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事情
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その病院は千葉県郊外にあった。敷地面積が広く、横に長い病棟が小さく見えるほどだ。
奏は車を駐車場に停めたあと、空を見上げた。ドクターヘリが導入されているらしい。上空では今まさに飛び立ったと思われるヘリコプターが、バリバリと音を立てながら遠くの空に消えていった。
崩れてでこぼこになったアスファルトを踏み進める。目指すのは、主要駅からの循環バスが停まる停留所。そこに行けば、高辻に会えるかもしれない。
期待と不安が胸に広がる。クリーム色の病棟を横目に、奏は傾いた西日を頬に浴びながら歩いた。
高辻の妹と名乗る女性から会社に電話があったのは、午前中のことだ。
妹は名前を里沙といい、結婚して苗字が高辻から奥谷に変わったという。少し舌足らずだったが、芯を感じさせるハスキーな声が高辻にちょっと似ているなと思った。
奏が用件を尋ねる前に、里沙はまず初めに『兄は忙しいですか?』と訊いてきた。
高辻が半年前に辞めていることを知らないのだろうか。奏は一瞬、間を置いてしまった。
それが良くなかったのだろう。奏がいざ答えようとすると、
『兄に伝えたいことがあって、今日はお電話をさせていただきました』
と里沙は続けた。
里沙の話によると、この半年、高辻と連絡が取れていないらしいのだ。
『それまでは一ヶ月に一度、兄弟全員に必ず連絡をくれていたんです。社長さんにこんなことを言うのも失礼ですけど、兄のお給料日に。でも、最近はそれも全然なくて』
その話を聞いた時、奏の頭は真っ白になった。高辻の身に何かあったのだろうか。そう考えたら、気が気ではなかった。
震えてしまいそうになる手に力を込める。
「音信不通……ということですか?」
最悪の事態を頭に浮かべて訊くと、里沙は「いえ」とすぐに否定した。
『まったくの音信不通っていうわけじゃないんです』
その理由を里沙は説明した。連絡が取れなくなる前から、高辻は妹と弟三人――計四人の兄弟全員に、毎月若干とはいえ仕送りをしていたらしい。そして高辻と連絡が取れなくなった今も、仕送りは毎月続いているという。
聞いた時、奏はえっと思った。ボーナスを出すたびに、高辻が兄弟に仕送りしていることは知っていた。だが、毎月の給料まで送っていたなんて初耳だったのだ。
高辻が生きていることにホッと胸を撫で下ろしつつ、奏は高辻の事情を顧みる。
高校生の頃、高辻は自分以外の家族は皆オメガだと言っていた。高辻が奏の秘書になってから、世間話の延長でふと「兄弟たちはどんな仕事をしているんだ?」と訊いた時も、そういえば高辻は目線を逸らし、「まあ、いろいろです」とお茶を濁していた。
里沙の話を聞き、今になって高辻の兄弟の経済状況が見えてくる。高辻の肩にのしかかっていたものの存在、そして重さを、奏はこの時初めて知ったのだった。
『私も弟たちもお金はもういいよって言ってるんです。私たちのお給料はそんなに高くないけど、贅沢したいわけじゃないので。でも兄は……責任感が強いから』
里沙の声は兄を労う妹のそれだった。兄弟たちから、慕われているのだろう。自分のことを後回しにして相手に尽くす――そういう男だ。夢中になりすぎて、自分は高辻の優しさを見ようとしなかった。
奏は相手の耳に届かない程度にため息をつく。どうしてか、里沙には高辻が自分の元を辞めたことを言うのがためらわれる。今はどこでどんな仕事をしているのか――それを自分が知らないことを、言い出せなかった。
「そうですね、最近の理仁君は忙しくて……今も会議中です。差し支えなければ、のちほど私から彼にお伝えしておきますが」
『わーっ、いや、社長さんにそんなことまでさせるわけには――って、私かなり兄の個人的なことをペラペラしゃべってますよね? ああー……あとでぜったい怒られるなぁ』
慌てる里沙に思わず頬が緩む。
「里沙さんはご存知ないかもしれませんが、私と理仁君は高校時代の同級生でもあるんですよ。だから知ってることも知らないことも……ただの仕事仲間よりは、きっとあるんじゃないかな」
奏は革のソファに座り、背もたれに首を乗せた。天井を見上げる。自分の知らない高辻を、知りたかった。
奏が兄の同級生でもあると知り、里沙はもとより薄い警戒心をさらに薄めたようだ。『じゃあお願いしちゃおうかな』とさっきよりもくだけた調子で言った。
『兄に……借金、おかげさまで全額返し終えたよって、伝えてもらってもいいですか?』
聞こえてきた単語に反応し、思わず「借金っ?」と返してしまう。
『はい。恥ずかしい話ですけど、うち、父親がろくでもなかったんです。オメガだったんですけどね。借金作るわ外に男作るわ……もう大変で。兄が高校生の時だったかな。父親が借金を返さないまま蒸発したんですよ』
里沙の話は、よくあるものだった。よくある話。よく聞く話。でも身近な人間の――高辻の身に起こったことだと思うと、いたたまれなかった。高辻が高校生だった頃? 高校生だった時、高辻は突然、高校を辞め、奏の前から姿を消したのだ。
里沙は続ける。
『それから兄はずっとその借金を返すことに必死でした。自分はあっさり高校を辞めたくせに、私たちには高校に通えって』
里沙によると、高辻は高校を退学したあと、最大で五つの仕事を掛け持ちすることもあったという。そして稼いだ給料のすべてを生活費、兄弟たちの学費、そして父親の残した借金の返済に充てていたそうだ。
兄弟たちも働ける年齢になり、ここ最近は兄弟五人で借金を少しずつ返していたらしい。里沙は『それが、こないだ全部返し終えたんです』と明るい声で言った。
『本当は兄から電話がきた時に伝えようと思っていたんですけどね。私もバタバタしてたから、なかなかこっちから連絡できなくて』
奏は「お仕事か何かで?」と尋ねる。すると里沙は、受話口で照れくさそうに笑った。
『実は私が妊娠しまして……』
高辻の妹とはいえ、まだ一度も会ったことのない女性だ。だが、おめでたいものはおめでたい。突然の報告に対し、奏も咄嗟に「それはまた、おめでとうございます」と返した。
『本当はその報告もしたかったんですけど、兄も忙しいみたいだから』
寂しそうに笑う里沙の声が切ない。高辻はもう辞めました、とますます言いづらかった。伝えておきますと豪語したものの、高辻がどこにいるのか分からないのだ。もう二度と会うつもりはないと、奏も諦めていた。
だけどどうしてだろう。今すぐ高辻に会いたかった。会社に戻ってこいなんて言わない。ただ会って、里沙から聞いた話を伝えるだけでいい。一回でいいから、高辻に会いたい。
見上げる天井が、徐々に霞んでいく。鼻をすすりかけた、その時だった。
『でも一番下の弟は最近会ったみたいなんですけどね』
独り言のように言った里沙の言葉に、奏の耳は反応した。
「――――え?」
『うちの母、数年前から体調を崩して入退院を繰り返しているんです。兄は母が入院している病院には、定期的に通っているらしくて』
思わずどこの病院に入院しているのかと訊く。あまりにも無遠慮な訊き方をしてしまったかと思ったが、里沙はあっさりと病院の名前と最寄り駅、そして母の入院する病棟にはどのバス停留所が近いかも教えてくれた。
それらを手帳にメモしたあと、奏は期待で心臓が急くのを感じた。ちょっと怖い。だが、もしかしたらここに行けば、高辻に会えるかもしれないのだ。
浮つく頭を横に振り、落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせる。奏は改めて疑問に思ったことを口にした。
「里沙さんは……私が嘘をついてるとは思わないんですか」
里沙は素っとん狂な声で『え?』と言った。
「もしかしたらお兄さんは、すでに会社を辞めているかもしれません。私と同級生だということも、あなたは知らなかったわけじゃないですか。それが嘘だったとしたら――私が本当のことを言ってなかったとしたら、どうするんですか」
すると里沙はクスッと笑った。
『兄はめったに笑わない人です。でも一度だけ、家族の前で笑ったんですよ。ちょうど夜ご飯を食べてる時だったかな。テレビで芦原社長のドキュメンタリーがやってたんです』
それは様々な分野で活躍する仕事人の一日を、ドキュメンタリー風に編集して放送する番組だ。会議の風景や社員に厳しい言葉を投げている時の映像ばかり使われ、放送直後はSNSなどでしばらく『鬼社長』と揶揄された。
里沙は続けて、『それを見た時、兄は何て言ったと思います?』と得意げに訊いてくる。
――普段はもっと笑ってる。
そう言ったらしい。それは兄弟にしか分からない程度の笑顔だったと、里沙は言う。
『どうしてでしょうね。芦原社長と話してたら、あの日のことを思い出しました』
「……っ」
『だから、私はあなたを信じます』
里沙の声が、高辻のそれと重なって聞こえたような気がした。
奏は車を駐車場に停めたあと、空を見上げた。ドクターヘリが導入されているらしい。上空では今まさに飛び立ったと思われるヘリコプターが、バリバリと音を立てながら遠くの空に消えていった。
崩れてでこぼこになったアスファルトを踏み進める。目指すのは、主要駅からの循環バスが停まる停留所。そこに行けば、高辻に会えるかもしれない。
期待と不安が胸に広がる。クリーム色の病棟を横目に、奏は傾いた西日を頬に浴びながら歩いた。
高辻の妹と名乗る女性から会社に電話があったのは、午前中のことだ。
妹は名前を里沙といい、結婚して苗字が高辻から奥谷に変わったという。少し舌足らずだったが、芯を感じさせるハスキーな声が高辻にちょっと似ているなと思った。
奏が用件を尋ねる前に、里沙はまず初めに『兄は忙しいですか?』と訊いてきた。
高辻が半年前に辞めていることを知らないのだろうか。奏は一瞬、間を置いてしまった。
それが良くなかったのだろう。奏がいざ答えようとすると、
『兄に伝えたいことがあって、今日はお電話をさせていただきました』
と里沙は続けた。
里沙の話によると、この半年、高辻と連絡が取れていないらしいのだ。
『それまでは一ヶ月に一度、兄弟全員に必ず連絡をくれていたんです。社長さんにこんなことを言うのも失礼ですけど、兄のお給料日に。でも、最近はそれも全然なくて』
その話を聞いた時、奏の頭は真っ白になった。高辻の身に何かあったのだろうか。そう考えたら、気が気ではなかった。
震えてしまいそうになる手に力を込める。
「音信不通……ということですか?」
最悪の事態を頭に浮かべて訊くと、里沙は「いえ」とすぐに否定した。
『まったくの音信不通っていうわけじゃないんです』
その理由を里沙は説明した。連絡が取れなくなる前から、高辻は妹と弟三人――計四人の兄弟全員に、毎月若干とはいえ仕送りをしていたらしい。そして高辻と連絡が取れなくなった今も、仕送りは毎月続いているという。
聞いた時、奏はえっと思った。ボーナスを出すたびに、高辻が兄弟に仕送りしていることは知っていた。だが、毎月の給料まで送っていたなんて初耳だったのだ。
高辻が生きていることにホッと胸を撫で下ろしつつ、奏は高辻の事情を顧みる。
高校生の頃、高辻は自分以外の家族は皆オメガだと言っていた。高辻が奏の秘書になってから、世間話の延長でふと「兄弟たちはどんな仕事をしているんだ?」と訊いた時も、そういえば高辻は目線を逸らし、「まあ、いろいろです」とお茶を濁していた。
里沙の話を聞き、今になって高辻の兄弟の経済状況が見えてくる。高辻の肩にのしかかっていたものの存在、そして重さを、奏はこの時初めて知ったのだった。
『私も弟たちもお金はもういいよって言ってるんです。私たちのお給料はそんなに高くないけど、贅沢したいわけじゃないので。でも兄は……責任感が強いから』
里沙の声は兄を労う妹のそれだった。兄弟たちから、慕われているのだろう。自分のことを後回しにして相手に尽くす――そういう男だ。夢中になりすぎて、自分は高辻の優しさを見ようとしなかった。
奏は相手の耳に届かない程度にため息をつく。どうしてか、里沙には高辻が自分の元を辞めたことを言うのがためらわれる。今はどこでどんな仕事をしているのか――それを自分が知らないことを、言い出せなかった。
「そうですね、最近の理仁君は忙しくて……今も会議中です。差し支えなければ、のちほど私から彼にお伝えしておきますが」
『わーっ、いや、社長さんにそんなことまでさせるわけには――って、私かなり兄の個人的なことをペラペラしゃべってますよね? ああー……あとでぜったい怒られるなぁ』
慌てる里沙に思わず頬が緩む。
「里沙さんはご存知ないかもしれませんが、私と理仁君は高校時代の同級生でもあるんですよ。だから知ってることも知らないことも……ただの仕事仲間よりは、きっとあるんじゃないかな」
奏は革のソファに座り、背もたれに首を乗せた。天井を見上げる。自分の知らない高辻を、知りたかった。
奏が兄の同級生でもあると知り、里沙はもとより薄い警戒心をさらに薄めたようだ。『じゃあお願いしちゃおうかな』とさっきよりもくだけた調子で言った。
『兄に……借金、おかげさまで全額返し終えたよって、伝えてもらってもいいですか?』
聞こえてきた単語に反応し、思わず「借金っ?」と返してしまう。
『はい。恥ずかしい話ですけど、うち、父親がろくでもなかったんです。オメガだったんですけどね。借金作るわ外に男作るわ……もう大変で。兄が高校生の時だったかな。父親が借金を返さないまま蒸発したんですよ』
里沙の話は、よくあるものだった。よくある話。よく聞く話。でも身近な人間の――高辻の身に起こったことだと思うと、いたたまれなかった。高辻が高校生だった頃? 高校生だった時、高辻は突然、高校を辞め、奏の前から姿を消したのだ。
里沙は続ける。
『それから兄はずっとその借金を返すことに必死でした。自分はあっさり高校を辞めたくせに、私たちには高校に通えって』
里沙によると、高辻は高校を退学したあと、最大で五つの仕事を掛け持ちすることもあったという。そして稼いだ給料のすべてを生活費、兄弟たちの学費、そして父親の残した借金の返済に充てていたそうだ。
兄弟たちも働ける年齢になり、ここ最近は兄弟五人で借金を少しずつ返していたらしい。里沙は『それが、こないだ全部返し終えたんです』と明るい声で言った。
『本当は兄から電話がきた時に伝えようと思っていたんですけどね。私もバタバタしてたから、なかなかこっちから連絡できなくて』
奏は「お仕事か何かで?」と尋ねる。すると里沙は、受話口で照れくさそうに笑った。
『実は私が妊娠しまして……』
高辻の妹とはいえ、まだ一度も会ったことのない女性だ。だが、おめでたいものはおめでたい。突然の報告に対し、奏も咄嗟に「それはまた、おめでとうございます」と返した。
『本当はその報告もしたかったんですけど、兄も忙しいみたいだから』
寂しそうに笑う里沙の声が切ない。高辻はもう辞めました、とますます言いづらかった。伝えておきますと豪語したものの、高辻がどこにいるのか分からないのだ。もう二度と会うつもりはないと、奏も諦めていた。
だけどどうしてだろう。今すぐ高辻に会いたかった。会社に戻ってこいなんて言わない。ただ会って、里沙から聞いた話を伝えるだけでいい。一回でいいから、高辻に会いたい。
見上げる天井が、徐々に霞んでいく。鼻をすすりかけた、その時だった。
『でも一番下の弟は最近会ったみたいなんですけどね』
独り言のように言った里沙の言葉に、奏の耳は反応した。
「――――え?」
『うちの母、数年前から体調を崩して入退院を繰り返しているんです。兄は母が入院している病院には、定期的に通っているらしくて』
思わずどこの病院に入院しているのかと訊く。あまりにも無遠慮な訊き方をしてしまったかと思ったが、里沙はあっさりと病院の名前と最寄り駅、そして母の入院する病棟にはどのバス停留所が近いかも教えてくれた。
それらを手帳にメモしたあと、奏は期待で心臓が急くのを感じた。ちょっと怖い。だが、もしかしたらここに行けば、高辻に会えるかもしれないのだ。
浮つく頭を横に振り、落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせる。奏は改めて疑問に思ったことを口にした。
「里沙さんは……私が嘘をついてるとは思わないんですか」
里沙は素っとん狂な声で『え?』と言った。
「もしかしたらお兄さんは、すでに会社を辞めているかもしれません。私と同級生だということも、あなたは知らなかったわけじゃないですか。それが嘘だったとしたら――私が本当のことを言ってなかったとしたら、どうするんですか」
すると里沙はクスッと笑った。
『兄はめったに笑わない人です。でも一度だけ、家族の前で笑ったんですよ。ちょうど夜ご飯を食べてる時だったかな。テレビで芦原社長のドキュメンタリーがやってたんです』
それは様々な分野で活躍する仕事人の一日を、ドキュメンタリー風に編集して放送する番組だ。会議の風景や社員に厳しい言葉を投げている時の映像ばかり使われ、放送直後はSNSなどでしばらく『鬼社長』と揶揄された。
里沙は続けて、『それを見た時、兄は何て言ったと思います?』と得意げに訊いてくる。
――普段はもっと笑ってる。
そう言ったらしい。それは兄弟にしか分からない程度の笑顔だったと、里沙は言う。
『どうしてでしょうね。芦原社長と話してたら、あの日のことを思い出しました』
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『だから、私はあなたを信じます』
里沙の声が、高辻のそれと重なって聞こえたような気がした。
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