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第1章

1 花弁 ① ⚠

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 自宅の玄関先に辿り着いたのは、午後7時を少し回った頃だったと思う。通常であれば5時過ぎには帰れる予定が、放課後に行われた個人面談に電車の遅れがち合い、2時間近くもロスした。家に連絡は入れなかった。が、どのみち門限もないため問題はない。

 我が家は数年前から、今の安アパートに父と私の二人暮らしだ。別段不仲だというわけではないが、言葉を交わすのは朝晩の挨拶と連絡事項の確認時くらいで、もう何年もまともな対話はしていない。母が亡くなって以来、顔を合わせれば沈んでしまうことに嫌気が差し、互いに余計な干渉を避けるようになった結果がこれだ。いいことだとは思わない。しかし遺された不器用者同士、一旦生じた距離を縮めるのには時間が必要だった。
 鞄に手を突っ込み、キーホルダーを探す。マスクから漏れる息が眼鏡を曇らせる。4月も半ばに差しかかろうというのに、晩方の風は冷たかった。ただでさえ花粉で消耗しやすい時期だ。とっとと部屋に入ってくつろぎたい。

 父の帰宅時間は時に娘の私よりも早い。ならば鍵くらい開けておいてくれても罰は当たらないはずだが、ウチの稼ぎ手は私が帰ると確実に玄関を閉め切っている。こんな安物のシリンダー錠で防犯もへったくれもないだろうと思うが、これだけは頑として譲らなかった。
 こういう時、大らかで社交的だった母の姿が頭を過ぎる。学校帰り、ご近所さん達と立ち話をしながら「おかえり」と迎えてくれる優しい笑顔と、バラエティ豊かな手作りおやつが日々の楽しみだった。料理上手な母の作る食事はどれも美味しく、家族で囲む食卓はいつもあたたかかった。
 そんな毎日が変わってからどれくらい経ったろう。ここ数年、父は会社とアパートを往復するだけになった。母の死後、をきっかけに他県へ引っ越したので、本当の兄弟のように仲の良かった叔父とも疎遠になりつつあり、休みの日も自室からほとんど出てこない。だから私は無理にでも用事を作って外出するか、ベッドでゴロゴロしながら時間を潰している。
 父は決して根暗ではない。ただ、明朗な日々を過ごすきっかけが掴めないだけのことだ。そして、私も。

「ただいま」

 なおざりな口調で家人に帰宅を知らせる。奥からはいつものように小さいテレビの音が漏れていた。薄明かりの中、靴を脱ごうとして、ふと猫の額ほどの三和土たたきに目が行く。見慣れた革靴の脇に点々と散らばった、飲みものや水ではない濃厚な染みの跡。それがポタポタとリズムを刻みながら廊下を渡り、リビングへと続いている。
 すぐに何かあったと察しがついた。病気か怪我か、それとも……。いずれにせよ、尋常でない出血の量に対して不自然なくらい静かな室内が、声高に事態の深刻さをしらせている。
 急病なら一刻を争う。しかし仮に“そう”なら、得体の知れない者が潜んでいる可能性のある室内に踏み込むのは危険過ぎる。

「………」

 あれは5年前の今頃のことだった。母が死んだ日、父はいつになく長風呂をしている母に声をかけようか迷っていたらしい。視聴していたテレビ番組が一区切りついたらでいいだろうと思ってしまったのが間違いの元だ。通常なら娘の私に様子を見に行かせることもできたが、修学旅行で不在だったのが災いした。
 旅館で友人と談笑していた私を担任が迎えに来て、何が何だかわからないまま病院へ向かう道中の張り詰めた空気、におい。思い返すと未だに胸が苦しくなる。“防衛機制”とやらがそうさせるのか、病院に着いてからの記憶は曖昧だが、最愛の母の急死を受け入れねばならなくなったあの日の衝撃は今でも脳裏に焼き付いている。
 あと5分発見が早ければ助かったなどと言われても、それは結果論であってどうしようもないことだ。もっとも、今だからこそそう思えるようになっただけで、私は当初、泣きながら父をじった。しかし一切の反論をせず「そうだな……。父さんのせいだ」と憔悴した顔で力なくつぶやく父をそれ以上責めてはいけないと悟り、非難を自重してからというもの、私の口は湿りがちになった。

 同様に件の話を持ち出さないのが暗黙の了解となった。でも教訓にはできる。そう思って、父と私はいつもさり気なく相手の行動を気に留めていた。仕事帰りに切れかけていたマスクを買って来たり、酔い潰れてテーブルに突っ伏す背中にブランケットをかけたり、スーパーで総菜を見繕う時、相手の好物をチョイスする程度だが、可能な限りの配慮を交わしてきたつもりだ。多少ギクシャクしてしまったとは言え、互いがかけがえのない存在であることに変わりはないからだ。

 帰宅したら大切な家族がいなくなっていた。こんな経験はもうたくさんだ。

 私は意を決し廊下に上がった。
 瞬間。
 生臭い風が吹いた。
 嫌なにおいだ。生ゴミとも汚物とも違う、何とも形容しがたい強烈な汚臭。私はマスクの上から鼻口を押さえた。これはもはや疑う余地がない。

 何かが、奥で腐っている。

 その何かが父でないことを祈りながらそっと歩を進める。気配を殺し、テレビだけが息づくリビングを覗き見た途端、私は声を失った。
 流れ出す冷気の先には、赤黒い海があった。
 煌々と照らされた室内に浮かび上がる小さな血溜まり。椅子もテーブルも取り除かれ、ビニールシートが広げられた床一面、花弁のような薄さに削ぎ落とされた肉と脂肪の欠片が、放射状に敷き詰められている。いつか見た河豚ふぐの薄作りを朱殷しゅあんに染めたみたいだった。
 固まる視界の端に動くものが映る。はっとして注意を向けると、ほんの鼻先に屈み込む人影の姿があった。紙袋のようなものを被り、こちらに背を向けているため表情は見えないが、体型から男だとわかった。丁度流れ始めた焼肉のたれのCMをバックに、彼は包丁に似た刃物で細長い肉の塊を丁寧に削り取っていく。私の存在に気付いていないのか、作業の手は止まる気配がない。一枚削いでは床に並べる。その度にぴたぴたと湿り気を含んだ音が響いた。
 数秒後、CM明けのバラエティ番組の喧騒が流れ込む。神経が軋み、テレビの前に置かれた大きな黒いビニール袋を捉える。丁度、エアコンの吹き出し口の真下で、骨か内臓と思しき肉色の部品がはみ出ていた。

 何だ、これは。

 何が起こっているのかわからなかった。いや、本能が理解するのを阻んだように思える。とにかく通常では考えられない危機的状況に置かれていることだけは確信した。しかし回線がショートして思考が繋がらない。
 立ち尽くす私の前で、件の男がやおら振り返った。紙袋に開いた二つの穴。片手に新たな“パーツ”を持っているのが見えた。無造作に掴み上げられた塊の一部に、白髪交じりの頭髪が揺れた気がした。

 それ以降のことはよく覚えていない。

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