人物は朗らかな笑いを含んだ声を発しながら、首の下――鎖骨の辺りに指をかける。そのまま引き上げると、下からは見知った顔が現れた。
それはまごうかたなき、私の父・伊関 顕だった。
「良くできているだろう? オーダーメイドの特殊マスクだ。任意でスイッチを切り替えられる変声機も内蔵されている。すっかり騙されてくれて嬉しいよ。金と手間をかけた甲斐があった」
言いながら、彼はマスクを紙袋の中に放った。
「なに、これ……どういうこと……」
私はまだ状況を理解しきれていなかった。眼前にいるのは確かに父に違いないのだが、よく似た偽物が話しているとしか思えない。だって、父は……。
「……うん。さすがに、すぐ受け入れるのは難しいか」
彼はにこりと笑むと、有り得べからざる発言をした。
「まさかLR×Dの代表であるこの僕が、新人処刑人に紛れ込んでいるなんて思いもしなかったろう?」
何だ。何か、聞こえた。
何と言われた?
「……いま……今、なんて……」
父に似た男は、物柔らかな表情で答える。
「だからね、お前がずっと会いたがっていたバエルは、僕なんだよ。バーデン・バーデンの処女」
全身がガクガクと音を立てて震えるのがわかった。
そんな馬鹿な。
バエルは、あいつは……。
あまりの衝撃と混乱で、私の思考は一時、完全に停止した。
「――実にあなたらしい悪ふざけだ」
凌遅が不敵な笑みを浮かべる。
「夜会の時のパフォーマンスは、布石ということですね」
「その通りです、凌遅くん」
バエルは楽しそうに語り始めた。
「あれほど僕に心酔しているベルフェゴールも、目端が利く情報通のベリトも、こんな展開は予想していなかったんだろうね。長いことアシスタントを務めていたヴィネも、あの場でネタバラシをするまで気付かなかった――」
「……っ!」
その言葉で、私ははっと我に返る。とどめを刺される直前、ぼろぼろと大粒の涙を零し、嗚咽していたヴィネの姿が浮かんだ。
ショックの波が引くと共に激しい怒りが込み上げ、こめかみの血管が脈打つのを感じる。
「――だけど、君は……早い段階で感付いていたんじゃありませんか? 凌遅くん」
バエルの視線の先で凌遅は片笑み、軽く首を傾げて見せた。
「ふふ、やっぱり。君は昔から一筋縄では行かないものね。でも、わざわざ公にするようなつまらない真似はしないだろうと思って、心配はしていませんでしたよ」
ここで私の脳裏に、ヴィネが殺害された時の凌遅の台詞が浮かんだ。
“おそらく、その時に見るべきでないデータを見た。それがベルフェゴールにバレ、間接的に口を塞がれた。あるいは……”
あの台詞の後には、“ラックがバエルなのかもな”という文言が続くはずだったのだろう。
知らねばならないこと、知りたくないことが溢れ返り、頭がどうにかなりそうだ。
私は何度も小さな深呼吸を繰り返し、必死に感情と思考を整理する。
“彼”がバエルだと言うことはわかった。本人が素顔を晒してそう言うのだから、受け入れざるを得ない。
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