bias わたしが、カレを殺すまで。

帆足 じれ

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第9章

68 バーンアウト

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 ウコバチに毒を盛られた──。

 事の次第を知ってから、私の心にはぽっかりと穴があいたようだった。あれから数日が経ち、集中治療室から一般病棟へ移った。身体の機能自体は回復に向かっているはずだが気力が湧かず、治療やリハビリにも積極的になれない。

「伊関さん、そろそろベッドから身体を起こす練習を始めてみましょう。最初はツラいかもしれませんけど、リハビリはなるべく早く始めるのが大事なんですよ」

 医療スタッフが声をかけにくるたび、放っておいて欲しいと感じ、目を閉じたまま無視を決め込む癖がついた。

「伊関さーん?」

 なおも粘ろうとするスタッフを、凌遅がうまくあしらってくれるのがありがたかった。

「彼女は毒殺されかけたんだ。気持ちの整理に梃子摺てこずるのもやむを得ないだろう。少し時間をやってくれ」

「ですが、そろそろ機能回復訓練を始めないと、廃用症候群を引き起こす恐れもありますので」

「正論だ。だが、君は同じ目に遭った時、元気にリハビリに行ける自信があるのか」

「は……?」

 怪訝そうな面持ちのスタッフに、凌遅は淡々と圧をかける。

「俺はあちこちに伝手つてがあるから、例の神経剤と同じものを手に入れるのも不可能ではない。何なら君も試してみるか。今後より良いリハビリを提供するのに有益な経験になるだろう。もっとも、、だがな……」

 これを聞いてなお、私をリハビリに連れ出そうとする猛者はいなかった。

「すみません……気を遣わせてしまって……」

 私が詫びると、凌遅は「彼の押し付けがましい態度が鼻に付いただけだから、気にする必要はない」と返し、「それに、廃用症候群になって不自由するのは俺じゃないしな」と続けた。皮剥きの時に言った台詞が、妙な形で返って来た。

 このままではまずいことは十分自覚している。だが、どうしようもなくだるくて、とても身体を動かす気になどなれない。

 自分はこんなに繊細だったろうか。LR×Dに引き込まれた当初は、もっと……。 

 理由ははっきりしている。私には現在、原動力になり得る“激情”がないのだ。
 一番最初は、父の仇だと思っていた凌遅を絶対にこの手で殺してやろうと思っていた。彼が直接手を下していないと判明してからは、黒幕であるバエルの正体を暴くまで粘ろうと闘志を燃やした。

 だが仇敵が敬慕していた叔父だと悟った今、憎悪や怒りを向ける対象を見失ってしまった。宙ぶらりんの状態で、自分でもどうしたら良いのかわからなくなっている。

 こんな時、ヴィネやウコバチのような社交的な人がいてくれたら少しは気も晴れるのだろうが、それはもう叶わないことだ。

 私は壁のカレンダーに目を遣る。が帰るまで、いくらも猶予がない。それなのに、一向にモチベーションが上がらない。
 カレンダーの横にある時計の針は、午前11時30分を指している。いつもならウコバチの差し入れを期待する時間帯だ。

 思うに、ウコバチは最初から刺客として送り込まれたのだろう。毎日、手作りの料理を運び、時間をかけて親しくなり、私の警戒が解けたところで牙を剥いた。細やかに気遣う素振りを見せながら、食事に猛毒を仕込んで確実に命を奪おうとしていた──。

 組織の黒幕との対面を前に気を張っていた私にとって、彼女と過ごす時間は大きな癒しだった。
 まだりんごがうまく剥けなかった時、ウコバチは私の覚束おぼつかない手付きを見ていられなくなったようで、「なんだっぺ、バーデンちゃん、下手っぴだなあ。貸してみろー」と言って手本を見せてくれた。

「包丁だけ動かすべとしてもダメ。ちゃんと、りんごの丸みに沿って押してぐの。んで、りんご持っでる手も、力入れねえで回す。そうすっと楽に剥けんだ」

「あ、なるほど……」

「後は練習あるのみだな。りんごなんぼでもあっから、どんどん剥いてけ。どうせ凌遅くん、食べっぺ。あまらしだらオレも食うがら心配ねえ!」

 そう言って、ニカッと笑っていた。

 彼女の飾り気のない笑顔は、在りし日の母を思い出させた。年代が近く、料理が得意なところも同じで、知らず知らずのうちに重ねていたのかも知れない。

 新しい連絡員リエゾンが彼女で良かったと思っていたのに……。
 クエマドロに襲われた時も似たような気持ちになった。心を許した相手から裏切られると、想像以上に傷付くのだなと実感する。

 指示役はベルフェゴールに違いない。彼はよほど私のことが憎いらしい。毎度、攻撃に容赦がない。
 手駒クエマドロに私を凌辱させ、ライブ配信で友人ヴィネを惨殺させ、遺体を損壊させて私の眼前に晒すよう働きかけ、集団で襲撃させ、ついには安全であるはずの病院の中で、中立の立場のはずの連絡員リエゾンを使って毒殺させようとした。
 もし彼が一から絵画えずを描いたのだとしたら、見事、私の精神を消耗させることに成功している。
 一体、いつの間にそこまでの恨みを買ったのだろう。ただ、“バエルの身内である”というだけで、そんなに敵意を向けられるものなのだろうか。理由も分からず嫌悪されるという状況も胸に応える。

 普段なら感情的になって落涙してもおかしくないが、何だかいろいろなものがどうでも良くなってきていた。ベッドの上で衰弱し、眠るように息を引き取るのも悪くないような気がする。

 どうせ、両親はすでにこの世にいない。黒幕が叔父だというのも現実感のない話だし、彼を問い詰め真相を聞き出すなんて、考えるだけで億劫だ。きっと叔父を前にしたら、様々な感情が溢れ出て収拾がつかなくなる。頭も回りそうにないし、伝えたいことを正確に伝えられる気がしない。

 多分、心が折れたのだと思う。あれだけ決意を固めていたのに、我ながら呆気ない。

 考えるのも疲れた。私は掛け布団を引き上げて出来た小さな陰の中で目を閉じる。

「はあ……」

 溜息と一緒に、生命力も零れて行く気がする。
 このまま眠りに落ちて、二度と目が覚めなければいいのに……。
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