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第12章

95 現在為すべきことを為せ

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 午前5時7分。自然と目が覚めた。昨日はほとんど眠れなかったのに驚くほど頭が冴え、神経が研ぎ澄まされて、自分が戦闘モードに入っているのがわかる。

 約束は午前10時だから、時間には十分余裕がある。しかし、のんびりくつろぐ気になどなれない。
 じっとしていられず、私は部屋の片付けをし始めた。テーブルを拭いたり、本棚の本を揃えたり、床を掃いたりと、目に付いたところを綺麗にしていく。

「早いな、バーデン・バーデンの処女」

 なるべく音を立てないようにしていたのだが、程なくして凌遅に声を掛けられた。

「すみません、起こしてしまいましたか」

 私が詫びると、彼は首を横に振る。

「いや。だいぶ前から起きていた。何となく落ち着かなくてな」

 いつも冷静な凌遅がそんなことを言うのが意外だった。それだけ緊張を強いられる状況なのだと思い知らされた気がする。そう言えば、昨夜も誰かと話している声がしていた。“仕上げ”とやらに関係があるのだろうか。

 彼は顔を洗いに行ったついでにシャワーを浴びていた。ここで暮らし始めた当初は、トイレに行く時でさえ、いちいち私を拘束していたんだったなと思い、妙に可笑しくなった。
 同時に、この部屋で過ごした日々の記憶が流れ込んできた。悲しいことや辛いことの方が多かったが、楽しかった思い出も蘇ってくる。懐かしい絵本を読んだり、ヴィネが笑顔で訪ねてきたり、数々の美味しいものを食べたり、快適なバスルームでリラックスしたり……。
 もし今日の対面で私がLR×Dを去ることになったら、この部屋に帰って来ることはもうないのだと思うと、センチメンタルな気分になる。

 だが本来、私の居場所はここではない。バエルと決着を付けて、自分の日常に帰らねばならない。今日はその門出の日なのだ。
 我ながら、思考が年寄り染みているな……。前々からそういう傾向はあったが、LR×Dや凌遅と接するうちに顕著になった気がする。これで“平凡な女子高生”に戻れるのだろうか。

 落ち着いた頃、ダイニングで朝食を摂る。昨日の夕方、ベリトが食事を届けてくれた際、明日は私用で訪問できないからと言ってまとめて置いて行ったものだ。
 包みを開けてみるといくつかの容器が入っており、一番上に目立つ箱が乗っていた。中身は可愛らしいカップケーキだ。
 砂糖菓子の飾りに、“Happy 17th birthday Ryo!”と書かれている。

 そうだ。今日は私の誕生日だったな。ストレスを抱えていることもあり、こういった気遣いはありがたい。早速、口に運ぶと、適度な甘さで心が解れる気がした。

 と、不意に紅茶のカップが置かれた。いつの間にかシャワーを終えていた凌遅が淹れてくれたアッサムティーだ。

「前、君が話していた茶葉にした。マドレーヌ以外にも合うだろう」

「ありがとうございます」
 
 彼らしいハイクオリティの紅茶はコクと味わいが深く、カップケーキにもよく合った。

 美味しい食事のおかげで少し元気が出た。食器を洗い、再び掃除をしていたところ、

「そろそろ準備を始めてくれるか」

 凌遅が夜会の時と同じ台詞を言った。気付けば時間が迫っていたので、私は身支度に取り掛かる。
 昨日、購入したブラックフォーマルを着用し、ピンをジャケットの前立てに挟む。ポケットには、携帯端末と凌遅がくれたカードを忍ばせた。右手中指にはヴィネとお揃いの猫耳リングが嵌まっている。
 こうしてみるとお守りだらけで、自分が如何に不安なのか思い知らされる。だが、心強くはある。ともあれ、これで準備は完璧だ。

 凌遅は普段と変わらぬシンプルな街着を着ていた。腰には、千切れたベルトを似寄りの革で修理したシザーケースを帯びている。やはりこの姿が一番彼らしい。

 身支度を終えた私を見た凌遅は、何も言わず数秒間こちらを凝視した。

「あの、どうかしましたか」

 思わず問うが、彼は軽く首を振り、「いや……ただ少し、驚いただけだ」と返すだけで、理由は教えてくれなかった。


 二人で車に乗り込み、指定された場所へ向かう。外は尋常ではない暑さだ。エアコンの利きが悪く、身体を伝う汗が神経を波立たせる。

「今日もアウトドアだと思えばいい」

 身を固くする私に、運転席の凌遅が言う。

「しかも、長らく君を悩ませてきた問題が解決するというおまけ付きだ。気楽に行きな」

「だと、いいんですけど……」

 これから、ついにバエルと会う。訊きたいことは山とある。彼が私を前にどんな理由を述べるのか……考えるだけで無性に恐ろしく、哀しくなってくる。

「“将来を思い煩うな。現在為すべきことを為せ。その他は神の考えることだ”」

 凌遅はアミエルを引用し、ラジオのスイッチを入れた。夏らしい情報がいくつも紹介される。今日は各地で花火大会が開かれるが、熱中症にも要警戒だそうだ。平和なニュースが、私から現実感を失わせる。

 大丈夫、大丈夫。

 私は母の言葉を反芻し、前を見る。
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