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本編
3話「後ろの正面だあれ」
しおりを挟む屋上のことが頭から離れないまま、俺はマンションの駐車場へと到着した。
車内の時計を確認すると、既に夜の九時前。
「あっ」
しまった。夕飯、何も考えてなかった。あるもので適当に作るか……。
エレベーターへ乗り、該当階へ到着すると、とぼとぼと廊下を歩く。
気のせいかな、足が重いような。
自宅のドアを解錠し、荷物を詰め込んだ鞄を玄関先に置くと、洗面台へ直行した。
蛇口から溢れる真水でバシャバシャと顔を洗う。
そして顔面を上げ鏡へ写る俺に問う。
「なんだよ、あれ。確かに――いたよな」
――
当然ながら、返答などあるハズも無く。
暫く沈黙し、しっかりしろ!夢であるのなら、戻れ、覚めろ。と両手でパンッと自分の頬を叩く。
……痛い。そういえば屋上で転んで強打した背中も、痛い。散々だ。
あの彼が抱きしめた感覚が、まだしっかりと残っている。
――朝。肌寒い。
スマートフォンからアラーム音が聞こえる。
デフォルト音源の素っ気ない電子音。
「んーー……うーー……るさい」
慣れたもので、左手を布団の中から伸ばしスマートフォンに触れると、画面を見ることなくアラームを止める。
もう少しだけ寝ていたくて、大きく寝返りを打った。
顔を逆方向へ向け、体勢を変える拍子にほんの少しだけ薄目を開けた俺の目と鼻の先に、誰かの気配を感じた。
「…………」
「――おはよう」
昨日屋上で耳にしたような声が、そして、ぼんやりと姿が見えるような?
寝ぼけてるのか、俺は――。
「うんー、……おはよ」
瞼を閉じて不意に返事をしてしまったが、俺は一人暮らしだ。
誰かが居ること自体おかしい。
「い、いやいや! 誰! 君、誰!」
俺はダークグレーの長袖にスウェットパンツ姿で、枕を胸元に抱きしめながらベッドから飛び起き、三メートルほど気配がした場所から距離を置いた。
今、目の前に昨日屋上で遭遇した彼がいる。
幻覚か、夢か――。
それとも俺が、おかしくなってしまったのか。
「びっくりしますよね。ごめん」
彼が唐突に謝った。
「どうやって部屋に入った!? 待て、やっぱり警察だ、あ、あれか、迷子だろ! 家出!?」
何がなんだか分からない状態で、取り敢えず警察に連絡しようとした。
が、スマートフォンはベッドの枕があった位置にちょうど置かれていた。
しまった――――。
スマホを取り返すべく、ゆっくりと手を伸ばそうとする。不気味な存在の彼がまだ怖い。
「ん? あ、これですか」
その青年はスマホを徐に手に取ると、俺に向かい穏やかな表情で、はい。と丁寧に渡してきた。
「んんんっ!」
俺は威嚇するように唸りながら、光のような速さで、それを取り返す。
だが、昨日疲れ果てていたせいで、珍しく充電をし忘れていたようだ。
バッテリー残量が残り二パーセントだった。二パーセントって……。絶望的だ。
「えっと、警察、けいさつ」
何番、だっけ。一九九……。一〇九……。一…………。
バッテリーの減りが気味悪いくらいに早く感じた。
残量が、もう限界。一……パーセント……。俺の心も折れかけていた。
スマホを持つ手が震えている。
落ち着け、と心の中で何度も自分に言い聞かせるが、逆効果だった。
きっと、彼は何かよくない得体の知れない存在、若しくは危険な人物に違いない。と、様々なマイナスの妄想が頭の中を支配した。
体が一気に強張る。
そんな中、彼はベッドの上でこちらをキョトン顔で見ていた。
「……あの、もしかしてどなたか呼ぼうとしてますか? 怪しいものではないのですが」
「は!? どう見ても怪しいから! 警察に預けます! 今から呼ぶから! ほ、ほ、ほんとだぞ!」
「たくとさん、ですよね。僕、ちゃんと名乗ってませんでした。安野って言います。安野……そら」
彼が、名乗った。
俺、再び硬直。スマートフォンから彼の方に視線だけを向ける。
「あんの、そら? 聞いたこと無いぞ。な、なんで俺のこと、知ってる!」
「まあ、はい。少しだけですけど、知ってます。理由は――言えません」
なんとか詳しく話を聞こうと、俺は深呼吸をした。
よく見ると、安野というその青年は、屋上で見た時と同じ様な服装だった。
月明りだけであの時はよく見えなかったが、無地の白いオーソドックスな半袖シャツ、黒のスラックスで、裸足。
この季節に夏の装い。しかも裸足なんて。どう考えても『普通』じゃない。
やはり、何かがおかしい。
「うん。怪しい」
心の声が、そのまま口に出てしまった。
「あの、今日は火曜日、ですよね。お邪魔しておいて、こんなこと言うのもあれなんですが。お時間……大丈夫ですか?」
え?
手にしていたスマートフォンは既に電源が切れ、画面がシャットダウンしていた。
俺は掛け時計を見る。
「や、やば! 出勤! 遅れる」
てんてこ舞いだ。出勤しなくてはならないが、彼を警察に任せるのもなんだか気が退けるし、逆に俺が怪しまれそうな気がしてならない。
学校の駐車場で車の中に残しておくのも、激しく誤解を生みそうな予感がする。
「君、両親は? 連絡できないの?」
彼に遠慮せずに部屋着を床に脱ぎ捨て、着替える。この状況、既に朝飯どころではない。
「いません。何も持って無いです」
「帰る場所がないのか。というか、君は俺にどうしてほしいんだよ! 家出なら一緒に警察、行くか?」
「家、無いです。警察は、ちょっと……。ここで、お留守番なら」
「――安野くんって言ったね? 君、本気で言ってるの」
「はい」
俺は頭を抱えた。自分のことを知っている他人が、何故か留守番をしたがっている。
こんな年齢の知り合い、後輩、親戚――いたっけ。
「話は帰って来てからゆっくり聞くからな!」
身支度を整え、荷物を持って玄関へと向かう。安野はトタトタと裸足で廊下へ見送りに来て笑顔で、
「僕、大人しく待ってますから。いってらっしゃい」
と。拍子抜けしてしまった。
ドアノブの鍵を開けようとしたが、既に開いていた。
「おい、マジか。戸締まり、し忘れてた? 相当疲れてたんだな、俺」
このようなことは今まで一度もなかった。ここから、彼が入ってきたというのか。
疲れ果てていたとはいえ、不用心過ぎる。
「本当に大人しくしてるんだぞ! 変なことしたら許さないから」
「はい。――なんですか、変なことって」
「悪いことだよ! 窃盗とか!」
「……僕ドロボウじゃないですよ?」
「分かったよ! 絶対だな? 絶対だぞ!」
何者かもわからない、不法侵入者に謎の念を押して自宅に放置してしまっている俺、本当にどうかしている。
非常識だ。
それでも、彼を信じて大丈夫。根拠のない自信と確信が、俺を勤務先へと向かわせた。
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