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枯渇しきった片思い
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経営者向けセミナーが再来週の金曜日だと聞いて、芦原奏は書類から顔を上げた。眉間に皺を寄せる。「再来週?」と怪訝な声で訊き返すと、奏の秘書である高辻理仁は涼しい顔をして「はい」と答えた。
奏は手の中の契約書をデスクの上に投げ、厚みのある社長椅子の背もたれに体を沈めた。
「来週は予定を入れるなと言ったはずだぞ。しかもセミナーといっても、どうせ僕にベラベラ喋らすだけの講演会みたいなものだろう」
「会場の規模や参加人数を考えれば、そうとも言えますね」
奏のスケジュールを表示させたタブレット端末に目を落としながら、高辻は答える。
「今回のセミナーは、いま急成長中の『アラクティ』の社長もいます」
「フリマアプリの会社か」
「はい。お互いベンチャー企業、お知り合いになっておいて損はないかと」
「医療系のウチとは業種が違うんだぞ。それにああいうチャラチャラした社長は好かない」
脚を組み替えて言うと、高辻は呆れるように短いため息をついた。社長に向かって不満の息を隠さない秘書は、日本全国を探してもこの男ぐらいだろう。
高辻が呆れるのも、たしかに分からなくもない。他人を指摘できるほど、奏は自分が真面目な見た目をしていないと自覚している。
額を見せるようにかき上げた茶色がかった短髪は毎日ワックスで逆立つようセットしているし、手首にはシンプルだがブランドの腕時計。足元は常にオーダーメイドの革靴で覆われている。それに加え、少し抜け感のあるイタリア製のカジュアルスーツを着た若社長といえば、遊び慣れていると思われても仕方がないかもしれない。
心不全で突然死した父親の会社の社長に、二十四歳という若さで就任してから約五年。もともと大きな二重に、低い鼻、薄い唇、おまけにギリギリ百七十センチにいくかいかないかの身長は、奏をすぐに威厳のある社長にはしてくれなかった。
社長に就任したての頃は、世話になっている銀行マンの勧めで参加した経営者交流会で、出会った経営者たちからことごとく馬鹿にするような態度をとられたものだ。自分の会社だというのに、年下の新入社員から同期だと思われたのか、トイレの場所を訊かれたこともある。
その度に、奏は見た目でしか判断しない周りの連中を心の中で罵った。同時に、肩書に追いついていない自分の見た目を恥じた。
調子に乗っていると思われてもいい。どうせこの社会は、人は見た目がすべて。仕事は結果と評価がすべてだ。
そう自分に言い聞かせ、この五年間、奏はあえて自分の苦手とする社長像を追求してきた。はじめは背筋を伸ばして肩を張りながら歩くのもぎこちなかった。
だが、形から入ったことが次第に功を奏したようだ。今では、やり手のイケメン若手二代目社長として、経営者向けセミナーに引っ張りだこだ。先日も雑誌のインタビューで、大物サッカー選手と対談したばかりだ。
「僕の周期を把握してるくせに……周期でいったら、ヒートは来週くるはずだ。来週は人前に出る仕事を入れるなと言っただろ」
奏は自分と同い年の秘書を睨む。社長である奏に承諾を得ることなく、スケジュールを入れてくるのはいつものこと。だが、今回ばかりは文句を言わずにはいられなかった。
「もちろんです。しかし、自分の体調を管理することも社長の仕事なのでは? 先日対談した金本選手も、ヒートをピルでコントロールしているとおっしゃっていました」
「僕はサッカー選手じゃない」
「そうですね。あなたの仕事は経営です。だからこそ、ピルの処方も考えた方がよいかと。体もずいぶん楽になるといいますよ」
奏は椅子から立ち上がり、手元の契約書を男に向かって投げつけた。他人事だと思って、軽々しく提案する男が許せなかった。
この世界には男女の性別のほかに、アルファ、ベータ、オメガという三つの性別が存在する。
アルファは希少価値が高く、男女ともに身体能力や知能が高い傾向にある。そのため社会的地位を得やすく、官僚や医師や弁護士、そして会社経営者などの職種に多い。ベータは能力的に平均的で、世間ではいわゆる『普通の人』と揶揄され、人口が最も多いのが特徴だ。
そして三つ目の中で一番人口の割合が少なく、男女ともに妊娠できる生殖能力に特化した性別――それがオメガだ。オメガはその能力ゆえ、ヒートという発情期が訪れるたびに、アルファの発情を促すフェロモンを体から放つ。
フェロモンの威力はすさまじく、昔より精度の高いピルや抑制剤が出回った現代でも、オメガのフェロモンに当てられたアルファによる性犯罪事件のニュースをたまに聞く。
バース性検査を受けたのは、奏が高校一年生の学校の健康診断だった。奏はそこで、オメガと診断されたのだ。
当時、奏のまわりはアルファばかりだった。両親も祖父母も、一人っ子の奏と幼い頃から遊んでくれた従兄弟たちも、全員だ。そんなアルファの家系において、自分だけがオメガだったことが、当時はショックだった。
自分はこの家の子ではないのかもしれない。考えると怖くなり、当時の奏は検査の診断結果を両親に見せることができなかった。
だがそれは思ったより早く、あっさりとばれた。学校に行っているあいだに部屋を掃除しようとした母が、ゴミ箱の中にくしゃくしゃの紙を見つけたのだ。
その夜、早速家族会議が行われた。最悪追い出されてしまうんじゃないかとびくびくする奏に、父は言った。
「くだらない。オメガがなんだ。アルファがなんだ。おまえが私たちの子どもであることは変わらない。なあ二代目候補」
父の励ましに、奏は泣いた。不安だった気持ちに寄り添い、払拭してくれた父。『二代目候補』と冗談っぽく言いつつ、プレッシャーを与えてこない父――。
この時、奏は心に決めた。父の名に恥じない人間になろう。父に何かあった時、父の会社を守れる人間になろう――と。
だが、それも数十年後の話だと思っていた。父とその話をしてから十年も経たずして、あっけなく父が逝ってしまうとは思わなかった。
高辻は一歩前に出て、奏が床に投げ捨てた契約書を拾った。埃を払うように書類をひらひらさせてから、社長机の上に置く。
「社長ともあろう方が契約書を粗末にするとは感心しませんね。この一枚にどれだけの重みがあるのか、あなたが一番に分かっているはずでしょうに」
「それはおまえが……っ」
「私が?」と威圧感のある声で遮ると同時に、見下すような視線を奏に落としてくる。
高辻は奏の傍に立つと、奏の頭の位置に肩がくるほど高身長の持ち主だ。ぴっちりとセットされた黒髪には隙がなく、高辻から抑揚の少ない声と感情の見えない視線を浴びせられると、奏はいつも見えない針でこめかみを刺されたような気分にさせられる。
知らない者からすれば、高辻の切れ長の瞳からは、理性的や合理主義の言葉が浮かぶかもしれない。仕事に感情など持ち寄らない男に見えることも、あるだろう。たしかにそういった一面も、高辻にはある。
奏が継いだ父の会社は、アプリ上で気軽に医療従事者と話すことができ、健康の不安や何科にいけばいいかを相談できるwebカルテサービスのアプリ『ナニカカ』を世に広めたベンチャー企業だ。
社員は医療職に従事していた者が多く、看護師免許や保健師免許、中には医師資格を持つ社員もいる。だが、医療職としての腕はいいものの、法律や会社の仕組み、制度に詳しい者は少ない。
そんな中、書類整理などの事務仕事や雑用、営業から人事までを一人で取り仕切っているのが、高辻だった。
膨大な仕事量を淡々とこなしているように見える高辻に、多くの社員が畏れの念を抱いているのだろう。仕事着であるスーツをビシッと着込んだ高辻が、パーテーションで区切られただけの解放感のあるオフィスに入ってくると、社員たちの佇まいや表情が、心なしかピンと張るように見える。
その様子を唯一ガラス窓とブラインドで区切られた社長室から窺えるたび、奏は複雑な気分になるのだった。
高辻ほどできる秘書はいない。けれど、奏はこの男ほど仕事に私情を挟む人間を、ほかに知らないからだ。
奏が社長椅子に乱暴に腰を下ろすと、高辻は会社の実印を奏の右手近くに置いた。
「アルファの私には、どうせあなたの気持ちがわからない――と言いたいのでしょう。ですが私はあくまでもあなたの体と仕事の兼ね合いから、ピルの服用を勧めているんですよ」
「……ピルは飲みたくない」
我ながら駄々っ子のようだと思う。だが、飲みたくないものは飲みたくないのだ。高辻はあからさまに呆れたようなため息をついた。
「言っておきますが、何度ねだられようと私があなたを抱くことはありません」
こちらの魂胆なんてお見通しというわけか。
ヒートが訪れる時期になると、高辻はわざとその時期に奏のスケジュールをいっぱいに詰め込んでくる。そして、奏にピルの服用を勧めてくるのだ。
ピルはヒートの時期をコントロールするだけでなく、服用中はフェロモンの濃度を薄めるし、ヒート時の吐き気や心身の性的疼き、食欲減退などの重症状を軽減する効果がある。何より妊娠する確率もガクンと減る。
現代においてピルを服用することは、スポーツ選手だけでなく、キャリアを積みたいと考えるオメガにとって必需品なのだ。奏の知り合いにもオメガの経営者が数名いるが、みなピルを積極的に活用していると言っていた。
それでも……奏はピルを飲みたくなかった。
「だんまりになられても、私はあなたの秘書です。要望にお応えすることはできかねます」
奏を見下ろす目は、冬の夜空に感じる風より冷たい。
「二人きりの時ぐらい……昔のように呼んでくれたっていいじゃないか」
「いえ。雇われの身として、あなたを呼び捨てることはできません」
奏は目の奥がツンと痛むのを感じる。何度断られても、しつこく同じことを口にしてしまう自分に呆れる。
奏が高辻と出会ったのは、十三年前の春。奏も高辻も、高校一年生だった。奏はその当時から高辻に恋をしている。
高辻に自分の会社に来ないかと誘ったのは、五年前のことだ。高校の同級生から秘書と社長という関係になった今も、不毛な感情を、この男に抱き続けている。
一度でいいから、高辻に抱かれたかった。後悔されてもいい。軽蔑されてもいい。自分のフェロモンに当てられた高辻に、めちゃくちゃにされたかった。
ヒート状態に乗じて「抱いてくれ」と頼んだのも、一度や二度の話じゃない。こちらの想いを知っている男に断り続けられ、最後は抑制剤を打たれて終わりなのに、奏はそれを言うのをやめられなかった。
奏は朱肉にトントンと判を弾ませる。契約書に判子を押しつけ、「送っておいてくれ」と高辻に雑な手つきで渡す。
「かしこまりました。それでは、後ほど資料をお渡ししますので、再来週金曜日のセミナーで話す内容を考えておいてください」
契約書の判子を確認すると、高辻は表情一つ変えずに社長室から出て行った。
一人きりになり、奏は床を蹴って社長椅子をくるりと回し、梅雨の雨粒を弾いた窓側に自分の正面を向ける。
窓の向こうには、雨でくすんだ虎ノ門のオフィス街が見渡せる。工事中の一帯もあるが、三十階にある奏のオフィスはいたって静かだ。
家賃だけで月三桁はくだらないこの場所にオフィスを構えられるオメガは、世間でも一握りだ。しかもアルファ一家で唯一のオメガにもかかわらず、家族には受け入れられている。
さいわい、ニュース特集やSNSで見聞きするようなオメガが受ける酷い待遇や差別にも、遭ったことはない。
世間一般の目からすると、何もかもを手に入れたオメガに映るのだろう。ビジネス雑誌で『成功するオメガの経営者は何が違うのか』という鼻白むタイトルで、特集記事を組まれたことがあるのがその証拠だ。
けれど奏に、特別満たされているという実感はなかった。
喉が渇いている。腹が減っている。そんな感覚が、常に憑きまとっている。高辻以外の男も女も考えられないから、誰かと寝たこともなければ、付き合ったこともない。
三ヶ月に一度、好きな男の名前を呼びながら、自分で自分を慰めている、ただの男のオメガ――それが、芦原奏という人間なのだ。
奏は手の中の契約書をデスクの上に投げ、厚みのある社長椅子の背もたれに体を沈めた。
「来週は予定を入れるなと言ったはずだぞ。しかもセミナーといっても、どうせ僕にベラベラ喋らすだけの講演会みたいなものだろう」
「会場の規模や参加人数を考えれば、そうとも言えますね」
奏のスケジュールを表示させたタブレット端末に目を落としながら、高辻は答える。
「今回のセミナーは、いま急成長中の『アラクティ』の社長もいます」
「フリマアプリの会社か」
「はい。お互いベンチャー企業、お知り合いになっておいて損はないかと」
「医療系のウチとは業種が違うんだぞ。それにああいうチャラチャラした社長は好かない」
脚を組み替えて言うと、高辻は呆れるように短いため息をついた。社長に向かって不満の息を隠さない秘書は、日本全国を探してもこの男ぐらいだろう。
高辻が呆れるのも、たしかに分からなくもない。他人を指摘できるほど、奏は自分が真面目な見た目をしていないと自覚している。
額を見せるようにかき上げた茶色がかった短髪は毎日ワックスで逆立つようセットしているし、手首にはシンプルだがブランドの腕時計。足元は常にオーダーメイドの革靴で覆われている。それに加え、少し抜け感のあるイタリア製のカジュアルスーツを着た若社長といえば、遊び慣れていると思われても仕方がないかもしれない。
心不全で突然死した父親の会社の社長に、二十四歳という若さで就任してから約五年。もともと大きな二重に、低い鼻、薄い唇、おまけにギリギリ百七十センチにいくかいかないかの身長は、奏をすぐに威厳のある社長にはしてくれなかった。
社長に就任したての頃は、世話になっている銀行マンの勧めで参加した経営者交流会で、出会った経営者たちからことごとく馬鹿にするような態度をとられたものだ。自分の会社だというのに、年下の新入社員から同期だと思われたのか、トイレの場所を訊かれたこともある。
その度に、奏は見た目でしか判断しない周りの連中を心の中で罵った。同時に、肩書に追いついていない自分の見た目を恥じた。
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そう自分に言い聞かせ、この五年間、奏はあえて自分の苦手とする社長像を追求してきた。はじめは背筋を伸ばして肩を張りながら歩くのもぎこちなかった。
だが、形から入ったことが次第に功を奏したようだ。今では、やり手のイケメン若手二代目社長として、経営者向けセミナーに引っ張りだこだ。先日も雑誌のインタビューで、大物サッカー選手と対談したばかりだ。
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奏は自分と同い年の秘書を睨む。社長である奏に承諾を得ることなく、スケジュールを入れてくるのはいつものこと。だが、今回ばかりは文句を言わずにはいられなかった。
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「僕はサッカー選手じゃない」
「そうですね。あなたの仕事は経営です。だからこそ、ピルの処方も考えた方がよいかと。体もずいぶん楽になるといいますよ」
奏は椅子から立ち上がり、手元の契約書を男に向かって投げつけた。他人事だと思って、軽々しく提案する男が許せなかった。
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そして三つ目の中で一番人口の割合が少なく、男女ともに妊娠できる生殖能力に特化した性別――それがオメガだ。オメガはその能力ゆえ、ヒートという発情期が訪れるたびに、アルファの発情を促すフェロモンを体から放つ。
フェロモンの威力はすさまじく、昔より精度の高いピルや抑制剤が出回った現代でも、オメガのフェロモンに当てられたアルファによる性犯罪事件のニュースをたまに聞く。
バース性検査を受けたのは、奏が高校一年生の学校の健康診断だった。奏はそこで、オメガと診断されたのだ。
当時、奏のまわりはアルファばかりだった。両親も祖父母も、一人っ子の奏と幼い頃から遊んでくれた従兄弟たちも、全員だ。そんなアルファの家系において、自分だけがオメガだったことが、当時はショックだった。
自分はこの家の子ではないのかもしれない。考えると怖くなり、当時の奏は検査の診断結果を両親に見せることができなかった。
だがそれは思ったより早く、あっさりとばれた。学校に行っているあいだに部屋を掃除しようとした母が、ゴミ箱の中にくしゃくしゃの紙を見つけたのだ。
その夜、早速家族会議が行われた。最悪追い出されてしまうんじゃないかとびくびくする奏に、父は言った。
「くだらない。オメガがなんだ。アルファがなんだ。おまえが私たちの子どもであることは変わらない。なあ二代目候補」
父の励ましに、奏は泣いた。不安だった気持ちに寄り添い、払拭してくれた父。『二代目候補』と冗談っぽく言いつつ、プレッシャーを与えてこない父――。
この時、奏は心に決めた。父の名に恥じない人間になろう。父に何かあった時、父の会社を守れる人間になろう――と。
だが、それも数十年後の話だと思っていた。父とその話をしてから十年も経たずして、あっけなく父が逝ってしまうとは思わなかった。
高辻は一歩前に出て、奏が床に投げ捨てた契約書を拾った。埃を払うように書類をひらひらさせてから、社長机の上に置く。
「社長ともあろう方が契約書を粗末にするとは感心しませんね。この一枚にどれだけの重みがあるのか、あなたが一番に分かっているはずでしょうに」
「それはおまえが……っ」
「私が?」と威圧感のある声で遮ると同時に、見下すような視線を奏に落としてくる。
高辻は奏の傍に立つと、奏の頭の位置に肩がくるほど高身長の持ち主だ。ぴっちりとセットされた黒髪には隙がなく、高辻から抑揚の少ない声と感情の見えない視線を浴びせられると、奏はいつも見えない針でこめかみを刺されたような気分にさせられる。
知らない者からすれば、高辻の切れ長の瞳からは、理性的や合理主義の言葉が浮かぶかもしれない。仕事に感情など持ち寄らない男に見えることも、あるだろう。たしかにそういった一面も、高辻にはある。
奏が継いだ父の会社は、アプリ上で気軽に医療従事者と話すことができ、健康の不安や何科にいけばいいかを相談できるwebカルテサービスのアプリ『ナニカカ』を世に広めたベンチャー企業だ。
社員は医療職に従事していた者が多く、看護師免許や保健師免許、中には医師資格を持つ社員もいる。だが、医療職としての腕はいいものの、法律や会社の仕組み、制度に詳しい者は少ない。
そんな中、書類整理などの事務仕事や雑用、営業から人事までを一人で取り仕切っているのが、高辻だった。
膨大な仕事量を淡々とこなしているように見える高辻に、多くの社員が畏れの念を抱いているのだろう。仕事着であるスーツをビシッと着込んだ高辻が、パーテーションで区切られただけの解放感のあるオフィスに入ってくると、社員たちの佇まいや表情が、心なしかピンと張るように見える。
その様子を唯一ガラス窓とブラインドで区切られた社長室から窺えるたび、奏は複雑な気分になるのだった。
高辻ほどできる秘書はいない。けれど、奏はこの男ほど仕事に私情を挟む人間を、ほかに知らないからだ。
奏が社長椅子に乱暴に腰を下ろすと、高辻は会社の実印を奏の右手近くに置いた。
「アルファの私には、どうせあなたの気持ちがわからない――と言いたいのでしょう。ですが私はあくまでもあなたの体と仕事の兼ね合いから、ピルの服用を勧めているんですよ」
「……ピルは飲みたくない」
我ながら駄々っ子のようだと思う。だが、飲みたくないものは飲みたくないのだ。高辻はあからさまに呆れたようなため息をついた。
「言っておきますが、何度ねだられようと私があなたを抱くことはありません」
こちらの魂胆なんてお見通しというわけか。
ヒートが訪れる時期になると、高辻はわざとその時期に奏のスケジュールをいっぱいに詰め込んでくる。そして、奏にピルの服用を勧めてくるのだ。
ピルはヒートの時期をコントロールするだけでなく、服用中はフェロモンの濃度を薄めるし、ヒート時の吐き気や心身の性的疼き、食欲減退などの重症状を軽減する効果がある。何より妊娠する確率もガクンと減る。
現代においてピルを服用することは、スポーツ選手だけでなく、キャリアを積みたいと考えるオメガにとって必需品なのだ。奏の知り合いにもオメガの経営者が数名いるが、みなピルを積極的に活用していると言っていた。
それでも……奏はピルを飲みたくなかった。
「だんまりになられても、私はあなたの秘書です。要望にお応えすることはできかねます」
奏を見下ろす目は、冬の夜空に感じる風より冷たい。
「二人きりの時ぐらい……昔のように呼んでくれたっていいじゃないか」
「いえ。雇われの身として、あなたを呼び捨てることはできません」
奏は目の奥がツンと痛むのを感じる。何度断られても、しつこく同じことを口にしてしまう自分に呆れる。
奏が高辻と出会ったのは、十三年前の春。奏も高辻も、高校一年生だった。奏はその当時から高辻に恋をしている。
高辻に自分の会社に来ないかと誘ったのは、五年前のことだ。高校の同級生から秘書と社長という関係になった今も、不毛な感情を、この男に抱き続けている。
一度でいいから、高辻に抱かれたかった。後悔されてもいい。軽蔑されてもいい。自分のフェロモンに当てられた高辻に、めちゃくちゃにされたかった。
ヒート状態に乗じて「抱いてくれ」と頼んだのも、一度や二度の話じゃない。こちらの想いを知っている男に断り続けられ、最後は抑制剤を打たれて終わりなのに、奏はそれを言うのをやめられなかった。
奏は朱肉にトントンと判を弾ませる。契約書に判子を押しつけ、「送っておいてくれ」と高辻に雑な手つきで渡す。
「かしこまりました。それでは、後ほど資料をお渡ししますので、再来週金曜日のセミナーで話す内容を考えておいてください」
契約書の判子を確認すると、高辻は表情一つ変えずに社長室から出て行った。
一人きりになり、奏は床を蹴って社長椅子をくるりと回し、梅雨の雨粒を弾いた窓側に自分の正面を向ける。
窓の向こうには、雨でくすんだ虎ノ門のオフィス街が見渡せる。工事中の一帯もあるが、三十階にある奏のオフィスはいたって静かだ。
家賃だけで月三桁はくだらないこの場所にオフィスを構えられるオメガは、世間でも一握りだ。しかもアルファ一家で唯一のオメガにもかかわらず、家族には受け入れられている。
さいわい、ニュース特集やSNSで見聞きするようなオメガが受ける酷い待遇や差別にも、遭ったことはない。
世間一般の目からすると、何もかもを手に入れたオメガに映るのだろう。ビジネス雑誌で『成功するオメガの経営者は何が違うのか』という鼻白むタイトルで、特集記事を組まれたことがあるのがその証拠だ。
けれど奏に、特別満たされているという実感はなかった。
喉が渇いている。腹が減っている。そんな感覚が、常に憑きまとっている。高辻以外の男も女も考えられないから、誰かと寝たこともなければ、付き合ったこともない。
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