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からっぽの隣

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 机の上に積まれた郵便物の束を見て、奏は無意識のうちにため息をついた。
 社員には会社の郵便受けに郵便物が届いた場合、社長室の机の上に置いておくよう伝えてある。
 が、封を開けていいとまでは言っていなかった。契約書類だったり、社労士事務所や会計事務所から送られてきた書類だったり。そういった重要な書類を、社員の目には触れさせられないからだ。
 奏は煩わしさを飲み込み、郵便物を束ねる輪ゴムを外した。
 この数年はすべて高辻に――元秘書に、郵便物の仕分けや整理を任せきりでいたのだ。レターオープナーを手にしたのは、何年ぶりだろうか。ここまで多くの郵便物を目にしたのも久方ぶりだ。
 奏以外に郵便物の封を切ってもいい人間は、もういない。
 高辻から退職願を出されたのは、軽井沢での一件後、東京に戻ってすぐのことだった。
「お話ししたいことがございます。少しお時間よろしいでしょうか」
 社内の定例ミーティングを終えたあと、会議室から出ると、高辻はそう言って奏を呼び止めた。
 その時点で、奏は何を言われるのか察した。いや高辻と肌を重ねた時、キスをされた時には、すでに奏は感じ取っていたのだと思う。奏を慰めたことを、高辻は後悔することになるんじゃないかと。律儀で真面目な男だ。社長に手を出したからには、責任を取ると言い出すんじゃないだろうか……と。
 だから辞めさせてほしいと言われた時、奏は驚かなかった。
 ああ、ついにか。
 案外と冷静に高辻の言葉を受け入れている自分に、拍子抜けしたほどだ。
 そして一ヶ月前の最終金曜日、高辻は約五年間奏の秘書として勤めた会社『ナニカカ』を退職した。
社員から受け取った花束を抱え、退職の挨拶を済ませた高辻の表情は、憑き物が落ちたかのように晴れ晴れとしていた。それを認めた時、奏にはオフィスに飛ぶ労いの拍手の音が、遠い所で聞こえた気がした。
 高辻が会社を去ってから一ヶ月。はじめの一週間は高辻から引き継いだ仕事にあたふたしていた社員たちも、徐々に落ち着きを取り戻している。奏を除いて。
 コンコン、と社長室のドアを叩く音に、奏は「はい」と返事して開封作業の手を止めた。
 電話の子機を手にした女性社員が、自信なさげに社長室へと入ってくる。
「芦原社長、今よろしいでしょうか。東陽証券の山口さんからお電話です」
「東陽証券? ああ、あそこからの電話は基本的に営業だ。社長はいないと言って適当に断っておいてくれ」
「ですがどうしても芦原社長に替わってほしいとおっしゃっていまして……」
「向こうも営業で必死だろうから仕方ないだろう。君の裁量で適当に断ってくれていい」
 女性社員は『適当にって言われても』と言いたさげに不安そうな表情を浮かべる。
だが、ここで社長である奏が電話に出たら、向こうは必死になって営業してくるだろう。
 メディアにも顔出ししている奏にとって、会社のイメージを損なうような対応はできない。話を聞くしかなくなる。だがしかし、買う気のない株を営業される時間は無駄だ。
 奏は下手から「頼むよ」と笑顔をつくり、なんとか女性社員から「かしこまりました」の言葉を引き出した。
 数年前、今日と同じことを頼んだ時、高辻はつべこべ言わずに「承知致しました」と答えた。それから同じ会社から営業の電話がくるたび、勝手に断っておいてくれた。
 会社を辞める前から、奏は高辻の有能さを認めていた。高辻が辞めることになったら、どれだけ仕事に支障が出るかも分かっていたつもりだ。
 だが、高辻がいなくなった今、恋を失った悲しみと同じくらい、高辻が仕事のパートナーとしていかに大きな存在だったかを、実感する奏だった。
 郵便物で散らかった社長机の上に、ため息を落とす。高辻と肌を合わせたあの日から胸にわだかまるのは、後悔と寂しさ、そして虚しさだった。


 家に着く頃には日付を跨いでいた。自宅マンションの部屋に入った瞬間、奏は玄関ドアに背中を預けてもたれかかった。
 慣れない運転のせいで、体に疲労が溜まっているのだろう。肩が痛い。
 今の車はもともと仕事の移動手段として、会社の経費で三年前に購入したものだ。買った当初は、奏自ら運転するつもりだった。それこそ高辻が「お送りします」と言い出さなければ、今も運転していただろう。
 本来あるべき状態に戻っただけだが、三年間のブランクは一ヶ月程度運転しただけでは埋まらなかった。久しぶりの運転に、ここ最近の奏は心身ともに疲れていた。
 電車通勤も考えたが、自分は世間に顔が知られているのだ。今さら電車通勤に変えるのは気が引けた。
 靴を脱いでカウンターキッチンの中へと向かう。グラスに水を注ぎ、包装シートからピルを取り出して口に流し込む。
 軽井沢から帰ってきた直後から、奏は毎日欠かさずピルを飲んでいる。おかげで一週間続くはずのヒートは三、四日で終わるようになった。ピルを飲み始める前に比べて、ヒートの症状もずいぶんと軽い。
 水を飲み干し、奏は口の横についた水を指で拭う。次の瞬間、ズキッと激しい頭の痛みに襲われた。思わずこめかみを押さえる。全身のけだるさとともに吐き気も催し、奏はトイレに駆け込んだ。
 便器に頭を近づけたものの、吐くことはできなかった。なんだか熱っぽい気がする。トイレから出て、スーツを着たまま寝室のベッドに体を横たえる。天井を見やりながら、「はあ……」とため息をこぼした。
 ピルを飲むようになってから、確かにヒートは楽になった。本能を忘れるほどの体に怯えることも無くなった。
 だが一つ難点を挙げるとすれば、ピルそのものが奏の体質に合っていないことだった。服用を始めてから日中は眠いし、とにかく体がだるい。顔をしかめるほどの酷い頭痛にも見舞われる。
 ピルの種類を変えた方がいいのかもしれない。だが仕事の対応に追われ、病院に行く時間を割くこともできない。
 ピルの費用や飲み忘れた時のことを考えると、本当は番契約を結べる相手を見つけるべきなのだろう。ピルを飲み始めてから、奏は改めて見合いを考えた。
 しかし美弥子との一件があり、出会いを求めようと行動する意欲もすっかり失くしてしまった。危険な相手を紹介してしまったことに罪悪感を抱いているのか、母も前より見合いに対して消極的になっている。 
 もう誰とも番になんてならなくていい。結婚も番契約も、自分とは縁の無いものだ。そう思えば、胸のしこりとなった寂しさも、いずれは溶けていくのだろうか。
 明日も朝から定例会議がある。奏はベッドの上で寝返りを打ち、冷たいシーツの上で重たい瞼を閉じた。


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