上 下
3 / 12

執着

しおりを挟む
 プライベート用のスマホの着信音で、奏は目が覚めた。朝からこちらのスマホに電話してくる人物は、片手に数えられる程度である。
 奏は重たい体を起こし、スマホ画面を見る。そこには母・麗子の名前が表示されていた。
 クイーンサイズのベッドの上、二つある枕のうち一つをうつ伏せに抱きながら、応答ボタンを押す。
「……なに?」
 我ながら眠そうな声だ。昔の夢を見たせいだろうか、いつもより体に疲労が残っている。
『あら、今日も元気そうじゃない』
 弾んだ母の声が電話の向こうから聞こえる。母は典型的なお嬢様タイプで、アルファだというのに昔から人の機微にあまり気がつかない人だ。
 母の洞察力の無さには慣れっこなので「ああ、元気だよ」と当たり障りなく答える。何の用件だろうと訊こうとする前に、母は早速本題を切り出した。
『あなた今、いい人はいないの?』
 平日の朝から何を言っているんだとスマホを放り投げだしたくなる。母は以前から、奏に番候補の女性か男性はいないのかと、度々尋ねてくるのだ。
 答えないでいると、母は『よさそうなアルファの方が何人かいるの。お写真だけでも見てみない?』と続けた。
 一人息子ということもあり、心配なのは分かる。だが高辻への想いをこじらせた奏に、番を持つ選択も結婚の選択もなかった。
「悪いけど今はそういう相手は必要ないんだ」
 奏はそう答え、母との電話を強引に切った。
 嫌な夢を見たせいで、ただでさえ気分が悪かった。疲労をため息で誤魔化し、奏はベッドから立ち上がった。
 寝室から出ると、コーヒーの香りがした。大理石で光る廊下を歩く。足裏が冷たいが、このくらいの方が目覚めにはちょうどいい。
 リビングに入ると、高辻がキッチンでコーヒーを淹れているところだった。
 一度奏が会議に大遅刻をしてからというもの、高辻は毎朝のように奏のマンションにやってくる。遅刻防止が名目ではあったが、奏は内心そのまま高辻が住み着いてくれることを期待して、合鍵を渡した。
 だが、高辻は奏の意図を知ってか知らずか、住み着くどころか夜は絶対に来ない。社長に目覚めのコーヒーを淹れるという仕事のためだけにしか、合鍵を使わないのだ。
 奏はカウンターキッチンを見張るような場所にある椅子に腰かける。
「おはようございます。どなたかと電話をされていたみたいですね」
 キッチンカウンターの奥から出てきた高辻の手には、湯気の立つコーヒーカップが乗っている。それを奏の前のテーブルに置くと、高辻はまくったワイシャツの袖を戻し、カフスボタンを綴じた。
「ああ、少しな」
 カップを持ち上げ、高辻の淹れたコーヒーをすする。出会った時のような純粋な『好き』という気持ち以外にも、今は悔しいやら憎たらしいやら、複雑な感情の方が大きい。こじらせた初恋に執着しているだけだと、自分でも分かっている。
 高辻本人からしたら、毎朝コーヒーを淹れることも業務内容の一環としか考えていないのだろう。
 けれど、高辻の淹れてくれたコーヒーを飲むとホッとする。コーヒーの温かさを手に乗せている時だけは、高辻理仁という男の温もりに、触れられているように感じるからだ。
「……美味しい」
「毎朝飲んでいるものと同じですが」
「分かってるさ。僕は美味しいものを美味しいと言っただけだ」
 高辻は「そうですか」と無表情で答える。
 淹れたコーヒーは飲めても、本人は手に入らない。その事実に改めて胸がツキッと痛む。
 奏はカップから口を離した。
「……母から電話があった」
高辻は興味なさげに「そうですか」と言う。
「いい人はいないかと訊かれたよ。紹介したい相手も何人かいるらしい」
「はあ」
「でも、今は必要ないと答えた」
うつむき加減に言うと、高辻は短い間を置いたあとに続けた。
「勿体ないですね」
 奏はコーヒーを傾ける手を止めた。
「ご紹介してもらったらどうですか。世の中には、素敵な方がたくさんいますよ」
「僕に……会えって言うのか」
「会ってみなければ、運命の番を見つけることもできません」
「僕がそんな相手を望んでいないことくらい、知っているだろっ」
 諦めの悪い自分に腹が立つ。ダンッとテーブルを叩くと、コーヒーカップが倒れた。テーブルの表面に、茶色い液体が広がる。
 高辻は表情を一切変えず、手にした布巾でテーブルの上をサッと拭いた。空になったカップを手に、カウンターの中へと戻っていく。
 奏はグッと拳を握る。反応もしてくれないのか。徹底的な拒否に乾いた笑いがこぼれる。
「運命の番、か……そりゃそうだよな。僕が番を見つければ、おまえは抗フェロモン剤を飲まずに済むんだもんな」
「……あなたには、しかるべき相手がいます」
「……っおまえのその喋り方、大っ嫌いだ」
 強調して言ったあと、奏は椅子の背に力の抜けた体を預けた。
「でも……おまえよりいい男なんて、いない」
 口にすると、声が震えた。じゃあ女性にすればいいじゃないかと声が飛んでくるかと一瞬思ったが、さいわい、それはなかった。
「好きなんだ」
 やはり高辻は応えない。もう何度も聞いているからだろうか。その言葉は高辻の胸どころか、耳にも届いてくれない。高辻という的には刺さらない。
 けれど、奏は言わずにはいられないのだ。
「僕は本当におまえのことが好きなんだよ……理仁」
 高辻はしばらく間を置いてから、椅子の背に掛けていたスーツのジャケットに袖を通した。キッチンカウンターから出た男が、玄関へと続くドアを開ける。
 次の瞬間、高辻がボソッと何かを言った。奏は「え?」と頭を上げる。
「今なんて言った?」
 高辻は奏に向けた体を前に折った。そして「下の駐車場でお待ちしています」と言い残し、あっという間に玄関から出ていった。
 2LDKの部屋に一人残される。呆然としながら、高辻の今の言葉を辿った。
 ――何も分かっていないくせに。
 奏の耳には、確かにそう聞こえたのだ。
 高辻の淹れてくれたコーヒーの残り香を嗅ぐ。今日はこぼしてしまったので、満足に飲むことができなかった。
 早く準備をしなければ、また高辻に怒られる。怒られる分にはいい。無視されるより、ずっとましだから。
 奏はテーブルの上に突っ伏した。「理仁」と舌に乗せる。甘くて苦い痛みが胸に広がった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

こじらせΩのふつうの婚活

深山恐竜
BL
宮間裕貴はΩとして生まれたが、Ωとしての生き方を受け入れられずにいた。 彼はヒートがないのをいいことに、ふつうのβと同じように大学へ行き、就職もした。 しかし、ある日ヒートがやってきてしまい、ふつうの生活がままならなくなってしまう。 裕貴は平穏な生活を取り戻すために婚活を始めるのだが、こじらせてる彼はなかなかうまくいかなくて…。

アルファ嫌いの子連れオメガは、スパダリアルファに溺愛される

川井寧子
BL
オメガバース/オフィスラブBL/子育て/スパダリ/溺愛/ハッピーエンド ●忍耐強く愛を育もうとするスパダリアルファ×アルファが怖いオメガ●  亡夫との間に生まれた双子を育てる稲美南月は「オメガの特性を活かした営業で顧客を満足させろ」と上司から強制され、さらに「双子は手にあまる」と保育園から追い出される事態に直面。途方に暮れ、極度の疲労と心労で倒れたところを、アルファの天黒響牙に助けられる。  響牙によってブラック会社を退職&新居を得ただけでなく、育児の相談員がいる保育園まで準備されるという、至れり尽くせりの状況に戸惑いつつも、南月は幸せな生活をスタート!  響牙の優しさと誠実さは、中学生の時の集団レイプ事件がトラウマでアルファを受け入れられなかった南月の心を少しずつ解していく。  心身が安定して生活に余裕が生まれた南月は響牙に惹かれていくが、響牙の有能さが気に入らない兄の毒牙が南月を襲い、そのせいでオメガの血が淫らな本能を剥き出しに!  穏やかな関係が、濃密な本能にまみれたものへ堕ちていき――。

αは僕を好きにならない

宇井
BL
同じΩでも僕達は違う。楓が主役なら僕は脇役。αは僕を好きにならない…… オメガバースの終焉は古代。現代でΩの名残である生殖器を持って生まれた理人は、愛情のない家庭で育ってきた。 救いだったのは隣家に住む蓮が優しい事だった。 理人は子供の頃からずっと蓮に恋してきた。しかし社会人になったある日、蓮と親友の楓が恋をしてしまう。 楓は同じΩ性を持つ可愛らしい男。昔から男の関心をかっては厄介事を持ち込む友達だったのに。 本編+番外 ※フェロモン、ヒート、妊娠なし。生殖器あり。オメガバースが終焉した独自のオメガバースになっています。

【短編】劣等αの俺が真面目くんに付き纏われているのはなぜだ? 〜オメガバース〜

cyan
BL
ダイナミクス検査でαだと発覚した桐崎賢斗だったが、彼は優秀ではなかった。 何かの間違いだと言われ、周りからαのくせに頭が悪いと馬鹿にされた。 それだけが理由ではないが、喧嘩を繰り返す日々。そんな時にクラスメイトの真面目くんこと堂島弘海に関わることになって……

βの僕、激強αのせいでΩにされた話

ずー子
BL
オメガバース。BL。主人公君はβ→Ω。 αに言い寄られるがβなので相手にせず、Ωの優等生に片想いをしている。それがαにバレて色々あってΩになっちゃう話です。 β(Ω)視点→α視点。アレな感じですが、ちゃんとラブラブエッチです。 他の小説サイトにも登録してます。

彼は罰ゲームでおれと付き合った

和泉奏
BL
「全部嘘だったなんて、知りたくなかった」

【完結】Ω嫌いのαが好きなのに、Ωになってしまったβの話

秘喰鳥(性癖:両片思い&すれ違いBL)
BL
【概要】 無遠慮に襲ってくるΩが嫌いで、バースに影響されないβが好きな引きこもり社会人α VS βであることを利用してαから寵愛を受けていたが、Ω転換してしまい逃走する羽目になった大学生β \ファイ!/ ■作品傾向:ハピエン確約のすれ違い&両片思い ■性癖:現代オメガバースBL×友達以上、恋人未満×攻めからの逃走 βであることを利用して好きな人に近づいていた受けが、Ωに転換してしまい奔走する現代オメガバースBLです。 【詳しいあらすじ】 Ωのフェロモンに当てられて発情期を引き起こし、苦しんでいたαである籠理を救ったβの狭間。 籠理に気に入られた彼は、並み居るΩを尻目に囲われて恋人のような日々を過ごす。 だがその立場はαを誘惑しないβだから与えられていて、無条件に愛されているわけではなかった。 それを自覚しているからこそ引き際を考えながら生きていたが、ある日βにはない発情期に襲われる。 αを引き付ける発情期を引き起こしたことにより、狭間は自身がΩになり始めていることを理解した。 幸い完全なΩには至ってはいなかったが、Ω嫌いである籠理の側にはいられない。 狭間はβに戻る為に奔走するが、やがて非合法な道へと足を踏み外していく――。

幼馴染から離れたい。

June
BL
アルファの朔に俺はとってただの幼馴染であって、それ以上もそれ以下でもない。 だけどベータの俺にとって朔は幼馴染で、それ以上に大切な存在だと、そう気づいてしまったんだ。 βの谷口優希がある日Ωになってしまった。幼馴染でいられないとそう思った優希は幼馴染のα、伊賀崎朔から離れようとする。 誤字脱字あるかも。 最後らへんグダグダ。下手だ。 ちんぷんかんぷんかも。 パッと思いつき設定でさっと書いたから・・・ すいません。

処理中です...