74 / 151
第9章
68 バーンアウト
しおりを挟む
ウコバチに毒を盛られた──。
事の次第を知ってから、私の心にはぽっかりと穴があいたようだった。あれから数日が経ち、集中治療室から一般病棟へ移った。身体の機能自体は回復に向かっているはずだが気力が湧かず、治療やリハビリにも積極的になれない。
「伊関さん、そろそろベッドから身体を起こす練習を始めてみましょう。最初はツラいかもしれませんけど、リハビリはなるべく早く始めるのが大事なんですよ」
医療スタッフが声をかけにくるたび、放っておいて欲しいと感じ、目を閉じたまま無視を決め込む癖がついた。
「伊関さーん?」
なおも粘ろうとするスタッフを、凌遅がうまくあしらってくれるのがありがたかった。
「彼女は毒殺されかけたんだ。気持ちの整理に梃子摺るのもやむを得ないだろう。少し時間をやってくれ」
「ですが、そろそろ機能回復訓練を始めないと、廃用症候群を引き起こす恐れもありますので」
「正論だ。だが、君は同じ目に遭った時、元気にリハビリに行ける自信があるのか」
「は……?」
怪訝そうな面持ちのスタッフに、凌遅は淡々と圧をかける。
「俺はあちこちに伝手があるから、例の神経剤と同じものを手に入れるのも不可能ではない。何なら君も試してみるか。今後より良いリハビリを提供するのに有益な経験になるだろう。もっとも、生きていられれば、だがな……」
これを聞いてなお、私をリハビリに連れ出そうとする猛者はいなかった。
「すみません……気を遣わせてしまって……」
私が詫びると、凌遅は「彼の押し付けがましい態度が鼻に付いただけだから、気にする必要はない」と返し、「それに、廃用症候群になって不自由するのは俺じゃないしな」と続けた。皮剥きの時に言った台詞が、妙な形で返って来た。
このままではまずいことは十分自覚している。だが、どうしようもなくだるくて、とても身体を動かす気になどなれない。
自分はこんなに繊細だったろうか。LR×Dに引き込まれた当初は、もっと……。
理由ははっきりしている。私には現在、原動力になり得る“激情”がないのだ。
一番最初は、父の仇だと思っていた凌遅を絶対にこの手で殺してやろうと思っていた。彼が直接手を下していないと判明してからは、黒幕であるバエルの正体を暴くまで粘ろうと闘志を燃やした。
だが仇敵が敬慕していた叔父だと悟った今、憎悪や怒りを向ける対象を見失ってしまった。宙ぶらりんの状態で、自分でもどうしたら良いのかわからなくなっている。
こんな時、ヴィネやウコバチのような社交的な人がいてくれたら少しは気も晴れるのだろうが、それはもう叶わないことだ。
私は壁のカレンダーに目を遣る。彼が帰るまで、いくらも猶予がない。それなのに、一向にモチベーションが上がらない。
カレンダーの横にある時計の針は、午前11時30分を指している。いつもならウコバチの差し入れを期待する時間帯だ。
思うに、ウコバチは最初から刺客として送り込まれたのだろう。毎日、手作りの料理を運び、時間をかけて親しくなり、私の警戒が解けたところで牙を剥いた。細やかに気遣う素振りを見せながら、食事に猛毒を仕込んで確実に命を奪おうとしていた──。
組織の黒幕との対面を前に気を張っていた私にとって、彼女と過ごす時間は大きな癒しだった。
まだりんごがうまく剥けなかった時、ウコバチは私の覚束ない手付きを見ていられなくなったようで、「なんだっぺ、バーデンちゃん、下手っぴだなあ。貸してみろー」と言って手本を見せてくれた。
「包丁だけ動かすべとしてもダメ。ちゃんと、りんごの丸みに沿って押してぐの。んで、りんご持っでる手も、力入れねえで回す。そうすっと楽に剥けんだ」
「あ、なるほど……」
「後は練習あるのみだな。りんごなんぼでもあっから、どんどん剥いてけ。どうせ凌遅くん、食べっぺ。余らしだらオレも食うがら心配ねえ!」
そう言って、ニカッと笑っていた。
彼女の飾り気のない笑顔は、在りし日の母を思い出させた。年代が近く、料理が得意なところも同じで、知らず知らずのうちに重ねていたのかも知れない。
新しい連絡員が彼女で良かったと思っていたのに……。
クエマドロに襲われた時も似たような気持ちになった。心を許した相手から裏切られると、想像以上に傷付くのだなと実感する。
指示役はベルフェゴールに違いない。彼はよほど私のことが憎いらしい。毎度、攻撃に容赦がない。
手駒に私を凌辱させ、ライブ配信で友人を惨殺させ、遺体を損壊させて私の眼前に晒すよう働きかけ、集団で襲撃させ、ついには安全であるはずの病院の中で、中立の立場のはずの連絡員を使って毒殺させようとした。
もし彼が一から絵画を描いたのだとしたら、見事、私の精神を消耗させることに成功している。
一体、いつの間にそこまでの恨みを買ったのだろう。ただ、“バエルの身内である”というだけで、そんなに敵意を向けられるものなのだろうか。理由も分からず嫌悪されるという状況も胸に応える。
普段なら感情的になって落涙してもおかしくないが、何だかいろいろなものがどうでも良くなってきていた。ベッドの上で衰弱し、眠るように息を引き取るのも悪くないような気がする。
どうせ、両親はすでにこの世にいない。黒幕が叔父だというのも現実感のない話だし、彼を問い詰め真相を聞き出すなんて、考えるだけで億劫だ。きっと叔父を前にしたら、様々な感情が溢れ出て収拾がつかなくなる。頭も回りそうにないし、伝えたいことを正確に伝えられる気がしない。
多分、心が折れたのだと思う。あれだけ決意を固めていたのに、我ながら呆気ない。
考えるのも疲れた。私は掛け布団を引き上げて出来た小さな陰の中で目を閉じる。
「はあ……」
溜息と一緒に、生命力も零れて行く気がする。
このまま眠りに落ちて、二度と目が覚めなければいいのに……。
事の次第を知ってから、私の心にはぽっかりと穴があいたようだった。あれから数日が経ち、集中治療室から一般病棟へ移った。身体の機能自体は回復に向かっているはずだが気力が湧かず、治療やリハビリにも積極的になれない。
「伊関さん、そろそろベッドから身体を起こす練習を始めてみましょう。最初はツラいかもしれませんけど、リハビリはなるべく早く始めるのが大事なんですよ」
医療スタッフが声をかけにくるたび、放っておいて欲しいと感じ、目を閉じたまま無視を決め込む癖がついた。
「伊関さーん?」
なおも粘ろうとするスタッフを、凌遅がうまくあしらってくれるのがありがたかった。
「彼女は毒殺されかけたんだ。気持ちの整理に梃子摺るのもやむを得ないだろう。少し時間をやってくれ」
「ですが、そろそろ機能回復訓練を始めないと、廃用症候群を引き起こす恐れもありますので」
「正論だ。だが、君は同じ目に遭った時、元気にリハビリに行ける自信があるのか」
「は……?」
怪訝そうな面持ちのスタッフに、凌遅は淡々と圧をかける。
「俺はあちこちに伝手があるから、例の神経剤と同じものを手に入れるのも不可能ではない。何なら君も試してみるか。今後より良いリハビリを提供するのに有益な経験になるだろう。もっとも、生きていられれば、だがな……」
これを聞いてなお、私をリハビリに連れ出そうとする猛者はいなかった。
「すみません……気を遣わせてしまって……」
私が詫びると、凌遅は「彼の押し付けがましい態度が鼻に付いただけだから、気にする必要はない」と返し、「それに、廃用症候群になって不自由するのは俺じゃないしな」と続けた。皮剥きの時に言った台詞が、妙な形で返って来た。
このままではまずいことは十分自覚している。だが、どうしようもなくだるくて、とても身体を動かす気になどなれない。
自分はこんなに繊細だったろうか。LR×Dに引き込まれた当初は、もっと……。
理由ははっきりしている。私には現在、原動力になり得る“激情”がないのだ。
一番最初は、父の仇だと思っていた凌遅を絶対にこの手で殺してやろうと思っていた。彼が直接手を下していないと判明してからは、黒幕であるバエルの正体を暴くまで粘ろうと闘志を燃やした。
だが仇敵が敬慕していた叔父だと悟った今、憎悪や怒りを向ける対象を見失ってしまった。宙ぶらりんの状態で、自分でもどうしたら良いのかわからなくなっている。
こんな時、ヴィネやウコバチのような社交的な人がいてくれたら少しは気も晴れるのだろうが、それはもう叶わないことだ。
私は壁のカレンダーに目を遣る。彼が帰るまで、いくらも猶予がない。それなのに、一向にモチベーションが上がらない。
カレンダーの横にある時計の針は、午前11時30分を指している。いつもならウコバチの差し入れを期待する時間帯だ。
思うに、ウコバチは最初から刺客として送り込まれたのだろう。毎日、手作りの料理を運び、時間をかけて親しくなり、私の警戒が解けたところで牙を剥いた。細やかに気遣う素振りを見せながら、食事に猛毒を仕込んで確実に命を奪おうとしていた──。
組織の黒幕との対面を前に気を張っていた私にとって、彼女と過ごす時間は大きな癒しだった。
まだりんごがうまく剥けなかった時、ウコバチは私の覚束ない手付きを見ていられなくなったようで、「なんだっぺ、バーデンちゃん、下手っぴだなあ。貸してみろー」と言って手本を見せてくれた。
「包丁だけ動かすべとしてもダメ。ちゃんと、りんごの丸みに沿って押してぐの。んで、りんご持っでる手も、力入れねえで回す。そうすっと楽に剥けんだ」
「あ、なるほど……」
「後は練習あるのみだな。りんごなんぼでもあっから、どんどん剥いてけ。どうせ凌遅くん、食べっぺ。余らしだらオレも食うがら心配ねえ!」
そう言って、ニカッと笑っていた。
彼女の飾り気のない笑顔は、在りし日の母を思い出させた。年代が近く、料理が得意なところも同じで、知らず知らずのうちに重ねていたのかも知れない。
新しい連絡員が彼女で良かったと思っていたのに……。
クエマドロに襲われた時も似たような気持ちになった。心を許した相手から裏切られると、想像以上に傷付くのだなと実感する。
指示役はベルフェゴールに違いない。彼はよほど私のことが憎いらしい。毎度、攻撃に容赦がない。
手駒に私を凌辱させ、ライブ配信で友人を惨殺させ、遺体を損壊させて私の眼前に晒すよう働きかけ、集団で襲撃させ、ついには安全であるはずの病院の中で、中立の立場のはずの連絡員を使って毒殺させようとした。
もし彼が一から絵画を描いたのだとしたら、見事、私の精神を消耗させることに成功している。
一体、いつの間にそこまでの恨みを買ったのだろう。ただ、“バエルの身内である”というだけで、そんなに敵意を向けられるものなのだろうか。理由も分からず嫌悪されるという状況も胸に応える。
普段なら感情的になって落涙してもおかしくないが、何だかいろいろなものがどうでも良くなってきていた。ベッドの上で衰弱し、眠るように息を引き取るのも悪くないような気がする。
どうせ、両親はすでにこの世にいない。黒幕が叔父だというのも現実感のない話だし、彼を問い詰め真相を聞き出すなんて、考えるだけで億劫だ。きっと叔父を前にしたら、様々な感情が溢れ出て収拾がつかなくなる。頭も回りそうにないし、伝えたいことを正確に伝えられる気がしない。
多分、心が折れたのだと思う。あれだけ決意を固めていたのに、我ながら呆気ない。
考えるのも疲れた。私は掛け布団を引き上げて出来た小さな陰の中で目を閉じる。
「はあ……」
溜息と一緒に、生命力も零れて行く気がする。
このまま眠りに落ちて、二度と目が覚めなければいいのに……。
2
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語
六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる