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再会
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バス停留所の待合ベンチに座りながら、奏は里沙と話したことを思い返していた。駐車場に車を停めた時よりも空は暗くなっている。
奏が里沙から『母が入院している病棟から一番近いバス停』として教えてもらったバス停のベンチに腰を下ろしてから、早二時間。
面会にやって来たと思われる人がバスから降り、そして帰るために停留所に沿って並んでは、やって来た循環バスに乗り込む様を何組も見送った。不審な目を向けられることもあったが、奏の存在に気づいた何人かは「いつもネットで見てます」や「お仕事頑張ってください」などと声をかけてくれた。
たった一度の来訪で、すぐに高辻と会えるなんて思っていない。高辻が定期的に訪れる場所らしいが、定期的といっても一週間に一度なのか一ヶ月に一度なのか、分からないのだ。無謀なことをしている自覚はあった。
六時前には完全に日が落ちた。バスの時刻表を照らす外灯の明かりだけが、奏の座るベンチの周りを浮かび上がらせていた。
もうすぐ冬になる。日が陰ると、スーツに纏われた肌が縮こまる。頬を撫でる風も冷たい。奏はトレンチコートのポケットに両手を入れ、感覚の鈍くなった指を温めた。
腕にはめた時計が、七時を過ぎた頃だった。何台も見送ったデザインの循環バスが、停留所に停まった。
ぱっと見たところ、車内にはあまり人が乗っていない。何度目かになる落胆を飲み込み、奏は自分の足先に目を落とす。その時だった。
「――社長?」
聞きなれた声を耳が拾った。顔を上げる。バスから降りてきたのは、恋しい男、ずっと会いたかった男――高辻だった。
驚いたような表情の高辻はジーパンを履き、黒のレザージャケットを羽織っている。目にかかるまで下ろした癖のある前髪に、うっすらと窺える顎の髭――それらが軽井沢で見たラフな姿に比べ、よりワイルドな雰囲気を醸し出している。
目の前に立つ男に、条件反射のように胸がドキッと弾んだ。
「どうしてここに……」
高辻の疑問の声に対し、奏は思わず「遅かったな」と言う。勝手に来ておいて何を言ってるんだと、自分でも思う。だけど、素直になるには、高辻がまだ遠い気がしてならない。
「それより、なぜあなたがここにいるんです?」
訝しげに高辻が奏を見据える。勘の鋭い男だ。奏が答えずにいると、「里沙ですか」と妹の名前を口にした。
「……あのお喋りが」高辻が呆れるようにため息をつく。
「申し訳ありませんが、着替えを持っていきたいので一旦母の病室に行かせてください」
高辻は右手の紙袋を見せるように上げた。奏は「あ、ああ」と頷く。自分が迷惑なことをしているということは知っていた。自分だって、仕事関係者が身内の入院する病院に突如押しかけてきたら迷惑だと思うだろう。
今すぐ帰ってくれ、と言われないだけましだと思う。だが心のどこかで、奏は不安だった。このまま離れたら、高辻は戻ってこないんじゃないか――。そう思うと、高辻の背中についていきたい衝動に駆られる。
ふと見上げると、高辻は何やらゴソゴソとジャケットを脱いでいた。うん? と首を傾げつつその様子を眺めているうちに、高辻は脱いだジャケットを奏の前に差し出した。
「えっ――」
「本当は一緒に来てもらいたいのですが、母は肺を悪くしています。身内以外は病室に入れないんですよ。この時間は病院のロビーも閉まっているので、これを」
奏は恐る恐る高辻のジャケットを受け取る。手に乗せたそれは高辻の体温で温かかった。
「羽織るなり膝にかけるなりして、そこで待っていてください」
高辻はそう言うと、奏に背を向けた。病棟に向かって小さくなっていく背中を見つめる。ジャケットを鼻に押し当てると、懐かしい匂いが鼻いっぱいに広がる。身も心も一気に温かくなった。
十五分足らずの見舞いを終えた高辻は、約束通りバス停の待合ベンチに座る奏の元に戻ってきた。「お母さんは大丈夫なのか?」と尋ねると、高辻は「寝てました」と一言。
前回のバスが、さっき出発してしまったばかりだ。時刻表によると、次のバスがやってくるまで約二十分。せめてそのあいだだけは、高辻もこの場にいてくれるだろうか。
相手の動向を窺っているうちに、高辻は奏の横に腰を下ろした。高辻の重みでベンチがわずかに沈む。
奏はジャケットを返し忘れていたことを思い出し、奏は膝にかけていたそれを引き剝がす。だが高辻は「そのままかけておいてください」と奏の慌ただしい手を制した。
「もう一度訊きます。どうしてここに?」
端正な顔がこちらを向く。奏は膝に置いた高辻のジャケットをぎゅっと握った。
「れ、礼を言いに来た」
「――は?」
高辻の眉根が歪む。
そうだ。奏と会社のために、高辻はこの五年のあいだ、よく働いてくれた。自分はその礼を……感謝を伝えに、来たはずなのに。
奏は高辻に顔を向ける。
「おまえも僕のことを、好きなんじゃないかと思ったからだ」
すると高辻は意外そうな顔をして、口を結んだ。ベンチの背もたれに背中を預ける。腕を組んで夜空を仰ぐ。
少し間を置いた高辻が空に放ったのは、
「何を言うのかと思えば……今さらですか」
予想通りともいえるし、違うともいえる。そんな高辻の言葉に奏は顔を下に向けた。尊大とも捉えられてもおかしくない発言をした今、どう続けばいいのか分からなくなる。
「社長は……いや、もう社長じゃないのか」
独り言のように呟いてから、高辻は「いい加減、この喋り方も飽きたな」と自嘲気味に笑った。
「どうしてそう思ったんです?」
奏は喉仏に力を込め「どうしてって……」と言い淀む。
「俺は所詮、ツギハギで繕った品のない人間だ。あなたには釣り合わない」
きっぱりと言ってから、高辻はフッと力が抜けたように笑って続けた。
「……そう思っていました。高校生の時から」
高辻の言葉に、奏は「えっ」と相手を見る。
目が合うと、高辻は知らなかっただろ、というように寂しそうな瞳を奏に向けた。
「当時はすいませんでした。逃げるみたいに学校を辞めてしまって」
言葉遣いはそのままだったが、喋り方の調子がいい意味で乱雑に聞こえた。きっと敬語さえ遣っていなければ、昔の高辻とそう変わらないだろう。同級生として、対等に話してくれている。それがこんなにも嬉しいなんて。
奏は「う、ううん」と首を強く横に振った。
高辻によると、奏のことを意識し始めたのは告白されてからだったという。父の借金のせいで学校を辞めざるを得なくなってしまったあとも、奏のことは心残りだったそうだ。
「人というのは目の前の現実に切羽詰まると、どうでもいいことから忘れていくんです。正直あなたのことは、すぐに忘れました」
ゴミ置き場で再会した雨の日も、高辻は奏のことを思い出すのに数秒を要したという。
新事実に、ちくりと胸に痛みが走る。
「いくら見つけた人間が学生時代に好きだった奴だとしても、あんな血まみれの男に声をかけますかね? しかもうちで働かないかとか、訳の分からないことまで言って。初めは引きましたよ」
分かっていたことだが、言葉にされると耳が痛い。「でも」と高辻が続ける。
「仕事をしていくうちに、あなたへの印象は変わっていきました」
高辻は長い脚を組み、奏を向いた。
「俺は本来遺伝子的な観点からすると、オメガとして生まれるべき人間でした。あなたは逆に、アルファとして生まれるべき人間だった。だからこそ……バース性に負けず、社会で活躍するあなたのことを、俺は尊敬したんですよ」
「……っ」
「完璧な秘書になろうと思いました。仕事の出来だけじゃない。見た目もしぐさも、言葉遣いも。完璧なアルファになって、あなたを支えようと――」
「本当に……おまえは完璧だった」
奏の言葉に、高辻は「光栄です」と言って、濃い夜空を見上げた。
「好意をもたれるのは、純粋に嬉しかったです。けど俺の実家は上履きも買えないほど貧乏で、育った環境もあなたとは天と地ほど違う。あなたとは釣り合わない……そう考えるのが、俺の中ではごく自然な気持ちでした」
奏はぐっと唇を噛んだ。自分の中では、高辻に惹かれることが自然だったからだ。
高辻は目を細めて、遠くを見つめていた。遠くに見える星に、所詮手が届かないと悟っているのだろう。それなら伸ばしてもいいのではと奏は思う。だが高辻は試しに手を伸ばしてみることさえ、諦めているようだった。
「あなたから抱いてほしいと言われるたび、俺がどんな気持ちだったか分かりますか」
突然の疑問に、奏は体に力が入る。
「おっしゃる通り、俺もあなたが好きです。それ以上に尊敬している。汚したいけど汚したくない、この辛さが……あなたに」
高辻の語尾が強くなる。夜空を見上げる高辻の表情は歪み、辛そうに見えた。
「俺がどんな思いであなたを突き放してきたと思って……っ」
高辻は長い息を吐き出して、うなだれるように頭を抱えた。
「理仁……」
男の肩に手を置くと、振り払われてしまった。どうしよう。どうしたらいいんだろう。混乱する頭で考える。
「あなたは眩しい。お人好しで、人を見る目がなくて、一途で……危うくて。あなたのせいで、俺は無茶ができなくなった。本当は今だって怖いんです。目を離したら、危ない目に遭ってるんじゃないかとか、変なアルファに傷つけられてるんじゃないかとか……っ」
高辻は「それに」と付け足す。
「あなたを傷つけるのが俺じゃない理由だって、どこにもない」
高辻は頭から剥がした自分の手を見つめた。指先が小刻みに震えている。
「だからせめてピルを飲んでほしかった。抱きたくなかったんだ。だってそうでしょう。距離が近くなればなるほど、俺は無茶ができなくなる。あなたに……執着してしまう」
執着――。まさか高辻の口からそんな粘ついた言葉が聞けるとは思わなかった。
「だから……僕から離れたのか」
尋ねると、高辻は両手をぎゅっと握り締め、「俺は完璧じゃないんですよ」と言った。
理性的な、完璧な秘書。五年のものあいだ、高辻を纏ってきたそれらが、剝がれていく。
拒まれる覚悟で、奏は高辻の拳を両手で包んだ。振り払われたが、それでもしがみつく。
本気で拒まれたら、アルファの力に自分は敵わないだろう。だとしても、どんなに抵抗されたところで奏に離すつもりはなかった。
「僕だって完璧じゃない。おまえには、みっともないところを何度も見せてきた」
「あなたの場合はヒートのせいにできます。でも俺は――」
「ヒートだったから、おまえに抱かれたかったわけじゃない!」
高辻の眉が、驚いたようにピクッと動く。
「おまえだから……っ理仁だから、抱いてほしかったんだ」
奏の手中にある高辻の拳が強張る。
「ああでもしないと、おまえは永遠に触ってくれないと思ってたからな」
正解だとは思わなかった。だが自分の行動が間違ってるとも思わなかった。それぐらい、手の中にあるこの温もりが恋しかったのだ。
奏は包んだ男の手を自分の唇に持っていき、ついばむようにチュッとキスを落とす。
「それより、釣り合う釣り合わないってなんだよ。そんな死ぬ間際にだって考えなくていいことを……おまえは考えていたのか……っ」
高辻の手の甲をさすりながら訴える。
「……泣いているんですか」
「違うっ。怒ってるんだっ」
「なぜです?」
高辻は奏の手から自身の手を抜いた。するりと逃げた男の手を追う振りをして、奏は男の胸に飛び込んだ。厚い胸板をドンッと叩く。
「悔しいからに決まってるだろ」
「……悔しい?」
「そんな不確かなものに、おまえはおまえ自身を苦しめてきたのかと思ったら……悔しいんだよ……っ」
そう言って顔を上げた、次の瞬間だった。頭の後ろをぐいっと掴まれたと同時に、唇を覆われた。唇に触れるそれが高辻の唇だと気づくのに、時間はかからなかった。
自分の唇がどれだけ冷えていたのか分かるほど、高辻の唇は温かい。ずっと味わっていたい。高辻は一旦唇を離し、奏の顔を覗き込む。熱を孕んだ目には、今にも泣きそうな自分が映っている。
「……やっぱりお人好しだ」
再び唇が降ってくる。唇から移動した温もりが、頬から瞼の上、額へと順番になぞるように移動する。くすぐったさと心地よさでうっとりしているうちに、背中に回された手にきつく抱きしめられる。
「あなたが好きです」
耳元で言われたその台詞に、胸が熱くなった。ずっとほしかった言葉だ。嬉しいのに悔しくて、思わず「……おそい」と言う。
「あなたは?」
知ってるくせに。言わなくても、分かっているくせに。意地悪なことを訊いてくる高辻にむっとする。
高辻の背中越しに循環バスのヘッドライトが遠目に見える。奏は男の背中に手を置いた。
「好き」
たった二語を舌に乗せる。初めて口にしたような気がして、嬉しくて、ちょっと泣いた。
奏が里沙から『母が入院している病棟から一番近いバス停』として教えてもらったバス停のベンチに腰を下ろしてから、早二時間。
面会にやって来たと思われる人がバスから降り、そして帰るために停留所に沿って並んでは、やって来た循環バスに乗り込む様を何組も見送った。不審な目を向けられることもあったが、奏の存在に気づいた何人かは「いつもネットで見てます」や「お仕事頑張ってください」などと声をかけてくれた。
たった一度の来訪で、すぐに高辻と会えるなんて思っていない。高辻が定期的に訪れる場所らしいが、定期的といっても一週間に一度なのか一ヶ月に一度なのか、分からないのだ。無謀なことをしている自覚はあった。
六時前には完全に日が落ちた。バスの時刻表を照らす外灯の明かりだけが、奏の座るベンチの周りを浮かび上がらせていた。
もうすぐ冬になる。日が陰ると、スーツに纏われた肌が縮こまる。頬を撫でる風も冷たい。奏はトレンチコートのポケットに両手を入れ、感覚の鈍くなった指を温めた。
腕にはめた時計が、七時を過ぎた頃だった。何台も見送ったデザインの循環バスが、停留所に停まった。
ぱっと見たところ、車内にはあまり人が乗っていない。何度目かになる落胆を飲み込み、奏は自分の足先に目を落とす。その時だった。
「――社長?」
聞きなれた声を耳が拾った。顔を上げる。バスから降りてきたのは、恋しい男、ずっと会いたかった男――高辻だった。
驚いたような表情の高辻はジーパンを履き、黒のレザージャケットを羽織っている。目にかかるまで下ろした癖のある前髪に、うっすらと窺える顎の髭――それらが軽井沢で見たラフな姿に比べ、よりワイルドな雰囲気を醸し出している。
目の前に立つ男に、条件反射のように胸がドキッと弾んだ。
「どうしてここに……」
高辻の疑問の声に対し、奏は思わず「遅かったな」と言う。勝手に来ておいて何を言ってるんだと、自分でも思う。だけど、素直になるには、高辻がまだ遠い気がしてならない。
「それより、なぜあなたがここにいるんです?」
訝しげに高辻が奏を見据える。勘の鋭い男だ。奏が答えずにいると、「里沙ですか」と妹の名前を口にした。
「……あのお喋りが」高辻が呆れるようにため息をつく。
「申し訳ありませんが、着替えを持っていきたいので一旦母の病室に行かせてください」
高辻は右手の紙袋を見せるように上げた。奏は「あ、ああ」と頷く。自分が迷惑なことをしているということは知っていた。自分だって、仕事関係者が身内の入院する病院に突如押しかけてきたら迷惑だと思うだろう。
今すぐ帰ってくれ、と言われないだけましだと思う。だが心のどこかで、奏は不安だった。このまま離れたら、高辻は戻ってこないんじゃないか――。そう思うと、高辻の背中についていきたい衝動に駆られる。
ふと見上げると、高辻は何やらゴソゴソとジャケットを脱いでいた。うん? と首を傾げつつその様子を眺めているうちに、高辻は脱いだジャケットを奏の前に差し出した。
「えっ――」
「本当は一緒に来てもらいたいのですが、母は肺を悪くしています。身内以外は病室に入れないんですよ。この時間は病院のロビーも閉まっているので、これを」
奏は恐る恐る高辻のジャケットを受け取る。手に乗せたそれは高辻の体温で温かかった。
「羽織るなり膝にかけるなりして、そこで待っていてください」
高辻はそう言うと、奏に背を向けた。病棟に向かって小さくなっていく背中を見つめる。ジャケットを鼻に押し当てると、懐かしい匂いが鼻いっぱいに広がる。身も心も一気に温かくなった。
十五分足らずの見舞いを終えた高辻は、約束通りバス停の待合ベンチに座る奏の元に戻ってきた。「お母さんは大丈夫なのか?」と尋ねると、高辻は「寝てました」と一言。
前回のバスが、さっき出発してしまったばかりだ。時刻表によると、次のバスがやってくるまで約二十分。せめてそのあいだだけは、高辻もこの場にいてくれるだろうか。
相手の動向を窺っているうちに、高辻は奏の横に腰を下ろした。高辻の重みでベンチがわずかに沈む。
奏はジャケットを返し忘れていたことを思い出し、奏は膝にかけていたそれを引き剝がす。だが高辻は「そのままかけておいてください」と奏の慌ただしい手を制した。
「もう一度訊きます。どうしてここに?」
端正な顔がこちらを向く。奏は膝に置いた高辻のジャケットをぎゅっと握った。
「れ、礼を言いに来た」
「――は?」
高辻の眉根が歪む。
そうだ。奏と会社のために、高辻はこの五年のあいだ、よく働いてくれた。自分はその礼を……感謝を伝えに、来たはずなのに。
奏は高辻に顔を向ける。
「おまえも僕のことを、好きなんじゃないかと思ったからだ」
すると高辻は意外そうな顔をして、口を結んだ。ベンチの背もたれに背中を預ける。腕を組んで夜空を仰ぐ。
少し間を置いた高辻が空に放ったのは、
「何を言うのかと思えば……今さらですか」
予想通りともいえるし、違うともいえる。そんな高辻の言葉に奏は顔を下に向けた。尊大とも捉えられてもおかしくない発言をした今、どう続けばいいのか分からなくなる。
「社長は……いや、もう社長じゃないのか」
独り言のように呟いてから、高辻は「いい加減、この喋り方も飽きたな」と自嘲気味に笑った。
「どうしてそう思ったんです?」
奏は喉仏に力を込め「どうしてって……」と言い淀む。
「俺は所詮、ツギハギで繕った品のない人間だ。あなたには釣り合わない」
きっぱりと言ってから、高辻はフッと力が抜けたように笑って続けた。
「……そう思っていました。高校生の時から」
高辻の言葉に、奏は「えっ」と相手を見る。
目が合うと、高辻は知らなかっただろ、というように寂しそうな瞳を奏に向けた。
「当時はすいませんでした。逃げるみたいに学校を辞めてしまって」
言葉遣いはそのままだったが、喋り方の調子がいい意味で乱雑に聞こえた。きっと敬語さえ遣っていなければ、昔の高辻とそう変わらないだろう。同級生として、対等に話してくれている。それがこんなにも嬉しいなんて。
奏は「う、ううん」と首を強く横に振った。
高辻によると、奏のことを意識し始めたのは告白されてからだったという。父の借金のせいで学校を辞めざるを得なくなってしまったあとも、奏のことは心残りだったそうだ。
「人というのは目の前の現実に切羽詰まると、どうでもいいことから忘れていくんです。正直あなたのことは、すぐに忘れました」
ゴミ置き場で再会した雨の日も、高辻は奏のことを思い出すのに数秒を要したという。
新事実に、ちくりと胸に痛みが走る。
「いくら見つけた人間が学生時代に好きだった奴だとしても、あんな血まみれの男に声をかけますかね? しかもうちで働かないかとか、訳の分からないことまで言って。初めは引きましたよ」
分かっていたことだが、言葉にされると耳が痛い。「でも」と高辻が続ける。
「仕事をしていくうちに、あなたへの印象は変わっていきました」
高辻は長い脚を組み、奏を向いた。
「俺は本来遺伝子的な観点からすると、オメガとして生まれるべき人間でした。あなたは逆に、アルファとして生まれるべき人間だった。だからこそ……バース性に負けず、社会で活躍するあなたのことを、俺は尊敬したんですよ」
「……っ」
「完璧な秘書になろうと思いました。仕事の出来だけじゃない。見た目もしぐさも、言葉遣いも。完璧なアルファになって、あなたを支えようと――」
「本当に……おまえは完璧だった」
奏の言葉に、高辻は「光栄です」と言って、濃い夜空を見上げた。
「好意をもたれるのは、純粋に嬉しかったです。けど俺の実家は上履きも買えないほど貧乏で、育った環境もあなたとは天と地ほど違う。あなたとは釣り合わない……そう考えるのが、俺の中ではごく自然な気持ちでした」
奏はぐっと唇を噛んだ。自分の中では、高辻に惹かれることが自然だったからだ。
高辻は目を細めて、遠くを見つめていた。遠くに見える星に、所詮手が届かないと悟っているのだろう。それなら伸ばしてもいいのではと奏は思う。だが高辻は試しに手を伸ばしてみることさえ、諦めているようだった。
「あなたから抱いてほしいと言われるたび、俺がどんな気持ちだったか分かりますか」
突然の疑問に、奏は体に力が入る。
「おっしゃる通り、俺もあなたが好きです。それ以上に尊敬している。汚したいけど汚したくない、この辛さが……あなたに」
高辻の語尾が強くなる。夜空を見上げる高辻の表情は歪み、辛そうに見えた。
「俺がどんな思いであなたを突き放してきたと思って……っ」
高辻は長い息を吐き出して、うなだれるように頭を抱えた。
「理仁……」
男の肩に手を置くと、振り払われてしまった。どうしよう。どうしたらいいんだろう。混乱する頭で考える。
「あなたは眩しい。お人好しで、人を見る目がなくて、一途で……危うくて。あなたのせいで、俺は無茶ができなくなった。本当は今だって怖いんです。目を離したら、危ない目に遭ってるんじゃないかとか、変なアルファに傷つけられてるんじゃないかとか……っ」
高辻は「それに」と付け足す。
「あなたを傷つけるのが俺じゃない理由だって、どこにもない」
高辻は頭から剥がした自分の手を見つめた。指先が小刻みに震えている。
「だからせめてピルを飲んでほしかった。抱きたくなかったんだ。だってそうでしょう。距離が近くなればなるほど、俺は無茶ができなくなる。あなたに……執着してしまう」
執着――。まさか高辻の口からそんな粘ついた言葉が聞けるとは思わなかった。
「だから……僕から離れたのか」
尋ねると、高辻は両手をぎゅっと握り締め、「俺は完璧じゃないんですよ」と言った。
理性的な、完璧な秘書。五年のものあいだ、高辻を纏ってきたそれらが、剝がれていく。
拒まれる覚悟で、奏は高辻の拳を両手で包んだ。振り払われたが、それでもしがみつく。
本気で拒まれたら、アルファの力に自分は敵わないだろう。だとしても、どんなに抵抗されたところで奏に離すつもりはなかった。
「僕だって完璧じゃない。おまえには、みっともないところを何度も見せてきた」
「あなたの場合はヒートのせいにできます。でも俺は――」
「ヒートだったから、おまえに抱かれたかったわけじゃない!」
高辻の眉が、驚いたようにピクッと動く。
「おまえだから……っ理仁だから、抱いてほしかったんだ」
奏の手中にある高辻の拳が強張る。
「ああでもしないと、おまえは永遠に触ってくれないと思ってたからな」
正解だとは思わなかった。だが自分の行動が間違ってるとも思わなかった。それぐらい、手の中にあるこの温もりが恋しかったのだ。
奏は包んだ男の手を自分の唇に持っていき、ついばむようにチュッとキスを落とす。
「それより、釣り合う釣り合わないってなんだよ。そんな死ぬ間際にだって考えなくていいことを……おまえは考えていたのか……っ」
高辻の手の甲をさすりながら訴える。
「……泣いているんですか」
「違うっ。怒ってるんだっ」
「なぜです?」
高辻は奏の手から自身の手を抜いた。するりと逃げた男の手を追う振りをして、奏は男の胸に飛び込んだ。厚い胸板をドンッと叩く。
「悔しいからに決まってるだろ」
「……悔しい?」
「そんな不確かなものに、おまえはおまえ自身を苦しめてきたのかと思ったら……悔しいんだよ……っ」
そう言って顔を上げた、次の瞬間だった。頭の後ろをぐいっと掴まれたと同時に、唇を覆われた。唇に触れるそれが高辻の唇だと気づくのに、時間はかからなかった。
自分の唇がどれだけ冷えていたのか分かるほど、高辻の唇は温かい。ずっと味わっていたい。高辻は一旦唇を離し、奏の顔を覗き込む。熱を孕んだ目には、今にも泣きそうな自分が映っている。
「……やっぱりお人好しだ」
再び唇が降ってくる。唇から移動した温もりが、頬から瞼の上、額へと順番になぞるように移動する。くすぐったさと心地よさでうっとりしているうちに、背中に回された手にきつく抱きしめられる。
「あなたが好きです」
耳元で言われたその台詞に、胸が熱くなった。ずっとほしかった言葉だ。嬉しいのに悔しくて、思わず「……おそい」と言う。
「あなたは?」
知ってるくせに。言わなくても、分かっているくせに。意地悪なことを訊いてくる高辻にむっとする。
高辻の背中越しに循環バスのヘッドライトが遠目に見える。奏は男の背中に手を置いた。
「好き」
たった二語を舌に乗せる。初めて口にしたような気がして、嬉しくて、ちょっと泣いた。
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