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第10章

78 天泣

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「君の家族の話を聞かせてくれるか」

 本を読み終えた凌遅が唐突に言った台詞の意味を、私は数秒間、理解することができなかった。
 彼が私の家族に興味を持つとは思わなかったし、そもそも解体作業以外に関心を向けること自体が想定外だ。

「祖父の話をしたろう。次は君の番だ」

「別に構いませんが、何から話したら……」

「思いつくままに話せばいい。難しいなら、今、頭に浮かんだエピソードを語ってくれ」

 そう言われても、急に浮かぶものではない。注目されているとなれば尚更だ。

 しばらく頭を悩ませるうち、ふとある光景が浮かんだ。それは母が亡くなる数日前、修学旅行の準備をしていた時のことだ――。

 親しい友人と同じグループになれた私は、とてもワクワクしていた。学校から配布されたしおりと持ち物リストをチェックし、母に相談しながら揃えていくのが楽しく、新調した服や腕時計、ボストンバッグを早く使いたくてたまらなかった。

「ねえねえ、お母さん、お土産、何がいい?」

 荷造りをしながら訊ねると、

「そんなの気にしなくていいよ。椋が旅を楽しんで無事に帰ってきてくれれば、お母さんはそれで十分」

 母は朗らかに言った。

「お父さんは?」

 ちょうど晩酌をしていた父は、「そうだな……美味しい地酒がうれしいな」と返したが、母から「小学生はお酒買えないでしょ」とダメ出しされてしまい、最終的には「椋のセンスに任せるよ」と言って笑っていた。

「えー、ちゃんとリクエストしてよ、二人とも」

 私が膨れると、父と母は顔を見合わせ、くすくすと笑い合った。

 うちの両親は仲が良い。穏やかで理性的な父と明朗快活な母。タイプは違うが互いを尊重し、理解する努力を怠らない。私は二人が喧嘩をしているところを一度も見たことがなかった。娘に見せないようにしていただけかも知れないが、両親には少なくともそういった配慮をする余裕があった。

 そんな二人の元に生まれることができて、自分は何と幸せなのだろう。
 興奮していたせいか急激に胸がいっぱいになり、何故だか涙が溢れてきた。

 母がそばに来て「あらら、どうしたの」と訊く。私はすすり泣きながら「わからない……でも、何だか涙が出てきちゃって……旅行、楽しみなはずなのに……」と正直に伝えた。
 それを聞いた母は「大丈夫、大丈夫」と言って私をハグし、父は「少し気持ちが高ぶっただけだよ。心配ない」と優しく声をかけてくれた。
 両親の思い遣りが呼び水となり、私は本格的に泣き出してしまった。

「ううぅ……ごめん、なさい……心配かけてぇ……すぐ、泣き止むからぁ……っ」

 すると母は明るく笑って、「無理して泣き止まなくていいよ。椋は感情が豊かなんだね。お母さんは素直で優しい椋のこと、大好きだよ~」と言いながら、私を強く抱きしめてくれた。

「旅行、楽しんでおいで。きっと良い刺激をいっぱいもらえるから」

 母は私の頭をゴシゴシ撫でると修学旅行のしおりを手に取り、
「よーし、忘れ物ないか抜き打ちチェックだ~! 抜け1個につき、お小遣い100円マイナスね~」とおどける。

「うわ、待って! まだ準備途中なんだよっ」

 私が鼻をすすりながら慌てて荷造りに戻るのを、両親はあたたかいまなざしで見守っていた。


「――今にして思うと、この時間が一番幸せだったんじゃないかと思います」

 私は斜め前方を見ながらつぶやく。

 この数日後、母は突然帰らぬ人となり、父との関係性も変わってしまった。

 あの時、もっと深く母のぬくもりを感じておけば良かった。“私も大好きだよ”と伝えておけば良かった。
 父にあんな言葉をぶつけなければ良かった。落ち着いた時に謝っておけば良かった。そして、私は父のことも大好きなのだと、伝えておけば良かった……。

 これまで何度も繰り返して来た後悔が胸を過ぎり、目頭が熱くなる。

 私の言葉が途切れると、凌遅は「聞けて良かった」と返し、床頭台にあったティッシュを私の膝の上に置いた。彼らしいドライな態度に、ほんの少しだけ気持ちが和らぐ。

 同時に、きたるべきバエルとの対決に備えて、覚悟を決めておかねばと強く思った。
 彼の帰国がいつなのかはまだわからないが、おそらくそう遠くないうちに顔を合わせ、真相を聞かねばならない。

 気を抜けば不安でたまらなくなる。だが、両親との思い出が私の心に灯をともしてくれた。

 一刻も早くリハビリを終え、復帰する。それが先決だ。

 目頭をティッシュで軽く押さえ、私は顔を上げた。
 
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