bias わたしが、カレを殺すまで。

帆足 じれ

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第9章

67 憮然 ⚠

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 次に気が付いた時、私はまた白い天井を見ていた。そこはソファベッドではなく、様々な医療機器が並んだ清潔な空間で、口元には人工呼吸器らしきものが接続されていた。少し前までの凌遅と同様、全身から何本もの管が伸びている。手足が鉛のように重く、うまく動かせない。

 すると程なくして医療スタッフらしい女性が現れ、私に声をかけながら作業をし始めた。まだ意識が朦朧としているため、何が何やらわからない。ただ、自分の病状が想像以上に深刻だと言うことだけは汲み取れた。

 この空間はおそらく集中治療室だ。小学生の頃、ICUに入っていた祖母の見舞いに行ったことがあるのだが、同じような“物々しさ”を感じるので間違いない。

 私の身に何が起こったのだろう。あの日は確か、凌遅がリハビリに行っている間、ウコバチと会話していた。朝から何となく風邪っぽかったから、差し入れは遠慮した。
 その後、少しして明らかな不調が現れ、ソファベッドで横になって……そこからの記憶がない。

 こんな場所にいる時点で、何かろくでもない目に遭ったのは明白だ。すぐにでも確認したかったが、あまりの息苦しさと倦怠感で長いこと意識を保つのは難しそうだった。何と言うか、沈みかけの泥船に横たわっているかのようだ。このまま背中からどろりと地獄に引き摺り込まれるのではないかと思えてくる。

 やがて医療スタッフと入れ替わりに入ってきた誰かが枕元に立った。私は極度の近視で、眼鏡を外すとほとんど何も見えない。それに普段より物が見えにくく感じる。だが、ぼんやりと把握できる服装からして、病院関係者ではない。
 視線を移すと、明るいブロンドの頭が見えた。これにより、相手がウコバチだとわかった。
 彼女は黙ってこちらを見下ろしていたが、私と目が合った──ような気がした──と同時に、何かつぶやいた。内容は聞き取れなかった。でもいつになく抑揚のない声音に違和感を覚えた。
 
 きっと“聞くのがツラい類の話”だ。聞き返すべきなのだろうが、私には色々な意味で余裕がなかった。

 まともな反応ができず、ただ浅い呼吸を繰り返していたら、ウコバチは数秒ほどこちらを見つめた後、踵を返して出て行った。それを最後に、私の意識は途絶えた──。



 再び目覚めた私が最初に見たのは、こちらを覗き込む凌遅の顔だった。彼は普段と変わらないあっさりとした口調で、「どうだ、調子は」と訊いてきた。私は裸眼だし、彼はマスクを着用していたが、このい声を聞き間違えるはずはない。
 何故かほっとして、深く息を吐きながら小さくうなずいた。前よりは少し呼吸が楽に感じられる。だが、身体にはまったく力が入らず、無数の管や人工呼吸器も装着されたままだ。

「そうか」

 凌遅は顔を上げ、姿勢を直した。入院してからずっと移動には車椅子を使っていたはずだが、今は松葉杖を支えにしていた。いつの間にそこまで回復したのだろう。
 自分はまだ意識が混濁していて、夢と現実がごちゃまぜになっているのだろうか。

 うまく働かない頭をどうにか整えようとしていたら、凌遅が声をかけてきた。

「災難だったな。当面の危機は脱したらしいから、安心していい」

「そ……れ、ど……ゆ……」

 声が掠れ、満足に言葉が紡げないことに気付いた途端、急激に不安になる。

「無理に話さなくていい。説明する」

 彼は私の言葉を遮ると、思いもよらないことを言った。

「君は、有機リン系の神経剤に曝露ばくろした。以前、ロシアの反体制派指導者が盛られたのと同系統の化学兵器だ」

 なんだって……? あまりに突飛な話に、理解が追い付かない。

「一命は取り留めたものの、昏睡状態が続いていたから、俺も覚悟を決めかけていたんだが、よく戻って来たな」

 凌遅曰く、その神経剤は心臓の働きを阻害し、気道を塞ぐことにより窒息を誘発する。致死性はかつて日本を震撼させた化学テロ事件の猛毒やVXを上回るもので、私が助かったのは奇跡とのことだった。

「リハビリから帰ったら、ベッドに横たわる君の様子が明らかにおかしかった。俺に同伴していた人間が冷静で、即座に院内スタッフと連携できたことが功を奏した。特殊な事態であったにも関わらず、的確な判断を下せる医師がいたことも僥倖ぎょうこうだったと言うべきだな。伊達にアングラ組織直属の医療機関に位置付けられてはいないか」

 凌遅の話が一段落した時、医療スタッフが現れ、私の容態を確認し始めた。処置を受けながら、私はひどく混乱する脳内を必死に整理していた。

 凌遅と医療スタッフの話を聞くに、当時、メディカルエリアは大変な騒ぎになったらしい。原因が判明してからの汚染区域の区画分けゾーニングや現場の除染など、化学テロが起こった時と同じ措置が講じられた。
 幸い、汚染の可能性があったのは凌遅の病室だけで、範囲もごく限られていたため、速やかに復旧作業がなされ、二次被害が発生することはなかった。本来、この手の事態が生じた場合、警察や消防などが対処・介入するのだろうが、私の置かれている立場上、公にするわけにはいかず、内輪で処理された。

 さらに、私が昏睡から目覚めたのはらしい。しかし意識混濁が続き、今になってようやく意思疎通が図れるようになったようだ。
 つまり、私はかれこれ3週間ほどここに留め置かれているということか。道理で凌遅のリハビリも進むわけだ……。別の意味で気が遠くなりかける。
 もうじきが帰国する。そのための準備も整えなければならないのに、こんなことになってしまうとは。

 それにしても件の神経剤は、いつどのようにして私の身体に取り込まれたのだろう。
 凌遅の病室は基本的に入り口が開放されている。廊下は人の行き来が多いので、空中散布された場合、周辺の人間も被害に遭っていておかしくない。でもそのようなことはなかった。
 どこかで皮膚に付着したのか。いや、私はほとんど病室の外へは出ないし、凌遅と同じ部屋で生活しているのに、私だけが曝露するのはやはり不自然だ。
 だとしたら……。
 
 医療スタッフがバイタルチェックと一通りの処置を終えて退室したので、私は改めて凌遅に説明を求めた。すると案の定、聞きたくなかった事実を知ることとなった。

「曝露経路はだそうだ。君が盛られたのはおそらくパウダー状のもので、効果が表れるまで時間がかかる。接触してから全身に症状が広がるのに、18時間ほどかかることもあるらしい。もし蒸気を吸入すれば数秒で倒れるというから、不幸中の幸いだった」

「…………」

 私が倒れた日は、朝から何も口にしていない。最後に飲食したのは前日の夕方、凌遅のリハビリ中にウコバチが淹れてくれた水出しのお茶だ。おしゃれな角型形状のボトルからマグカップに注いでもらったのだが、よく冷えていて美味しかった。おかしな風味は一切なかった。しかし例の神経剤は無色透明な上、特別な味もにおいもしないというので参考にならない。

 信じたくないが、状況的にウコバチが下手人である公算が大きい。しかも、彼女は私にお茶を提供した後、「暑いな」と言って窓際に行き、換気をしていた。もしかすると、私がお茶を飲む間、誤って接触しないように考えての行動だったかも知れない。
 
 ひどいめまいがし、胸が痛む。息が苦しく、叫び出したくなる。
 でもそれは、毒のせいではない気がする。
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