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【フェリクス編】

05.引き裂かれる契約書

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「もし好きな人ができたら――その相手が下位貴族だったら、メリッサはどうする?」

 そうフェリクスに訊ねられたとき、メリッサは十代半ばだった。
 珍しくモレナール家の自邸に、ルーベンス一家が招待されたときのことだ。
 両家で昼食をともにしたあと、フェリクスはメリッサを庭園に連れ出し、二人きりになると唐突にそんな問いを投げかけてきた。
 メリッサは困惑しながらも考えてみる。
 この頃はまだ、自分が誰かを好きになるなんて考えたこともなかったのだ。
 フェリクスがヒロインを好きになったら……と、そればかり考えていたため、結局、その質問に答えることはできなかった。

「――考えたこともありません」
「そう……。今ほども贅沢できず、そのぶん課される責任は軽くなるかも知れないが、王都で暮らすことが難しくなって、田舎の領地で暮らそうとなるかも知れない。そう考えると、どう思う?」
「――分かりません。その時になってみないと」
「きみのお父上が、『田舎にやるのは嫌だ』と言って、邸に閉じ込めてしまうかも知れない。その時きみはどうする?」

 思い返せば、この時にはもうフェリクスは、ルーベンス侯爵の異常さに気づいていたのかも知れない。あるいはモレナール公爵夫人から聞かされていたのか――。
 だがメリッサ自身は父親の真実など知らなかったため、それにはこう答えた。

「お父様がそれほど反対なさるのなら、わたしの我儘を押し通しても相手の方や相手のご家族にご迷惑がかかることでしょう。相手の方と結婚することは諦めると思います」
「……では、相手が僕なら?」
「? それはどういう意味でしょうか」
「メリッサと僕はすでに婚約している。でもルーベンス侯爵に反対されているとしたら、きみはどうする?」

 メリッサはしばし考える。
 先ほどは相手が下位貴族だから諦めると言った。だが、フェリクスは自分の家よりも家格が上の高位貴族だ。

「……結婚は、両家の合意が必要です。ですが、現在はすでに婚約が成立している状態で、これを覆すには相当の理由がないと難しいと思います。何よりフェリクス様は家格が上の公爵です。諦める理由がありま、せん……」

 考えるときの癖で視線を落としていたメリッサが、その視線を上げてフェリクスに向けたとき、彼の顔に浮かぶ笑みを目にして息をのんだ。
 少年から青年へと成長過程にある美男子の笑みが、まぶしく感じてメリッサは瞬きを繰り返してしまう。

「それを聞いて安心したよ。僕の両親も、僕自身も、きみとの婚約を解消するつもりはないからね」

 メリッサはそう断言するフェリクスに胸をときめかせたが、高揚する気持ちをすぐに抑え込んだ。

(ヒロインが現れたら、きっと考えも変わるわ)

 ところが、それから数年経った現在、ヒロインである聖女が現れてもフェリクスの様子に変化はなく、それどころか昔と変わらずあのまぶしい笑みをメリッサに向けている。
 昔と違うのはただ年齢を重ね、大人な雰囲気が色気をまとうようになったことだろう。

「フェリクス様、それは……」

 モレナール邸に匿われてから三日経ち、気力も多少回復すると、フェリクスから『会いたい』という申し出があった。
 もちろん断る理由などなく、メリッサは自分にあてがわれた部屋でフェリクスと再会し、助けてもらった礼をした。
 フェリクスはいつものように、柔らかな笑みを浮かべて「助けられて良かった」とメリッサの無事を喜んだ。
 だがその後、彼が懐から取り出した二枚の紙を見て、メリッサは息をのむ。それは自分とフェリクスが署名した、“あの”契約書だったからだ。

「『どちらかに好きな人ができたら、互いの合意のもと婚約を解消する』――いま思えば、どうしてこんなものに署名してしまったんだろうと、当時の自分を罵りたくなるよ」
「……」
「あの時の僕はただ、必死に訴えるきみが可愛かったのと、家同士の婚約が僕らの一存で解消できると思っているきみが可哀想だったから――メリッサの気が済むならと思ったんだ」
「フェリクス様……」
「ルーベンス侯爵の執務室にこれがあったという事は、あの男に見られたという事だろう? 大方部屋を探られたんだろうけど、これを見たせいで一気におかしくなったのかも知れない」

 父親との会話を思い返せばそれもあるかも知れない、とメリッサも厳重に保管しなかったことを後悔する。
 ただ、フェリクスが後悔しているのはもっと前の段階――契約書を作ったことそのものらしい。

「こんな契約書なんて作らなければ良かった。署名してもしなくても、僕の気持ちは変わらなかったんだから」
「フェリクス様、その、わたしもこんなことになるとは思わず……ご迷惑をおかけしてしまい」
「メリッサ」

 自分が提案した契約書のせいで迷惑をかけたのだと、謝ろうとしたが遮られてしまった。
 驚いて思わず見上げれば、不快そうに眉根を寄せる彼の視線とぶつかる。

「きみは何も分かっていない――いや、分かろうとしてくれない」
「フェリクス様?」
「僕の気持ちは変わらない。僕は今も昔も、メリッサを想っている。好きなんだ」
「っ!?」

 メリッサは再び息をのむ。
 フェリクスは聖女に関心を寄せるどころか、ずっと気持ちはメリッサに向けていたのだという。
 彼の告白にメリッサは驚愕するが――

(考えたこともなかった――いいえ、考えようとしなかったんだわ。心変わりされるのが怖くて……)

 弱くて情けない卑怯な自分に気づき、メリッサは居た堪れず俯いてしまう。
 メリッサの表情の変化を見てか、フェリクスも若干声を落として問う。

「なぜ、こんな契約書を作ろうと思ったのか、本当の理由を教えてほしい。幼いから、好きな人ができるかも知れないから、なんて――理由はそれだけじゃないんだろう?」

 静かに問いかけられて、メリッサは膝の上で握り締めた手を見つめながら口を開いた。

「わたしは……人から好かれるような人間ではないと思ったのです。お父様が再婚し継母と義妹ができましたが、家族として接しようとしても心を開いてもらえませんでした。それどころか、一部の使用人も継母と義妹の味方になり、邸内で分断を起こしてしまいました」

 その経験からメリッサは、自分はやはり“この世界”の悪役令嬢という役割から逃れられないのだと思ってしまった。

「それと当時、近々聖女様が召喚されるだろうという話も聞きました。先日、オリフィエル殿下が仰ったように、聖女様は王族の方と結婚するのが慣例となってはいますが、強制はされないはずです。聖女様の将来に関してはご意思を尊重する、となっているはずです」
「それが……?」
「その……フェリクス様はとても、魅力的な方です。聖女様がお慕いになる可能性は十分ありますし、フェリクス様としても、モレナール公爵としても、聖女様の求めを断る理由などないと思うと――」

 口にしながらメリッサは、自分の顔が熱くなっていくのを自覚する。
 貴族としての考え方を言葉にしているだけなのに、フェリクスに選ばれるだろう聖女に対し――想像であるにも関わらず――妬み、拗ねているような気分になってしまって、先ほどとは違う意味で居た堪れなくなってしまう。
 当然、視線も上げることができずにいたが、紙片をめくるような音がして思わず顔を上げた。
 フェリクスはなぜか、重ねた二枚の契約書を両手で掲げ持っていた。いや――

「フェリクス様?!」

 無言でフェリクスは両手を左右に捻って、乾いた音を立てて契約書を引き裂いていく。メリッサが見つめる目の前で、二枚に引き裂かれた紙はさらに四つ、八つと細かく破かれていく。
 言葉もなく驚くメリッサだったが、破かれる紙の音の軽さに、当時の幼い自分の軽率さを重ねてしまった。
 フェリクスは引き裂いた契約書を再度テーブルに置き、晴れやかな笑みをこぼすと口を開いた。

「メリッサが何を考えていたのかは分かった。だから、改めて言おう。僕はメリッサが好きだ。きみとの婚約を解消するつもりは一切ない。そしてこの契約書がなければ、きみは問題を起こさず僕との婚約を解消することはできない。つまり、きみは僕と結婚しなければならないということだ」

 口調は爽やかであるはずなのに、その言葉からも、こちらを見つめる熱い視線からも、束縛じみた思いが滲んでいるのを感じ、メリッサは無意識に緊張から喉を鳴らしていた。
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