105 / 151
第12章
95 現在為すべきことを為せ
しおりを挟む
午前5時7分。自然と目が覚めた。昨日はほとんど眠れなかったのに驚くほど頭が冴え、神経が研ぎ澄まされて、自分が戦闘モードに入っているのがわかる。
約束は午前10時だから、時間には十分余裕がある。しかし、のんびりくつろぐ気になどなれない。
じっとしていられず、私は部屋の片付けをし始めた。テーブルを拭いたり、本棚の本を揃えたり、床を掃いたりと、目に付いたところを綺麗にしていく。
「早いな、バーデン・バーデンの処女」
なるべく音を立てないようにしていたのだが、程なくして凌遅に声を掛けられた。
「すみません、起こしてしまいましたか」
私が詫びると、彼は首を横に振る。
「いや。だいぶ前から起きていた。何となく落ち着かなくてな」
いつも冷静な凌遅がそんなことを言うのが意外だった。それだけ緊張を強いられる状況なのだと思い知らされた気がする。そう言えば、昨夜も誰かと話している声がしていた。“仕上げ”とやらに関係があるのだろうか。
彼は顔を洗いに行ったついでにシャワーを浴びていた。ここで暮らし始めた当初は、トイレに行く時でさえ、いちいち私を拘束していたんだったなと思い、妙に可笑しくなった。
同時に、この部屋で過ごした日々の記憶が流れ込んできた。悲しいことや辛いことの方が多かったが、楽しかった思い出も蘇ってくる。懐かしい絵本を読んだり、ヴィネが笑顔で訪ねてきたり、数々の美味しいものを食べたり、快適なバスルームでリラックスしたり……。
もし今日の対面で私がLR×Dを去ることになったら、この部屋に帰って来ることはもうないのだと思うと、センチメンタルな気分になる。
だが本来、私の居場所はここではない。バエルと決着を付けて、自分の日常に帰らねばならない。今日はその門出の日なのだ。
我ながら、思考が年寄り染みているな……。前々からそういう傾向はあったが、LR×Dや凌遅と接するうちに顕著になった気がする。これで“平凡な女子高生”に戻れるのだろうか。
落ち着いた頃、ダイニングで朝食を摂る。昨日の夕方、ベリトが食事を届けてくれた際、明日は私用で訪問できないからと言ってまとめて置いて行ったものだ。
包みを開けてみるといくつかの容器が入っており、一番上に目立つ箱が乗っていた。中身は可愛らしいカップケーキだ。
砂糖菓子の飾りに、“Happy 17th birthday Ryo!”と書かれている。
そうだ。今日は私の誕生日だったな。ストレスを抱えていることもあり、こういった気遣いはありがたい。早速、口に運ぶと、適度な甘さで心が解れる気がした。
と、不意に紅茶のカップが置かれた。いつの間にかシャワーを終えていた凌遅が淹れてくれたアッサムティーだ。
「前、君が話していた茶葉にした。マドレーヌ以外にも合うだろう」
「ありがとうございます」
彼らしいハイクオリティの紅茶はコクと味わいが深く、カップケーキにもよく合った。
美味しい食事のおかげで少し元気が出た。食器を洗い、再び掃除をしていたところ、
「そろそろ準備を始めてくれるか」
凌遅が夜会の時と同じ台詞を言った。気付けば時間が迫っていたので、私は身支度に取り掛かる。
昨日、購入したブラックフォーマルを着用し、ピンをジャケットの前立てに挟む。ポケットには、携帯端末と凌遅がくれたカードを忍ばせた。右手中指にはヴィネとお揃いの猫耳リングが嵌まっている。
こうしてみるとお守りだらけで、自分が如何に不安なのか思い知らされる。だが、心強くはある。ともあれ、これで準備は完璧だ。
凌遅は普段と変わらぬシンプルな街着を着ていた。腰には千切れたベルトを似寄りの革で修理したシザーケースを帯び、道具袋を携えている。やはりこの姿が一番彼らしい。
身支度を終えた私を見た凌遅は、何も言わず数秒間こちらを凝視した。
「あの、どうかしましたか」
思わず問うが、彼は軽く首を振り、「いや……ただ少し、感慨深くてな」と返すだけで、理由は教えてくれなかった。
二人で車に乗り込み、指定された場所へ向かう。外は尋常ではない暑さだ。エアコンの利きが悪く、身体を伝う汗が神経を波立たせる。
「今日もアウトドアだと思えばいい」
身を固くする私に、運転席の凌遅が言う。
「しかも、長らく君を悩ませてきた問題が解決するというおまけ付きだ。気楽に行きな」
「だと、いいんですけど……」
これから、ついにバエルと会う。訊きたいことは山とある。彼が私を前にどんな理由を述べるのか……考えるだけで無性に恐ろしく、哀しくなってくる。
「“将来を思い煩うな。現在為すべきことを為せ。その他は神の考えることだ”」
凌遅はアミエルを引用し、ラジオのスイッチを入れた。夏らしい情報がいくつも紹介される。今日は各地で花火大会が開かれるが、熱中症にも要警戒だそうだ。平和なニュースが、私から現実感を失わせる。
大丈夫、大丈夫。
私は母の言葉を反芻し、前を見る。
約束は午前10時だから、時間には十分余裕がある。しかし、のんびりくつろぐ気になどなれない。
じっとしていられず、私は部屋の片付けをし始めた。テーブルを拭いたり、本棚の本を揃えたり、床を掃いたりと、目に付いたところを綺麗にしていく。
「早いな、バーデン・バーデンの処女」
なるべく音を立てないようにしていたのだが、程なくして凌遅に声を掛けられた。
「すみません、起こしてしまいましたか」
私が詫びると、彼は首を横に振る。
「いや。だいぶ前から起きていた。何となく落ち着かなくてな」
いつも冷静な凌遅がそんなことを言うのが意外だった。それだけ緊張を強いられる状況なのだと思い知らされた気がする。そう言えば、昨夜も誰かと話している声がしていた。“仕上げ”とやらに関係があるのだろうか。
彼は顔を洗いに行ったついでにシャワーを浴びていた。ここで暮らし始めた当初は、トイレに行く時でさえ、いちいち私を拘束していたんだったなと思い、妙に可笑しくなった。
同時に、この部屋で過ごした日々の記憶が流れ込んできた。悲しいことや辛いことの方が多かったが、楽しかった思い出も蘇ってくる。懐かしい絵本を読んだり、ヴィネが笑顔で訪ねてきたり、数々の美味しいものを食べたり、快適なバスルームでリラックスしたり……。
もし今日の対面で私がLR×Dを去ることになったら、この部屋に帰って来ることはもうないのだと思うと、センチメンタルな気分になる。
だが本来、私の居場所はここではない。バエルと決着を付けて、自分の日常に帰らねばならない。今日はその門出の日なのだ。
我ながら、思考が年寄り染みているな……。前々からそういう傾向はあったが、LR×Dや凌遅と接するうちに顕著になった気がする。これで“平凡な女子高生”に戻れるのだろうか。
落ち着いた頃、ダイニングで朝食を摂る。昨日の夕方、ベリトが食事を届けてくれた際、明日は私用で訪問できないからと言ってまとめて置いて行ったものだ。
包みを開けてみるといくつかの容器が入っており、一番上に目立つ箱が乗っていた。中身は可愛らしいカップケーキだ。
砂糖菓子の飾りに、“Happy 17th birthday Ryo!”と書かれている。
そうだ。今日は私の誕生日だったな。ストレスを抱えていることもあり、こういった気遣いはありがたい。早速、口に運ぶと、適度な甘さで心が解れる気がした。
と、不意に紅茶のカップが置かれた。いつの間にかシャワーを終えていた凌遅が淹れてくれたアッサムティーだ。
「前、君が話していた茶葉にした。マドレーヌ以外にも合うだろう」
「ありがとうございます」
彼らしいハイクオリティの紅茶はコクと味わいが深く、カップケーキにもよく合った。
美味しい食事のおかげで少し元気が出た。食器を洗い、再び掃除をしていたところ、
「そろそろ準備を始めてくれるか」
凌遅が夜会の時と同じ台詞を言った。気付けば時間が迫っていたので、私は身支度に取り掛かる。
昨日、購入したブラックフォーマルを着用し、ピンをジャケットの前立てに挟む。ポケットには、携帯端末と凌遅がくれたカードを忍ばせた。右手中指にはヴィネとお揃いの猫耳リングが嵌まっている。
こうしてみるとお守りだらけで、自分が如何に不安なのか思い知らされる。だが、心強くはある。ともあれ、これで準備は完璧だ。
凌遅は普段と変わらぬシンプルな街着を着ていた。腰には千切れたベルトを似寄りの革で修理したシザーケースを帯び、道具袋を携えている。やはりこの姿が一番彼らしい。
身支度を終えた私を見た凌遅は、何も言わず数秒間こちらを凝視した。
「あの、どうかしましたか」
思わず問うが、彼は軽く首を振り、「いや……ただ少し、感慨深くてな」と返すだけで、理由は教えてくれなかった。
二人で車に乗り込み、指定された場所へ向かう。外は尋常ではない暑さだ。エアコンの利きが悪く、身体を伝う汗が神経を波立たせる。
「今日もアウトドアだと思えばいい」
身を固くする私に、運転席の凌遅が言う。
「しかも、長らく君を悩ませてきた問題が解決するというおまけ付きだ。気楽に行きな」
「だと、いいんですけど……」
これから、ついにバエルと会う。訊きたいことは山とある。彼が私を前にどんな理由を述べるのか……考えるだけで無性に恐ろしく、哀しくなってくる。
「“将来を思い煩うな。現在為すべきことを為せ。その他は神の考えることだ”」
凌遅はアミエルを引用し、ラジオのスイッチを入れた。夏らしい情報がいくつも紹介される。今日は各地で花火大会が開かれるが、熱中症にも要警戒だそうだ。平和なニュースが、私から現実感を失わせる。
大丈夫、大丈夫。
私は母の言葉を反芻し、前を見る。
6
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
日本新世紀ー日本の変革から星間連合の中の地球へー
黄昏人
SF
現在の日本、ある地方大学の大学院生のPCが化けた!
あらゆる質問に出してくるとんでもなくスマートで完璧な答え。この化けたPC“マドンナ”を使って、彼、誠司は核融合発電、超バッテリーとモーターによるあらゆるエンジンの電動化への変換、重力エンジン・レールガンの開発・実用化などを通じて日本の経済・政治状況及び国際的な立場を変革していく。
さらに、こうしたさまざまな変革を通じて、日本が主導する地球防衛軍は、巨大な星間帝国の侵略を跳ね返すことに成功する。その結果、地球人類はその星間帝国の圧政にあえいでいた多数の歴史ある星間国家の指導的立場になっていくことになる。
この中で、自らの進化の必要性を悟った人類は、地球連邦を成立させ、知能の向上、他星系への植民を含む地球人類全体の経済の底上げと格差の是正を進める。
さらには、マドンナと誠司を擁する地球連邦は、銀河全体の生物に迫る危機の解明、撃退法の構築、撃退を主導し、銀河のなかに確固たる地位を築いていくことになる。
学園のアイドルに、俺の部屋のギャル地縛霊がちょっかいを出すから話がややこしくなる。
たかなしポン太
青春
【第1回ノベルピアWEB小説コンテスト中間選考通過作品】
『み、見えるの?』
「見えるかと言われると……ギリ見えない……」
『ふぇっ? ちょっ、ちょっと! どこ見てんのよ!』
◆◆◆
仏教系学園の高校に通う霊能者、尚也。
劣悪な環境での寮生活を1年間終えたあと、2年生から念願のアパート暮らしを始めることになった。
ところが入居予定のアパートの部屋に行ってみると……そこにはセーラー服を着たギャル地縛霊、りんが住み着いていた。
後悔の念が強すぎて、この世に魂が残ってしまったりん。
尚也はそんなりんを無事に成仏させるため、りんと共同生活をすることを決意する。
また新学期の学校では、尚也は学園のアイドルこと花宮琴葉と同じクラスで席も近くなった。
尚也は1年生の時、たまたま琴葉が困っていた時に助けてあげたことがあるのだが……
霊能者の尚也、ギャル地縛霊のりん、学園のアイドル琴葉。
3人とその仲間たちが繰り広げる、ちょっと不思議な日常。
愉快で甘くて、ちょっと切ない、ライトファンタジーなラブコメディー!
※本作品はフィクションであり、実在の人物や団体、製品とは一切関係ありません。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる