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戦火の中へ
④
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ハンナからの伝言通り、エアルは日が沈んだあとに厩舎へと足を向けた。
横に長い厩舎の窓から、暖色の明かりが漏れている。明かりを頼りに出入口へと回り、開けっ放しの扉から中へ入ると、糞と青草の混じったなんとも言えない匂いが、そこかしこから香った。
いつもは厩舎長や厩舎担当の下僕が常に馬の世話をしている場だが、今夜は出払っているのか見当たらない。
奥の馬房から人の気配を感じたのは、そのときだ。フンフンと馬の鼻息が厩舎のくすんだ天井に響き、「大丈夫だって」となだめるような声が続いた。ローシュの声である。
馬房の陰から、馬のたてがみを撫でる男の姿がちらりと見える。同じくして、ローシュもエアルの存在に気がついたようだ。
目が合うと、「わざわざ来てもらってすまないな」と落ち着き払った声で言った。
ローシュと黒馬のいる馬房前まで向かう。
「――大丈夫とは?」
ローシュが馬に対して向けていた声掛けが気になった。尋ねると、ローシュは馬の鼻を撫でながら答えた。
「こいつが心配そうに俺の顔に鼻をくっつけてくるんだよ。だから大丈夫だって言い聞かせていたんだ」
エアルは思わず眉をひそめる。
「戦地には連れて行かないのですか?」
「ああ。こいつは砂漠地帯には慣れていない。もちろん戦争にもな。連れて行っても、無駄死にさせるだけだ」
『無駄死に』という言葉が引っかかる。まるで始まる前から、戦況が悪くなることを知っているみたいな口ぶりだ。
「こいつの面倒は厩舎長に頼んでおいたが、エアルもたまには様子を見てやってくれないか?」
「……断ってもどうせ無駄なのでしょう?」
「ああ。拒否権はないと思ってくれ」
「しょうがないですね」
渋々承諾すると、ローシュは嬉しそうに「エアルが可愛がってくれるってさ。よかったな」と馬の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「可愛がるとは約束していませんが――……まあいいです」
はあ、とため息をつく。想像通りというか、それ以上というか……。ローシュはエアルが予想していたよりも平常心に見えた。
初めての外国での公務。それも戦争の最前線に赴く直前とは思えないほど、落ち着いていた。
ローシュから見たエアルも同じだったらしい。エアルを見ながら、ローシュが感心するように口を開いた。
「エアルは相変わらず落ち着いているな。もっと強く止められるかと思ってた」
「私が止めたら『行かない』という選択肢を選んでいましたか?」
ローシュは言いにくそうに「いや」と苦笑する。目を逸らす様子から、やはり自分の意思で戦地へ向かうことを承諾したのだろうと判断できる。
「絶対に止められると思ってたから……会いたくなかった」
会いたくなかった、という言葉に胸を抉られる。ローシュに会えなかったのは偶然ではなく、避けられていたからなのか。ずっと会いたいと思っていたのは自分だけだったと知り、悲しくなった。
ショックを受けていることを知られたくなかった。エアルは動揺を隠すように目を伏せる。
ローシュは馬房の柵に寄りかかりながら、「でも」と発した。
「やっぱり会いたかった。会って抱きしめて……キスがしたくて堪らなかった」
ローシュの目が優しい。まっすぐな言葉と柔らかい眼差しに胸を鷲掴みにされる。泣きたくなんてないのに、顔の中心にぎゅっと力が入ってしまう。鼻の奥がツンと痛む。
ああ、もう。誤魔化せない。
「少し……外を歩きませんか」
エアルは鼻から大きく息を吸い、涙をこらえながらローシュを誘った。
ローシュの表情がぱっと明るくなる。
「これが俗に言うお散歩デートってやつか」
嬉しそうに柵をくぐって馬房を出る。近くの簡易椅子に腰かけ、厩舎用の長靴を脱ぎだす。
「お散歩デート? なんですかそれは」
「知らないのか? 市民の間では、散歩さえ逢瀬になるらしいぞ」
「市民の……人間の考えることはよくわかりませんね」
「な。俺も最初はそう思っていたよ」
ローシュは作業用の長靴から革製のロングブーツに履き替える。立ち上がり、出入口に向かって歩きながら振り返った。
「でも今わかった気がする」
前の自分なら、これはデートではないと否定していたかもしれない。ふとそんなことが頭をよぎったが、今はそうは思わない。デートという認識で結構だ。
厩舎を出たエアルとローシュを待っていたのは、空気の澄んだ夜空と、霧のような雲の合間から顔を覗かせる三日月だった。
足元は暗かったが、厩舎から庭園へと続く道は庭師の手によって整備されている。加えて一定の幅で足元を照らすランタンの明かりがあるおかげで、歩きにくさはない。
ザッ、ザッ、ザッと二人分の足音が地面を這って混ざり合う。整えられた道順に沿って歩いた先にあったのは果樹園だ。昼間なら庭師のヨハンが果物の世話をしているが、当然今の時間帯にその姿はない。
そのときだった。小雨がパラパラと頭上に降り始めた。途端に雨の匂いが足元から湧き立つ。
「ここで雨宿りしよう」
薔薇のガーデンアーチをくぐり抜けるローシュに続き、「そうですね」とエアルもアーチの下を通る。棚仕立ての樹の下に避難する。ヨハンが大事に育てているブドウの樹だ。
無造作に生えた蔓が棚に這い、絡みついていることで屋根のようになっている。確かにこれなら小雨程度なら凌ぐことができそうだ。
蔓の天井から生え下がっているのは、黒みがかった青い実たち。葡萄酒用の品種のブドウだ。以前ヨハンに実を一粒食べさせてもらったが、生食用より酸味が強かったものの、酒にするのがもったいないぐらい甘くて美味しかった。
そんなことを思い出しながら実がぎっしりと詰まった果実を見ていると、目の前でローシュの手がヒョイと横切った。何をするのかと指摘する間もなく、指でプチッと一粒捥いで口に放り込む。
まさかいきなり食べ出すなんて思わなかった。「ヨハンに怒られますよ」と注意すると、ローシュは「明日謝る」と悪びれもなく答えた。
ローシュは子どもの頃、よくこの果樹園に侵入してはブドウや桃、グレープフルーツなどを勝手に採っては食べていた。はしたないのでおやめ下さい、とエアルや他の使用人たちがいくら注意をしてもやめなかったのは、野菜や果物を育てた本人がまんざらでもなさそうに笑っていたからだろう。
庭師のヨハンは、今も昔も自分の作った野菜や果物を美味しく食べてもらうことが生きがいだとよく口にしている。幼い頃のローシュが口元を果汁に濡らしながら「おいしい」と言うと、嬉しそうに顔を潰していた。わんぱく王子を口では注意しつつも、その顔は孫相手に見せるそれのようだった。
そういうわけなので、エアルが注意したところでローシュを制する効果はない。
夕食はとっくに済ませたらしいが、馬の世話をするついでに小腹が減ったらしい。ローシュはブドウの実を食べながら「ここの果物は世界一うまい」と子どもの頃と変わらない口調で舌鼓を打つ。
明後日には戦地へと向かう男の姿とは思えない。エアルは小言をぶつけたい気持ちを飲み込んで尋ねた。
「どうして今回のお話をお受けになったんですか」
なんとなくローシュの考えは想像つくが、本人の口から直接聞きたいような気がした。
ローシュはブドウを食べる手を止めた。
「エアルと結婚したいと国民に宣言したあとの俺が、巷でなんと言われているか知っているか?」
「……いえ」
「フリューゲルに現を抜かす色恋王子」
ローシュは淡々と言い、手にしていた残りのブドウの実をいっぺんに口に入れた。プチプチと弾ける音が、ローシュの頬を通して聞こえてくる。
「俺に味方はいない。俺とエアルとの結婚を認めない者――いや、そこまでも行っていないか」
ローシュは寂しく笑う。
「俺がエアルを愛していることを認められない者が、この国にはたくさんいるんだ」
だろうな、と納得する。人間は弱い。特に大人になればなるほど、初めて見聞きするものに恐れを抱きやすくなる生き物だ。
「怖いんですよ。きっと」
「ああ、そうだな」
「ですが……認める認めない以前に、あなたの気持ちはあなたの中で生まれた、あなただけのものです」
気持ちとは違って、結婚は行動だ。王子の行動をとやかく言う者がいるのは仕方ないかもしれないが、目に見えない気持ちまで否定することは違うのではないかと思った。
「ははっ。だよな。たとえ俺の気持ちを受け入れてくれなくても、エアルならそう言ってくれるんじゃないかと思ってた」
「だってそうでしょう。実際、あなたの気持ちはあなたが認めた時点で事実になるんですよ。そこに他者が入る余地はない。とやかく言う権利もない。私はそう思います」
目の前にはいない国民に対して怒りをくすぶらせていると、ローシュはエアルの発言に対して「うん」と頷いた。
「だから俺はエアルを好きになった」
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