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第9章

64 叔父 ⚠

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 母方の叔父である繁崎しげさき一緒かずおは、写真事務所を構えるフリーフォトグラファーだ。学生時代から度々個展を開き、大きな賞を受賞したこともあると聞いているので腕は確かだと思うが、私には芸術の素養がないため、理解が追い付いていない。
 ただ、コンスタントにオファーが来ており、国内外を問わず精力的に飛び回っていることを考えると、そこそこ売れっ子なのかも知れない。

 件の写真事務所は私の生家の近くにあったので、時間がある時はちょくちょく顔を合わせていて、祖母が健在だった頃は皆で旅行に行くこともあった。叔父は仕事の関係でいろいろな景勝地や穴場を熟知している上、各方面に伝手つてがあったので、ずいぶんと美味しい思いもさせてもらった。

 このような職業柄、叔父はフットワークが軽く、コミュニケーション能力も高くて、他人との距離を縮めるのが上手かった。飄々ひょうひょうとした人好きのする性格で、母だけでなく父とも実の兄弟のように親しく、私も幼い頃から可愛がってもらった。

 父と叔父は愛煙家だが、私が小さいうちは自宅敷地内での喫煙を母から堅く禁じられていたので、二人はよくドライブがてらタバコをみに出かけていた。ちょっとそこまでのつもりが往復200キロメートルもの距離を移動してしまったなどと言って、母の顰蹙ひんしゅくを買うことも一度や二度ではなかった。

 ある晩、あまりにも帰りが遅くなった二人に、母が苦言を呈したことがある。

「まったく……夕飯までには戻るって言うから待機してれば、一服するのに一体何時間かかってるの、二人とも。椋、お腹空かして待ってたんだからね? せっかく作ったご飯も冷めちゃったし……」

「面目ない。走ってるうちに気分が良くなってきてしまって、気が付いたらこのありさまだ」

 母にお詫びのお菓子を手渡しながらすまなそうな表情を浮かべる父の横で、叔父は呵々かかと笑った。

「あはは、悪かったね。だけど、もう我々の性分だと思って諦めてくれ。私達は風なんだ。一つ所には留まっていられないんだよ。風の吹くまま気の向くまま、明日は明日の風が吹くってね。それに、姉さんの料理は冷めても美味しいから、つゆいささかも問題ないさ」

 これを聞いた母は、「そんなふざけたことばかり言ってるから、留実るみさんにも逃げられるんだよ」と呆れていた。

 留実さん――叔母のことはまったく覚えていない。私が赤ん坊だったこともあるが、二人の結婚生活が思いのほか早くに破綻してしまったからだ。
 何でも、叔父が何度目かの海外出張から戻ったら、叔母は「一緒に過ごす時間が少なくて寂しい。これ以上、耐えられません」という書き置きを残して実家に帰っていたという。
 相性自体は悪くなかったそうだが、互いの価値観の相違を受容できず、結局離婚に至ったらしい。

 母のストレートな突っ込みを受けた叔父は、
「おいおい、勘弁してくれ。まだ心の傷が生乾きなんだから、お手柔らかに頼むよ」と肩を竦めていた。

 彼は根っからの日本人で、見た目も至って平凡だ。だが纏う空気に余裕と勢いがあるせいか、まるで欧米人のような芝居がかった仕草が不思議とハマっていた。

 私はそんな独特の世界観を持った叔父のことが好きだった。


 一つ、印象深い記憶がある。小学校に上がった年の誕生日に、叔父がコンパクトデジタルカメラをプレゼントしてくれた。私は大喜びで、それから毎日、目に付いたものを片っ端からカメラに収めていった。

 某日、ふらっと訪ねてきた叔父に、撮り溜めた写真を見せて欲しいと言われたので、二人で液晶モニターを眺めていた時のことだ。
 叔父が一枚の写真に釘付けになった。それは数日前、自宅近くの道端で撮影したスナップ写真だった。
 被写体は野良猫だ。ただし、その猫には眼球がなく、はらわたの一部が出ていた。おそらく交通事故に遭ったのだろう。以前から近所で見かけることがあった茶トラの猫で、見つけた時はカラス達についばまれていた。とてもショックだったのだが撮らずにはいられず、夢中でシャッターを切った。

 何故そんなものを撮ったのかわからない。ただ、馴染みのある命が絶えている様が切なく、同時に目の前の“死”が新鮮で、切り取っておきたくなったのかも知れない。

 叔父がいつになく真剣な眼差しでその写真を見つめているので、私は叱られるのではないかと不安になった。
 両親は寛容だが、世間一般がこういった“穢れ”を殊更に嫌うことを理解しているからだ。
 あまつさえ叔父が撮影しているのは、主に世界各地の美しいものだ。きっとこんな不吉なモチーフは否定されると思った。

「叔父さん、それ消すからカメラ貸して……」

 私がカメラを取り返そうとすると、「椋ちゃん、この写真を撮った時、どんな気持ちがしたか覚えているかい」と訊かれた。

 意外なことを言われ、私は思わず叔父の顔を見る。
 怒っている様子ではないし、むしろ興味を抱いているような雰囲気だったので、素直に感じたままを伝えた。二言三言で終わるかと思ったのに、知らず知らずのうちに口数が多くなる。

「――今、話してて、私、この猫のこと好きだったんだって気づいた……」

 言葉にした途端、ぼやけていた感情にピントが合い、涙が零れた。

「そうか……」

 叔父は私の話を最後まで黙って聞き、

「面白い子だね、君は。さすがは姉さん達の娘だ。その感覚、大事にした方がいいよ」

 そう言って私の頭を撫でた。どういうことかわからず困惑していると、叔父は目を細めて話し出した。

「君のお母さん、今でこそしっかり者キャラに見えるけれど、昔はすごいおてんばでね。よく何も言わずにいなくなって、みんなを心配させていたんだよ」

「お母さんが?」

「そうとも。幼稚園の頃、虹のふもとを見るんだと言って何キロも先まで一人で自転車を走らせていたらしいし、椋ちゃんと同じ年頃の時は、深夜こっそり裏山にカブトムシを捕りに行った。熟睡していた私を叩き起こして、お供にしてね。もう少し大きくなってからは、いつの間にかお金を貯めて一人でインド旅行に行ったりしていたっけ。とにかくじっとしていなかったな。さすがに椋ちゃんが生まれてからは気にするようになったみたいだけど、私より断然、男らしかったよ」

「嘘みたい……」

 衝撃的なエピソードに驚く私に悪戯っぽい笑みを返すと、叔父は続ける。

「お父さんも穏やかに見えて活動的だね。好きなことのためなら、どこまででも出かけて行けるタイプだ。二人とも好奇心旺盛で偏見のない素敵な人達だけど、君にもそれが遺伝してるとわかったから、何だか面白くってさ」

 何故そこに繋がるのか理解不能で、私は首を傾げるしかなかったが、叔父の中では整合性のある結論のようだった。

「あと、この写真だがね、お世辞抜きにとてもいい。こういうセンスの良さは、私に似たようだな。誇ってくれて構わんよ? はははっ!」

 これを聞いた時、嬉しかった。
 私は幼い頃から自分に自信が持てない性格で、博識な父や快活な母に引け目を感じていた。何か壁にぶつかる度、経験値の差を考慮に入れず、何故両親のようにできないのだろう……もしかして血が繋がっていないのでは……などと悩むこともあった。
 だから、確かに私は両親の子なのだと思うと、気持ちが明るくなる。
 また、才能豊かな叔父に似た部分もあると聞けば、一気に自分の存在価値が増したように思えた。

 それに、自分が大切だと感じているものを批判されなかったことも喜ばしかった。

「叔父さん、ありがとう」

 照れながら感謝を伝えたところ、彼は「こちらこそだよ、椋ちゃん。君が素敵な子に育ってくれて、私は嬉しい。自分の感性を大切に、いろいろなものを見て、聴いて、ますます豊かな人になってね」と言って破顔した。


 傍目にも私達家族と叔父は仲が良かったと思う。特に三人の大人達は背丈や纏う空気も似通っていて、三つ子と言われても違和感がないほど親和性が高かった。

 ところが母が亡くなってからというもの、父は人を遠ざけるようになり、叔父との交流も薄れていった。ここ数年は年賀状の遣り取りくらいしかしていなかった気がする。
 どうにか以前のような関係に戻って欲しいと願っていたが、それは端から不可能な話だった。

 父は母を救えなかったことを気に病んでいたのだろう。日頃から親しく交わり、叔父と母の睦まじさを知っているからこそ、合わせる顔がないと悲観していたのかも知れない。況して、実の娘から人殺し呼ばわりされた後だ……。

 私とは対照的に、母の死に関して叔父は一言も父を責めなかった。それどころか、「大変だったね、義兄にいさん。椋ちゃんも。出来ることはこちらでしておくから、まずは休んで。二人が弱っていたら姉さんが心配しちゃうからね」と労わり、寄り添おうとしてくれていた。この対応がどれだけありがたかったかしれない。

 だが、それは表面上のことであって、彼が心の底で何を思っていたかは知る由もない。


 ふと思った。もしバエルが叔父であるなら、すべての辻褄が合うのだ。

 飄然ひょうぜんとした仮面の下で、最愛の姉をむざむざ死なせた義兄への怒りを募らせていたとしたら。
 罪悪感に苛まれ、自暴自棄になっていた父をLR×Dへと誘導し、凌遅と結びつけたのだとしたら……。

 ずっと謎であった“父を素材にした理由”に得心が行き、凌遅やベリトの説明にもうなずける。

 残る疑問は“私の素質を確かめたい”という動機についてだが、これまでの自分自身と叔父の言動を省みれば、何となく合点が行くのだった――。

 考えがまとまった時、私は妙に落ち着いていた。哀しさや苛立ちは込み上げて来ず、すっきりしたというのが素直な感想だ。
 仇敵の正体に気づいた結果、こんな思いがしようとは、少し前まで想像だにしなかった。


 私は叔父が好きだった。彼が仕事を愛し、自由を愛し、母を、父を――おそらく私のことも――大切に思っていたことを知っている。

 状況が変わった今でも、彼を慕う気持ちは変わらない。

 しかし、事実と感情はわけて考えねばならない。

 来月、が帰ったら、一からじっくり話をしよう。久しぶりに、腹を割って。


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