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第10章
75 好雨
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ベルフェゴールは剣呑な表情を浮かべたまま、もう片方のポケットから何かを取り出した。それは実にわかりやすい形をした凶器だった。刃渡り15センチメートルほどの折り畳みナイフだ。
総毛立つ思いでそっと背後を確認すると、ラックはこちらにチラとも注意を払わず、のんきに壁に寄り掛かり、携帯端末を繰っている。一時でもこの男にすがりたいと思ってしまったのは痛恨の極みだが、私はそれだけのっぴきならない危険に晒されていた。
ベルフェゴールは刃を開きながら、
「……心配せんでええ……いつまでも嬲ったりせえへんから……」
と言い放つと、軽く腰を浮かせ、パッと私の右手首を掴んだ。
「……っ!」
次の瞬間には、ナイフを持った手が横薙ぎの軌道を描こうとしている。このまま真一文字に頸動脈を切り裂く気だとわかった。
たちまち鮮血が噴き出し意識を刈り取られるかと思いきや、彼の動きはやけに緩慢だ。まるでスローモーションのように見える。あわよくば左手でガードできそうだが、腕が鉛のように重く、思考に身体が付いていかない。
私の脳裏を、数々の“襲撃の記憶”が駆け巡る。これが走馬灯か。この短期間に、こんなに命を狙われる女子高生も珍しいな。毎回どうにか切り抜けてきたが、今度は無理だ。
さすがに終わった――。
そう思った時だ。
ヴ―……
微かな振動が響き、ベルフェゴールが動きを止めた。彼は一瞬の躊躇いの後、私の右手首を離し、携帯端末を取り出した。その画面を見るなり小さく息を吐いて、不愉快そうにこちらを見る。
何が起こったのかわからず固まっていると、
「……運がええな……」
彼が苦々しげにつぶやくのが聞こえた。
「……!?」
それから彼は私の背後に視線を送り、「ラック……放してやって……」と指示を出した。
「承知しました」
ラックはゆるりとした仕草で顔を上げ、私の元へ歩み寄ると、先ほどと同じように車椅子を押して移動を始めた。
なんだ……? 何が起こった……?
意外な展開に驚く間もなく、私は部屋の外へと連れ出される。ドアを通る際、ベルフェゴールが携帯端末を操作しているのが見えたので、何か重要な連絡が入ったのかも知れない。
「延命できてよかったですね、お嬢さん」
廊下で私を解放したラックが言う。
「せっかく助かった命です。どうか有意義にお使いください。では」
そう言い残すと、彼は件の病室近くのトイレへと入って行った。てっきりどこか別の場所へ連れ込まれるのではないかと思っていたが、どうやら見逃してくれるらしい。
命を取られかけたショックと数々の消化不良でどうにかなりそうだった私は、一目散に車椅子を駆って自分の病室へと急いだ。
「……お疲れ様です。ベルフェゴールです」
「――やあ、今、忙しいかな」
「……いえ、問題ありません」
「そうか、よかった」
「……DMを確認しました。すぐに話したいとのことでしたが、何かありましたか……」
「いや、そうじゃないんだ。ただ、無性に君の声が聞きたくなってね」
「…………。そう、でしたか……」
「ああ、すまない。その様子だと、忙しかったんだろうね……作業の邪魔をしてしまったかな」
「……いえ、そのようなことは……」
「それならいいんだけど。どうかな、調子は」
「はい、すべて滞りなく進んでいますので、ご心配には及びません……」
「そうじゃなくて、君の体調の方は?」
「……おかげさまで、息災です……」
「よかった。君は無理をしがちだから、心配になってね……」
「……ご深慮ありがとうございます。バエルさんは、お変わりありませんか」
「うん。至って元気だよ。でも、やはり日本の空気が恋しい。何だか、気が急いているみたいだ……明日の帰国が待ち遠しくてね」
「無事のお帰りをお待ちしております」
「ありがとう。考えてみればもうすぐ会えるのに、時間を取らせて悪かったね」
「……とんでもない。何かありましたら、いつでもご用命ください……」
通話を終えたベルフェゴールは深い溜息を吐き、折り畳み椅子の上で項垂れた。
しばらくしてノックの音が響き、開いたドアからラックがのそりと顔を覗かせる。
「失礼いたします。お話は……もうお済みのようですね」
「ああ、終わった……」
「件のお嬢さん、病室へ帰られたようですよ。アプリで確認しました」
「そう……」
顔を上げないベルフェゴールに向かって、ラックが苦笑交じりにつぶやく。
「それにしても、何と間の悪い……」
「……仕方ない。バエル代表はお忙しい方だから、俺が合わせないと……」
「またそのように、ご自分を切り売りなさる……今日も睡眠時間を削って来られたのでしょう?」
「…………」
「たまには、あの方の優先順位を下げてもよろしいのでは?」
ベルフェゴールは頭を振る。
「それだけは絶対にない。俺は、あの人を支えるためにここにいる」
普段、ぼそぼそと喋りがちな彼が珍しくはっきり発声するのを見て、ラックは肩を竦めながら「然様ですか」と笑む。
「その結果、最大の障害を排除し損ねてしまわれた……まったく、おいたわしいことで」
ベルフェゴールは片手で頭を抱え、大息する。
ラックが掠れた笑声を漏らし、「ですが、心なしかお声が明るく感じますね」と言い添えると、副代表はようやく顔を上げ、「気のせいだよ……」と返した。
相変わらず表情は乏しいが、険しさは幾分和らいでいた。
総毛立つ思いでそっと背後を確認すると、ラックはこちらにチラとも注意を払わず、のんきに壁に寄り掛かり、携帯端末を繰っている。一時でもこの男にすがりたいと思ってしまったのは痛恨の極みだが、私はそれだけのっぴきならない危険に晒されていた。
ベルフェゴールは刃を開きながら、
「……心配せんでええ……いつまでも嬲ったりせえへんから……」
と言い放つと、軽く腰を浮かせ、パッと私の右手首を掴んだ。
「……っ!」
次の瞬間には、ナイフを持った手が横薙ぎの軌道を描こうとしている。このまま真一文字に頸動脈を切り裂く気だとわかった。
たちまち鮮血が噴き出し意識を刈り取られるかと思いきや、彼の動きはやけに緩慢だ。まるでスローモーションのように見える。あわよくば左手でガードできそうだが、腕が鉛のように重く、思考に身体が付いていかない。
私の脳裏を、数々の“襲撃の記憶”が駆け巡る。これが走馬灯か。この短期間に、こんなに命を狙われる女子高生も珍しいな。毎回どうにか切り抜けてきたが、今度は無理だ。
さすがに終わった――。
そう思った時だ。
ヴ―……
微かな振動が響き、ベルフェゴールが動きを止めた。彼は一瞬の躊躇いの後、私の右手首を離し、携帯端末を取り出した。その画面を見るなり小さく息を吐いて、不愉快そうにこちらを見る。
何が起こったのかわからず固まっていると、
「……運がええな……」
彼が苦々しげにつぶやくのが聞こえた。
「……!?」
それから彼は私の背後に視線を送り、「ラック……放してやって……」と指示を出した。
「承知しました」
ラックはゆるりとした仕草で顔を上げ、私の元へ歩み寄ると、先ほどと同じように車椅子を押して移動を始めた。
なんだ……? 何が起こった……?
意外な展開に驚く間もなく、私は部屋の外へと連れ出される。ドアを通る際、ベルフェゴールが携帯端末を操作しているのが見えたので、何か重要な連絡が入ったのかも知れない。
「延命できてよかったですね、お嬢さん」
廊下で私を解放したラックが言う。
「せっかく助かった命です。どうか有意義にお使いください。では」
そう言い残すと、彼は件の病室近くのトイレへと入って行った。てっきりどこか別の場所へ連れ込まれるのではないかと思っていたが、どうやら見逃してくれるらしい。
命を取られかけたショックと数々の消化不良でどうにかなりそうだった私は、一目散に車椅子を駆って自分の病室へと急いだ。
「……お疲れ様です。ベルフェゴールです」
「――やあ、今、忙しいかな」
「……いえ、問題ありません」
「そうか、よかった」
「……DMを確認しました。すぐに話したいとのことでしたが、何かありましたか……」
「いや、そうじゃないんだ。ただ、無性に君の声が聞きたくなってね」
「…………。そう、でしたか……」
「ああ、すまない。その様子だと、忙しかったんだろうね……作業の邪魔をしてしまったかな」
「……いえ、そのようなことは……」
「それならいいんだけど。どうかな、調子は」
「はい、すべて滞りなく進んでいますので、ご心配には及びません……」
「そうじゃなくて、君の体調の方は?」
「……おかげさまで、息災です……」
「よかった。君は無理をしがちだから、心配になってね……」
「……ご深慮ありがとうございます。バエルさんは、お変わりありませんか」
「うん。至って元気だよ。でも、やはり日本の空気が恋しい。何だか、気が急いているみたいだ……明日の帰国が待ち遠しくてね」
「無事のお帰りをお待ちしております」
「ありがとう。考えてみればもうすぐ会えるのに、時間を取らせて悪かったね」
「……とんでもない。何かありましたら、いつでもご用命ください……」
通話を終えたベルフェゴールは深い溜息を吐き、折り畳み椅子の上で項垂れた。
しばらくしてノックの音が響き、開いたドアからラックがのそりと顔を覗かせる。
「失礼いたします。お話は……もうお済みのようですね」
「ああ、終わった……」
「件のお嬢さん、病室へ帰られたようですよ。アプリで確認しました」
「そう……」
顔を上げないベルフェゴールに向かって、ラックが苦笑交じりにつぶやく。
「それにしても、何と間の悪い……」
「……仕方ない。バエル代表はお忙しい方だから、俺が合わせないと……」
「またそのように、ご自分を切り売りなさる……今日も睡眠時間を削って来られたのでしょう?」
「…………」
「たまには、あの方の優先順位を下げてもよろしいのでは?」
ベルフェゴールは頭を振る。
「それだけは絶対にない。俺は、あの人を支えるためにここにいる」
普段、ぼそぼそと喋りがちな彼が珍しくはっきり発声するのを見て、ラックは肩を竦めながら「然様ですか」と笑む。
「その結果、最大の障害を排除し損ねてしまわれた……まったく、おいたわしいことで」
ベルフェゴールは片手で頭を抱え、大息する。
ラックが掠れた笑声を漏らし、「ですが、心なしかお声が明るく感じますね」と言い添えると、副代表はようやく顔を上げ、「気のせいだよ……」と返した。
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